・・・ 米軍府中基地跡、関東村 ・・・

 20年以上前のことになりますが、小金井街道を走っているとパラボラアンテナが 2基見える場所がありました。あれは確か米軍基地の跡であると聞きましたが、今どうなっているのだろうかと 気になって訪ねてみました。

 (2005年10月記)
 (2006年2月追記)
 (2007年3月追記)

(画像をクリックすると拡大できます)

 府中市にも戦争の面影はあったのです。京王線東府中駅の北側には 現在航空自衛隊府中基地があります。ここは、かつて 旧帝国陸軍燃料廠があったところで、終戦後は米軍が極東第五空軍司令部と在日米軍司令部を 置いていたこともあります。
 1973年(昭和48年)に米軍府中基地は通信施設を除き全面返還されることになり、 芸術劇場や葬祭場が建設されました。このときに残された通信施設のある北側の一帯は 生涯学習センターを挟んでいまだ米軍施設のままです。

 府中から通称小金井街道を北上すると、府中の森公園の先に一本木というバス停があります。 その右側(東側)一帯は、鉄条網付フェンスで囲まれていて中に入ることはできません。 フェンスの中は鬱蒼とした雑木林が広がっていて、奥を見通すことさえできないのですが錆びた街灯などがあって 時代が感じられます。

 フェンスに沿ってその周囲を歩いてみるとところどころで中の様子が伺えます。
 電話ボックスのようにも見えるこれはたぶん道路に面したゲートでの立趙門番の待機小屋なのだと思います。

 基地の北側、浅間町2丁目の住宅地あたりからところどころでこのアンテナを覗き見ることができます。 鉄塔が一本と、パラボラが2基現存していました。
 逆光になってしまいましたが、2基はほぼ水平に北北東方向に向いていました。ということはその先は 米軍三沢基地なのでしょうか。

 この画像の左手はツタで埋もれてしまってはいますが建物です。

 ツタの絡まるというロマッチックな雰囲気を通り越して、完全に覆いかぶさっています。 2〜3階建ての低層集合住宅だと思われますが、窓や入口の雰囲気を見ることはできません。 冬になってツタが枯れれば何とか見られるのでしょうが。

 後日ツタの枯れた時期に見たものがこの画像です。 

 これら5棟ほどの建物群は互いに異なる方角を向いていて、よくあるアパート群のように 整然と並んではいません。1965年(昭和40年)に開催された東京オリンピックに合わせ、 東京代々木にあった米軍住宅、通称ワシントンハイツの代替地として、関東村とここ府中基地が利用されたのです。
 その建物群の隙間からもアンテナは見えます。

 この画像は東側にある慈恵院というお寺さんの駐車場越しに見たものです。
 近くに浅間山公園という高台があるので中の様子が見えないかと期待して登ってみたのですがはずれでした。

 この廃墟のような基地跡はすべてがフェンスで囲まれていて、しかも樹木などでさえぎられています。 南側にある府中市の施設、生涯学習センターの脇に基地内への唯一のゲートがあります。

 立ち入り禁止の警告表示がありましたが、 このゲートの様子からもこれらの通信設備は既に使用されていないと思いました。

 生涯学習センターの裏手から見た鉄塔です。奥にパラボラ2基と、右手方向に給水塔が見えます。

 南の一本木通りに面したところから金網越しにはきちんと東西方向に建てられた廃墟を見ることができます。 窓ガラスは破れ、中はもぬけのから。壁にはうすく「557」と建物番号がふられていました。

 さて、全体を見回したこの広さ、東京ドーム2個分というところでしょうか。

 現在、フェンスに囲まれた米軍府中基地跡はまったく手付かずのまま放置されています。 フェンスの外側からだけしか中の様子を掴むことはできませんが、その敷地内には南側に通信施設跡と思われる建物が 数棟あり、北側には低層(3階建て)集合住宅跡が5棟ほど残っています。 そして、敷地内のほぼ中央に巨大パラボラアンテナが2本、ほぼ水平に向け固定されています。
 このままいつまで残るのでしょうか、気になるところです。(2005年10月)

 ことのついでに米軍府中基地跡から東に約2kmのところにある関東村まで 足を伸ばしてみました。
 1965年(昭和40年)の東京オリンピック開催のとき、代々木にあった米軍施設と 通称ワシントンハイツと呼ばれた住宅は選手村として使用されることになりました。このため、 米軍関連施設は府中基地周辺と調布飛行場周辺に移転されたのです。つまり関東村とは、 調布飛行場近辺地域に移転してきた米軍施設や住宅を総称して付けられた名称なのです。

 左の画像は1947年(昭和22年)ころの代々木です。(国土地理院:航空写真より)
 上方中央は明治神宮、右やや上が原宿駅です。


 そして右の画像が1974年(昭和49年)ころの調布飛行場隣の関東村の一部です。 (国土地理院:航空写真を加工)
 黄色の直線は現在道路になっているところを想定して追記しました。

 関東村跡地のほぼ中央には人見街道から甲州街道へ抜ける道が新設され、道沿いには武蔵野の森公園が 造成されました。また警察学校や、東京外語大の立派な建物が立ち並んでいますが、 西武多摩川線の多磨駅近くにわずかに周囲をフェンスで覆われた区域が残っています。大きさでいえば 東京ドーム1個分程度だと思います。

 フェンスの中は草木に覆われ、建物全体の様子を見ることはほとんど不可能です。ただ、 南側のフェンス沿いに府中基地の建物と雰囲気の似ている廃屋を覗き見ることができます。(Aの建物)


 そして木立を中を見通すと何か建物があるようですが、 この画像はその建物を冬場に葉を落とした木の間から見通したものです。廃墟です。(Bの建物) 

 関東村跡地内にあった消火栓です。このエリアもやがて再開発され消えてしまうのでしょうか。

 関東村の歴史をさらに遡ると、そこは帝国陸軍が当時の調布町、三鷹村、多磨村にまたがる土地に造った 東京調布飛行場の一部でありました。戦後になって飛行場は進駐軍(米占領軍)に接収され、 西側には占領軍が消費する野菜を栽培するための農場が建設されました。当時、 ぎょう虫や回虫などの寄生虫が多かったため、日本の野菜は食べないで独自に水耕栽培を行なっていたのです。 一部には温室もあって当時からすでにブロッコリーなどが作られていたといいます。 その水耕農場の場所がそっくり関東村となったようです。

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