・・・ 立川近辺の廃なもの:遅かったシリーズ ・・・
 次々と消えていく古い構造物。今回は立川近辺で惜しくも消えてしまったものやかす かな形跡だけ残しているものを集めてみました。

Rev.1 2005.7  小平の給水塔ほか記入
Rev.2 2006.3  旧多摩青果市場跡を追記
Rev.3 2006.11 小平の給水塔に追記
Rev.4 2008.3  旧日立航空機変電所跡に追記
Rev.5 2010.10 中神側線について追記
Rev.6 2019.7  立飛の給水塔を追記

(画像をクリックすると拡大できます)


 2004年7月11日
 【小平の給水塔】
 小平市上水南町にある旧日本陸軍の施設でしたが、朝日新聞の地方版にこの給水塔取り 壊しの記事が掲載されていました。9日から23日に解体の予定と書いてあったので急いで見 に行ったのですがすでにこの状態でした。 遅かった、残念!
 この付近はもともと陸軍の技術研究所でした。レーダー探知や電波妨害など通信関係の 施設だったらしく、現在この地に情報通信研究機構(前身は郵政省電波研究所)があるのも無 関係ではなさそうです。長いこと公用地でしたが、昨年りそな銀行に所有権が移っていて銀行 名の入った解体のお詫び看板が掲げられていました。取り壊し前の姿はこのようなものでした。

 2006年11月
 この場所は小平市といってもほとんど小金井市との境にあり、サレジオ学園から東京学 芸大学のあたりに多摩陸軍技術研究所がありました。わずかな痕跡として本町小学校東側の道 路わきに「陸軍」と刻まれた石柱があります(判別しにくいですが)。

 そしてもう一つ、少し北に行った小金井市立上水公園には当時の技術研究所の建物 を利用した運動場の管理棟があったということですが、1年ほど前にすでに取り壊され、その 場所には別の新たな管理棟が建てられていました。 遅かった、残念! 


 2019年6月26日
 【立飛の給水塔】
 多摩モノレールの高松駅から見えるこの給水塔が以前から気になっていました。 場所は(株)立川飛行機:現立飛企業の敷地内にあり、入ることはできなかったのですが、たまたま五来幸平 さんの写真展が開かれ内部が公開されました。
 この給水塔は昭和13年にこの場所に建設されました。給水塔としては平成17年ごろ まで使用されたそうです。多摩都市モノレールは平成12年に全線開通していますからその時 はまだ使用中ということになります。最上部にある水槽の容量は50tです。 取り壊し前の姿はこのようなものでした。

 終戦後、この付近一帯は米軍に接収されていますが、他の建物同様この給水塔にも米軍が出入り したと思われ、階段踊り場付近の壁画(落書きのようなものですが結構きれい)は米軍が描いたものと いわれているそうです。  


 2005年7月17日
 【中神側線(陸軍航空工廠線)跡】
 中神側線はJR青梅線中神駅から旧立川飛行場(元陸軍航空工廠)に伸びていた引込線 (1.9km)です。戦前(昭和18年ごろ)に「陸軍航空工廠線」として敷設され、戦後は米 軍立川基地への補給線として使われていたそうです。近くの道路わきには「陸軍航空工廠」があったことを示す碑があります。  

 昭和52年(1977年)に立川基地が日本に返還された翌年に廃止されました。ただ、 つい最近(1997年ごろ)まで線路跡はそのままの形で放置されていたようですが、昭島市 の手によって撤去され、単なる道路に変わってしまいました。 遅かった、残念!

 引込線は中神駅から東に分岐し、昭島教会と公務員住宅バス停のあたりでカーブして北 に向います。直線で進んできた道はおよそ700mで上の画像の分岐点になり、ここで二又に 分かれるのですがどちらも立川基地跡地の北西端に至ります。民家の壁に沿って続く、カーブ した道です。
 現在は「中神引込線通り」と名前も付けられ、きれいに舗装された一方通行路兼歩行者 道路になっています。通りの名前に加え、せめてもの痕跡としてのポイントの遺構が分岐部分 に残されていました。

 古い航空写真によれば富士見通りをはさんで立川基地内に入った引込線線路は残堀川の ところで止まっています。しかし今、フェンスの内側を覗くことはできません。このエリアは 昭和記念公園の西側でありながら未転用地となっていて放っておかれたままなのです。
 ちなみに富士見通りから見える基地内の煙突の前にずばり「富士見通り」というバス停 がありますが、つい最近まで「ランドリーゲート」という名のバス停でした(古い文字が新し い名前のシールで隠されています)。基地ゲートの近くに兵士用衣類の洗濯工場があった からで、煙突は当時のボイラーのもののようです。

 ユーミンの“♪ふた駅ゆられてもまだ続いてる〜”という「LAUNDRY-GATEの想い出」とい う曲はこの場所を指したものです。そして東中神駅の東側でその「まだ続いてる〜」という金網 越しによく見ると門の形をした構造物が見られますが、これは陸軍航空廠立川支廠の門だという ことです。


 2005年7月17日
 【旧日立航空機変電所跡】
 東大和市にある戦争の遺構は文化財としてしっかり保存されています。都立東大和南公 園のこの辺り一帯は東京瓦斯電気工業株式会社(後に日立航空機株式会社立川工場)があって 航空機のエンジンを製造していました。いわゆる軍需工場で、中島飛行機武蔵製作所に続いて 米軍による本土攻撃の目標になりました。いま、その工場の跡地は公園となって変電所だけが 残されています。
 戦後も変電設備としてその後の工場(小松ゼノアなど)に電力を供給し続けたといい、実 は平成5年の12月までは現役だったようです。 遅かった、残念!

 この建物の四方の壁には無数の弾痕が見られますが、これは太平洋戦争末期になって艦 載機グラマンやB29による機銃掃射や爆撃を受けた跡です。多数の犠牲者も出ました。
 現在、建物全体がフェンスで囲まれ内部は公開されていません。また同工場内にはこの 変電所の西200mほどの所に給水塔があってこれも空襲を受けました。生々しい弾痕を残し ていたのですがすでに取り壊され、その一部だけが変電所跡のフェンス内に残されています。  

 2008年2月17日
 この工場が最初に米軍の攻撃を受けたのが昭和20年2月17日であったことから、毎 年この時期に戦争遺跡の写真パネル展が催され、このときには建物の内部に入ることができま す。
 艦載機グラマンによる爆弾投下により多くの犠牲者が出て以後、度重なる空襲を受け日 立航空機の工場は壊滅的な被害を受けたものの、この2階建て鉄筋コンクリートの変電所は爆 風にも負けず奇跡的に倒壊を免れました。

 内部の1階はきれいに化粧直しされていましたが、2階は劣化がひどく危険とのことで 立ち入ることはできませんでした。
 ちなみにこの日立航空機立川工場の物流は当初トラックに頼っていたのですが、昭和1 9年3月に西武国分寺線の小川駅から専用鉄道が敷設されました。現在の西武拝島線はこのと きの線路を利用しています。


 2005年7月17日
 【立川飛行機引込線廃線跡】
 立飛企業鰍ヘ戦前の名前を立川飛行機といいましたが、その本社前(多摩モノレールの 立飛駅東400m)からJR中央線国立踏切(都道43号の踏切り)付近まで引込み線があり ました。全長約1.6kmで短いです。
 敗戦後は米軍に接収され、ジェット燃料輸送に使用されていましたが昭和44年に廃止 されました。 遅かった、残念!

 廃止された引込線跡は遊歩道となり、北側芋窪街道側から栄緑地、西町緑地、北緑地 と市境界ごとに名前を変えながら北第一公園を突っ切って中央線側へと続いています。当時 をしのばせるものは緩やかなカーブの道とレールの廃材を使用したアーチです。

 そういえば、昭和30年ごろのことですが立川飛行場は北側に拡張する計画が持ち 上がり、地元住民ととんでもない闘争、つまり砂川闘争があったと小学生のころ聞かされまし た。いずれ調べてみようと思います。
 
 (注:砂川闘争とは1955(昭和30)年に、米軍の滑走路延長計画を受けて国が用地 買収に向け、予定地の測量に乗り出すと、その計画に反対する住民とそれを支援する何千人 もの労働組合員や学生たちと警官隊とがぶつかり合った事件です)


 2006年3月30日
 【旧多摩青果市場跡】
 立川駅の東、曙三第二公園と中央線の線路の間に赤く錆びた屋根だけの建物があります。 中には入れないのですがフェンス越しに見るとかなり広く、奥の方は放置自転車の保管場所に なっています。
 以前からこの建物が何であるのかずっと気になっていたのですが、立川市の放置自転車 撤去案内のページで、ここが旧多摩青果市場の跡地であることがわかりました。 

 豊かさと、便利さと、快適さを求めた末に次々と消えていく昭和 の足跡、残念ながら見そこなってしまったものが多くある。

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