・・・ 調布飛行場の掩体壕 ・・・

 離島専門の小型航空機が離発着する調布飛行場、ここはかつて旧帝国陸軍の帝都防空部隊基地でした。 昭和16年に完成し、戦時中には特攻機も飛び立ったといいます。敗戦後は米軍に接収され、 昭和47年(1972年)に返還されたのち民間航空会社の飛行基地として使用されています。

 (2005年10月)
 (2006年 2月追記)
 (2007年 3月追記)

(画像をクリックすると拡大できます)

 調布飛行場は府中市、調布市、三鷹市の境界が複雑に入り組んでいますが、 戦時中はこの滑走路を中心としたこの飛行場周辺に戦闘機を格納し、敵の爆撃から保護するための掩体壕 (えんたいごう)が60基以上あったそうです。

 (2005年10月記)

 この画像のものは白糸台2丁目に現存するもので、甲州街道が西武多摩川線をまたぐ部分の 南側の住宅地にあります。野菜畑と駐車場に挟まれていて、うっかりすると見逃してしまうようなところです。

 中を覗くと、工事用の資材置き場として使われていました。
 この掩体壕の写真を撮っているときに、通りかかったおじさんに聞いた話では少し埋められていて 小さくなっているということです。もちろんこの甲州街道は存在しないので(旧の甲州街道はあった)、 飛行場までまっ平だったとのことです。当然ですが。

 ちなみに検索エンジンで「調布、掩体壕」で検索するといろいろな情報が得られます。 中でも気を引かれたのは調布飛行場の広さでした。あるサイトから このような画像 (注1)を見つけ、参考にさせていただきました。これによれば、当時京王線武蔵野台駅は「くるまがえし」、 西武多摩川線の白糸台駅は「きたたま」でした。飛田給はそのままで、西調布は「かみいしわら」 であったことがわかります。飛行場南の旧甲州街道沿いに11基あった掩体壕のうちの一番西側のものが 現存していることになります。

 (注1)出典:陸軍飛行第244戦隊 調布のそらの勇士たち(http://www5b.biglobe.ne.jp/~s244f/index.htm)

 (注2)2008年11月27日、この掩体壕はきれいに整備されて「旧陸軍調布飛行場白糸台掩体壕」 として府中市の指定史跡となりました。


 当時、この形の掩体壕(有蓋型という)は約30基ありました。 他に“コの字”型をした無蓋型約30基もあったのですが、いずれも戦争末期の本土決戦に備えて急造されたものです。 そのなかで現存するのは僅か4基だけです。そのうち調布飛行場の北のはずれにある2基の掩体壕を見に行きました。

 (2006年2月記)
 この画像は国土地理院による航空写真で1975年(昭和49年)の 調布飛行場上空からの一部です。
 このエリアはつい数年前までは調布苗圃(びょうほ:苗木の栽培場所)であったところで、 掩体壕の周囲は数十年の間に成長した樹木に覆われていました。仮に雑木林に埋もれていたにしても、 冬のこの時期ならよく見えるだろうと考えてのことでしたが、その心配はありませんでした。 というより「武蔵野の森公園」の造成整備工事の真っ最中で、2基の掩体壕はその姿をかつての現役時代と同じように 白日の下にさらしていました。


 まず、北に向けて開いているA地点のものですが、付近にあったと思われる数本の木は切り倒されていました。 工事中のための囲いがあって近づけない上に、開口部が金網で保護されているため内部の様子は良くわかりません。

 もう一つの南に向いているB地点のものですが、こちらはすでに記念構造物として 保存するための化粧がされつつありました。

 ちなみにこの近くにもう2基あったはずのものは、とうの昔に撤去されたようで 何の痕跡も見当たりません。 
 以上、白糸台のものを含めて3基は形、大きさが共に同程度です。背の低いビンを寝かせて 横にスライスしたように、入口は広く、奥が細くなっています。そしてエンジンの排気を逃がすためなのか、 細くなっているほうも筒抜けになっています。戦闘機を格納したという割にはかなり小さいと思いました。

 なお、現存する掩体壕は全部で4基なのですが、残る府中市朝日町の1基については私有地内のため 見ることはできません。この画像は外側からのものです。雑草に覆われていました。

 さて、その調布飛行場ですが今日では小型の飛行場として機能し大島、新島、神津島へと 1日20便程度の離着陸があります。
 昭和14年に当時の東京府が三鷹村、調布町、多磨村にまたがる広大な土地を買い上げ、 農家を移転させて建設に着手しました。そして昭和16年に「東京調布飛行場」として竣工させたのです。

 そのときの正門に設置された門柱がこれです。門柱にはよく見ると「東京」ではなく「東東調布飛行場」 と刻まれています。駐留した米軍の方がイタズラしたともいわれています。 なお、一対ある門柱のもう一方には何も刻まれていません。
(注):もともと東京の「京」の字は「亰」を使っていて、「東亰調布飛行場」 と彫られていたものと近くの説明版に記されていました。だからイタズラしやすかったんでしょうか。

 調布飛行場周辺の戦争遺跡について、調布市北部公民館主催の見学会があり 参加しました。

 (2007年3月記)


 先のB地点のものは「大沢1号」と名づけられ、劣化していたものが整備補強されて武蔵野の森公園内に 恒久的に保存されることになりました。前面には格納されていた「飛燕」が描かれ、 近くに同じく「飛燕」の1/10の模型とそれに飛行場の沿革や掩体壕に関する説明版が設置されていました。 ただ、中を覗くことはできない上にフェンスに囲まれてしまっていました。

 つづいてA地点のものも「大沢2号」として2重のフェンスで囲われていました保存されていました。 管理員の好意によりフェンス内に入り掩体壕の内部を観察することができました。 しかし当時粗製乱造された上に鉄筋も剥ぎ取られているため、地震があればつぶれる可能性もあるとのことでした。

 さらに残念なことに計画道路用地にかかるため撤去されることになっているらしいのですが、 工事着工未定のためしばらくは残るようです。
 その後、結果的にはギリギリで道路に接し残されています。



 飛行場の東にちょっとした高台が広がっているのですが、ここに「首都防衛高射砲陣地」がありました。 現在、保育園の敷地になっており、ここに6基あった高射砲台座のうち4基が現存しています。 ただこの高射砲、高高度を飛ぶB29には届かなかったそうです。なお、高射砲部隊の兵舎は近くの 羽沢小学校のところにあったようです。


 右のものは園内で旗の掲揚台に利用されているもので、ほかにも花壇などに形を変えています。 また、園内敷地の隅のほうに「首都防衛高射砲陣地跡」と彫られた慰霊碑が建てられていました。 

 飛行場の北側から東側にかけて排水用の側溝があります。その側壁は玉石で仕上げられていて、 野川へと注がれています。この側溝もここに架かる橋とともに当時の遺構なのです。 
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