・・・ 基地へと続く貨物線(1) ・・・

 航空基地へのロジスティックス(補給路)としてジェット燃料輸送は欠かせないものです。 終戦後、アメリカ軍厚木飛行場への航空燃料輸送は相模鉄道(相鉄線)が行っていて、 相模大塚駅から専用線が分岐していました。

 一方、青梅線拝島駅のヤードから分岐して横田基地へと続く引込線があり、 米軍の燃料輸送を担っています。こちらは廃線でも休止線でもなく今なお現役です。
 
(2006年3月記)

 【厚木航空隊線】
 厚木基地といえば、第2次世界大戦の敗戦の年に進駐軍元帥ダグラス・マッカーサーがパイプを咥えて 最初に降りたった場所として有名です。
 厚木基地の正式名称は「厚木海軍飛行場」といい、現在米海軍は空母艦載機の本拠地として、 また海上自衛隊は対潜哨戒機や救難ヘリコプターの基地としてそれぞれ共同使用しています。 500万平行メートルという広い土地なのですが、じつは厚木市とは関係なく綾瀬市と大和市に所属しています。

 その厚木基地へは相模鉄道線の相模大塚駅から専用引込線があって、1998年(平成10年)まで 航空燃料の輸送が行われていました。元はといえば1941年(昭和16年)に開設された 「相模野海軍航空隊(厚木)飛行場」への軍用線として引かれたものです。

 燃料輸送はJR鶴見線安善駅やJR横須賀線田浦駅から横浜や厚木を経て相鉄線に入り、 相模大塚駅まできました。
 相模大塚から厚木基地への支線は地図を素直に見ると隣のさがみ野駅から分岐しているように見えるのですが、 それは本線運用上困難なのです。相模大塚の駅から下り線を利用していったん200mほどの側線に入り、 スイッチバックして厚木基地へと向かっています。この画像は相模大塚駅〜さがみ野駅間の踏切上のもので、 正面が相模大塚駅、そして立っている位置に分岐してきて側線に入り、右手方角の基地へと進んでいきます。

 分岐するとすぐに県道横浜厚木線を横切るのですが、ここを通るほとんどの車は 踏切り表示があるにもかかわらず停止することなく通過していきます。たぶん知ってのことだろうし、 第一、遮断機もなく目立たないのですから。

 引込線は軒をかすめるようにして進んでいくのですが、廃材が捨てられていたり、 木の枝が張り出していたりと、どうにも見苦しい状態です。

 錆びた線路に腐った枕木、緑青が出て青くなった架線、このまま朽ちていくのでしょうか。

 踏切りにはそれぞれ「○号踏切」と、かろうじて判読可能な表示で名前がつけられていました。 信号設備なども「航6」のようにふられ、まだまだしっかりしています。いずれも遮断機はありません。
 枕木は一部コンクリート製の区間もあって、架線の柱も木とコンクリートのものが混在していました。

 線路は東名高速道路の上を越えて行きます。近くに「PARKING FOR US FORCES PERSONNEL ONLY」の駐車場が ありました。あたりまえですが全てYナンバーでした。  

 基地に入るまでの距離は約800mです。フェンスのところにコンクリートブロックが置かれていました。 「WARNING」RESTRICTED AREA - KEEP OUT AUTHORIZED PERSONNEL ONLY と書かれています。 

 フェンスの隙間から基地内を覗いて見たのですが、線路は途中でいくつかに枝分かれしているようです。 それでも奥行きはせいぜい数百mと思われます。

 この引込線ですが、正確には相模鉄道のものではなく米軍より管理運営を委託されているもの ということです。以前は航空機用ジェット燃料がED10電気機関車に引かれたタンク車で運ばれていました。 現在はタンクローリー車での輸送に切り替わって、この路線は休止状態になっています。

 昭和20年8月30日、サングラスとコーンパイプ姿のマッカーサー元帥が厚木飛行場に着陸した。 実はその直前まで海軍厚木航空隊の一部が徹底抗戦を主張し抵抗する構えを見せていたという。 修理待ちの戦闘機を含めて多数の機体と爆弾、火気類で着陸を妨害しようとしていたが、 しかし司令官は説得され急ぎ場内整備が行われた。飛行機のプロペラをはずしたり、移動したり、 爆弾で開いた滑走路の穴を埋めたりと二日間の徹夜作業を続けて間に合わせた。こうして日本政府は 全力を注いで進駐軍を受け入れたのである。
 (参考図書:「地図から消えた東京遺産」(田中聡)より)


 平成18年3月5日(日)、相模鉄道「相鉄・鉄道フェア」が相模大塚駅構内で行われました。 このときED4重連が「かしわ台駅」をでて「海老名駅」で折り返し、「相模大塚駅」まで運転されたのです。
 (この画像は海老名駅に向ってくる場面を望遠撮りしたものです)

 このあと【横田基地】に続く

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