越中島貨物線は新砂1丁目を踏切りで渡り越中島貨物駅貨物駅へと入っていきます。
ここまでずっと架線がありません。越中島貨物駅貨物駅は通常の貨物の取り扱いはなく、レール輸送が専門のようです。
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越中島貨物駅はJRバスの車庫にもなっているようです。京葉線はこの位置から東京駅へと
地下にもぐって行きます。
上にかかる歩道橋から貨物駅の先を見ると線路は行き止まりとなっています。ちなみにここまでがJRで、
そしてここからが東京都港湾局の管轄となるそうです。
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行き止まりの先の高層マンションの間の開いた空間をたどっていくと、ところどころに線路の残骸を
見つけることができます。駐車場になっているところが多いようですが、何もない空き地に
「都有地につき立ち入り禁止」とあり、東京都管轄であることがわかります。
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豊洲運河を渡る部分の橋は撤去されて橋脚だけが残されていました。
あたりには大きな商業施設やマンションができ、さらに「ゆりかもめ」の豊洲乗り入れで
様子が一変しつつあります。IHIの工場近くや豊洲埠頭側についてはこれといった痕跡は見つけられません。
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晴海埠頭側に分岐した線路は春海橋(ここだけ「晴海」ではない)の南側をきれいな橋で渡ります。
こちらの路線の名前を東京都港湾局晴海線といいます。橋の名前は「晴海橋梁」。
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潮風にさらされ真っ赤に錆びてはいるが形がとても美しい。橋にはガーター橋やトラス橋があるのですが、
この橋の場合はローゼ橋という形式のようです。優美な橋桁は塗装されることもなく、
貨物線の存在していたことをアピールしているように見えます。
(「ローゼ橋」とは、ローゼと呼ばれるアーチ状の橋を中央に用い、その前後にプレストレスト・コンクリート
(PC)の連続桁を架けたものとのこと。そしてローゼは考案者であるドイツの橋梁技術者の名前から来ています。)
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晴海埠頭に入ると、セメント工場の前を分岐しつつ抜けてヤードに向っています。
(画面の正面がセメント工場で右手がヤード側です。左手の橋方向にはフェンスがあって入れません。)
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しかしヤードのほとんどは既に埋め尽くされ、中間のわずかなスペースにその跡が見られるだけでした。
ましてや機関庫跡もないし、その先の晴海埠頭倉庫側に向うエリアはガードマン付のフェンスで囲われ
再開発の真っ最中でした。
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トラック輸送に押されたこの貨物線は、1989年(平成元年)に廃止されました。
2005年(平成17年)の夏まではヤードに入って左手方向に機関庫およびその中の機関車が
まだ存在していたということで、気づくのが少しばかり遅かったようです。
これはその機関庫側に分岐する線路跡です。
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この画像も同じく1972年(昭和49年)の汐留駅付近です。(国土地理院:国土情報WEBより)
(クリックで少しだけ大きくなります)
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その旧・汐留駅から築地市場へ向かって長さ1.1qの短い貨物線がありました。東京市場線とも呼ばれました。
築地市場の特徴的なカーブに沿って線路と貨車が見えます。国鉄「東京市場駅」です。
この場所で青果物、魚介類などの荷扱い、荷捌きをしていたものと思われます。
物流の主役は船から貨物列車へと変わりましたが、それもやがてトラック輸送となります。
そしてここからの最後の鮮魚列車が出たのは1987年1月31日のことでした。
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かつての汐留貨物ヤードは縦方向に伸びる高層ビル群に覆いつくされていました。汐留シオサイトとして
日テレをはじめ、電通本社やそのほか汐留何々というようなカタカナ文字のビルが並んでいます。
浜離宮恩賜庭園から見た景観は、ほんの何年か前とはぜんぜん違うのだろうと思います。
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この公園、元はといえば徳川将軍家の庭園で海水を引き入れて池としています。
時は早春、菜の花の群生の向こうに見える風景も何かバランスが良いのか悪いのか・・・。
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首都高の下、銀座郵便局の脇から朝日ホールにかけてのホンの短い区間に貨物引き込み線の跡を
たどることができます。
首都高の下にはそのときの信号機が残されていて、これは「銀座に残された唯一の鉄道踏切信号機」
として地元の方々の熱意により永久保存されているものです。名前を「浜離宮前踏切」といい、
昭和6年から昭和62年までの56年間使用されました。(信号機下の説明盤より)
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信号機から東方向にゆるくカーブしながら線路跡が続きます。しかし距離としては青果門前まで
約300mほどでしかありません。
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元は汐留川だったところの首都高速道路にかかる新尾張橋をわたって築地市場に向っています。
左手は浜離宮朝日ホールです。
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青果門の先の、いわゆるカーブした建屋のあたりには当たり前ですが、何も残ってはいませんでした。
(実は、「東京市場駅」のプラットホームはそのまま残っていて、「2番」の柱やひさしもそのままだそうです。
:朝日新聞記事より)
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(以下、築地市場公式ホームページより)
「魚河岸の名で親しまれる東京都中央卸売市場築地市場。昭和10年の開設以来、巨大都市東京の
食生活をささえて、既に60年の月日が流れました。
大正12年9月、関東大震災が東京を直撃、未曾有の災害はすべてを焼きつくし、長い歴史を誇った
日本橋魚河岸はその幕を閉じました。震災直後、芝浦に仮設市場が設けられましたが、同年12月には、
交通の便が悪く、狭いなどの理由から、東京市は海軍省から築地の用地の一部を借り、芝浦から移転させました。
これが築地市場の始まりです。
昭和10年2月、築地に広さ22万平方メートルの東京都中央卸売市場が開設されました。
市場へ集まる生鮮食料品は旧汐留駅から引き込線を通して貨物で、また隅田川岸壁の桟橋から船で運ばれてきました。このため扇状の建物が建てられたのです。」
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