・・・ 基地の街の思い出 ・・・

 筆者が少年時代をすごしたところは基地の街でした。あれからなんと、ん十年、 たまに帰ることもありましたが、改めてふるさとの街を思い出してみたいと思います。
 
(2006年4月記)
(2007年8月追記)

 横須賀は明治に設立された海軍鎮守府以来の基地の街です。 幕末のこの地に「横須賀製鉄所」が設置されました。そして明治になってから「横須賀造船所」、 以後「横須賀海軍工廠」となり、横須賀鎮守府、東京湾要塞司令部など軍事施設がおかれてきました。 造船ドックからは次々と戦艦が建造され、軍港都市、基地の街として発展してきました。

 1945年8月、太平洋戦争が終わると旧軍施設は平和産業へと転換され、工業都市として 発展するかに見えたのですが、海軍工廠等は米軍に接収され、横須賀は引続き基地の街となっています。

 昭和30年前後の当時の光景の中からいくつか記憶をたどってみた中から紹介します。

 市内を走る電車を周囲の大人たちは「しょうなん」、「しょうせん」といっていました。 子供心によく分からずにいたのですがやがて状況が理解できるころに「しょうなん(湘南)」とは 京浜急行のことであり「しょうせん(省線)」とは国鉄(今のJR)横須賀線であることがわかったのです。
 湘南は市の中心部を4両位の短い編成で走るのに対し、省線は10両以上の長い編成で加速もゆっくりと 走ることに明らかな違いを感じたものです。そして省線の横須賀駅は町のはずれのちょっと不便なところにありました。 つまり暮らしより軍事を優先していたということでしょうか。

 当時の横須賀駅の様子はホームの形状を含めて今もほとんど変わっていません。変わったといえるのは 駅の奥に広がるヤードの部分です。もっと広かったと思うのですが、たぶんマンションに変わってしまったのでしょうか。 そして残された線路も錆びて草が生えている状態です。

 それにしても久しぶりに降りました。しかも“Suica”で降りようとは・・・。

 ところで横須賀駅にはちょっとした特徴があります。1番線ホームがないことと、駅の内外を含めて 階段がないことです。段差すらありません(スロープはあります)。 1番線ホームは天皇陛下専用のホームで改札からホームに向って右手の今のトイレのあたりにありました。 わずかにホームの形が確認できます。

 それと、この駅は横須賀線の終点であったことから終着駅の構造をしている2番線と、今もって単線である 久里浜方面との乗降のための3番線だけで成り立っています。つまり線路を跨ぐ必要がないので 階段はいらないのです。これについてはほかに、軍港に関連して天皇陛下がお見えになった時のことを配慮して 階段のない設計をしたのだという説もあるようです。 

 駅を出るとすぐにヴェルニー公園があってその前に海が広がっています。海といっても見えるものは 自衛艦や米軍の艦船ばかりです。それもそのはず、見える範囲の海域一帯は制限海域となっていて漁船、 商船などは入ってこれないのです。
 当時この公園は「臨海公園」といっていましたが海方向の景色はまったく変わっていません。

 公園の対面は米軍基地になっていますが、元は横須賀造船所で当時の3本のドライドックは今も健在です。 ちょっとわかりにくいが黒い部分3箇所が、ドックの扉部分で、右から第1号、第2号、第3号ドライドックと なっています。
 ちなみにヴェルニーとは明治の初期に横須賀製鉄所をつくりあげたフランス人技師で、 公園の隅にその功績を伝える記念館が建てられ、造船用のスチームハンマーなどが収められています。

 造船所といえばかつて住友重機の造船所やメリヤス工場、靴下工場などがあったあたりは 様子が一変しています。臨海公園のこの位置からはガントリークレーンという鉄骨で四角く船を囲むようにした 巨大な造船設備が見られました。これは大正2年に竣工した旧海軍工廠のシンボルでしたが、米海軍に接収され、 後に返還されたのですが昭和50年に解体されてしまいました。 (「旧軍港市転換法」、いわゆる軍転法といって軍用地、軍施設は民間に払い下げられ、 このクレーンも住友重機械工業に払い下げられてしばらくの間、造船は続いていました。)

 その後は撤去されて更地となり、大型民間商業施設に建て替えられました。 基地の町の印象は少しずつ消えてゆくようです。ガントリークレーンは突端の足場だけが残っていました。 (奥の建物は米軍基地内)

 《ガントリークレーン画像》← ガントリークレーンとはどのようなものであったのか、横須賀市のホームページから引用させていただきました。


 実はこのページをご覧になった横須賀市在住の方から昭和42年に撮影したという ガントリークレーンの写真をご提供いただきましたのでここに掲載させていただきます。
 汐入駅近くの丘の上から撮影されたとのことで、EMクラブをはじめ遠く記念艦三笠や猿島までもが 写っています。

 さらにご丁寧なことにほぼ同じ場所から撮影したという最近(2007.8月)の画像も ご提供いただきましたので40年経った今の姿をダブらせてみてください。



 海と国道に挟まれた細長い臨海公園(ヴェルニー公園)の国道側には道路との境に一本の線路が敷かれていて、 たまに小さい蒸気機関車がゆっくりと走っていました。これは基地内への引込線だったと思われますが、 コンクリート塀の続く殺風景な工場群とともにあとかたもなく消えてしまいました。 この画面右手の位置から左奥に向って東京靴下の工場方向に延びていた記憶があります。
 ついでですが、正面の建物は米軍の娯楽施設「EMクラブ」のあった跡地にできた横須賀最大のビル 「横須賀芸術劇場」です。さらにその奥が京浜急行汐入駅になりますが、当時は汐留駅といっていて その汐留駅とEMクラブの間には市民会館があり小学校の学芸会などで使われました。

 通称EMクラブ(米海軍下士官兵集会所)は基地の外にあり、周辺にはドブ板通りといわれる スーベニアショップや歓楽飲食店のならぶ一帯がありました。基地正門は国道16号線を挟んで海側にあります。 ベースと呼んでいて、この基地に働く近所の人は多勢いました。旧海軍の横須賀鎮守府の建物が 現在も在日米海軍司令部として使用されているとのことですが外からは確認できません。

 ちなみにこの画像は2004年3月時点のもので、 2006年の現在、真正面に歩道橋が作られていてとんでもない景観になっています。 

 「どぶ板通り」にはたたんだ店が多くなっていますが、スカジャンが見られるなど今も 雰囲気は変わっていません。当時は白いセイラー服を着た背の高い水兵さんが三々五々と連れ立って歩いていました。 その脇でアコーデオンを鳴らす傷痍軍人が立っていくばくかのカンパ(募金、施し)を期待していたり、 胡散臭い大道芸人がいかさま商売をやっ ていたりと、それなりに喧騒に包まれた町でした。たまに酔いつぶれた水兵さんが乱痴気騒ぎをするので、 取締りのSP(Shore Patrol:アメリカ海軍憲兵)が腕章をつけて警棒片手にパトロールをしていました。
 別の(裏の)場面では、水平さんたちを相手にする日本の女性たちも多くいました。 派手な衣装を身に付け、連れ立って歩いて普通の民家に入っていくのでした。醤油のように 茶色い色のサイダーのような飲み物がコーラというものであることを知ったのもこの頃でした。

 一方、横須賀重砲兵連隊というのが明治のころから存在し、日清・日露戦などに出兵していました。 戦後、その土地と建物は坂本中学校、不入斗中学校の校舎として転用されました。 同じ敷地にある現桜小学校はその前身である青葉小学校が汐入小学校の分校(増え続ける生徒のため学校を新設した) であったころ通学しましたが、当時校庭は練兵場といっていて、草ぼうぼうのバッタばかりいる原っぱでした。
 その小学校はこの正門を入った右手にあったのですが、左手にはレンガ造りの不気味な建物が あったのを覚えています。入ってはいけないと教えられていましたが、後に幼稚園になりました。 その正門は今も残されていて市民文化遺産に指定されていました。
 中学生になった筆者は再びこの門を通り、古い木造校舎のままの坂本中学校へと通いました。 (余計なことですが、隣の不入斗(いりやまず)中学校にはその後あの山口百恵さんが通ったということです)

 こうして町の中を懐かしく歩いてみると、少年のころの目線が いかに低かったかが良くわかります。また、行動範囲も小さく狭かったです。 隣の町に行くのもずいぶん遠い空間に感じていました。ほとんど変わってしまった中にもかすかに思い出せる建物、 商店、路地があり、遊んだ記憶がよみがえります。良い散歩でした。
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