・・・ 中央本線猿橋付近の廃線跡 ・・・

 甲州街道(国道20号線)を上野原から梁川、鳥沢と進んでいくと猿橋に差し掛かる少し手前の道の右上に 古いトンネルが見えます。旧中央本線の遺構です。現中央本線の鳥沢駅〜猿橋駅間には桂川にかかる大きな鉄橋 (新桂川橋梁)と猿橋トンネルがありますが、この橋ができる以前は甲州街道にそって線路がひかれていました。
新桂川橋梁

 下の図の赤点線が旧中央本線線路跡です。先ほどの甲州街道から見えたトンネルはその名残で、 ほかにいくつかの遺構が見られます。ともあれ中央本線の鳥沢駅〜大月駅間が開通したのは 1902年(明治35年)のことです。単線で山と谷に挟まれた地形を曲がりくねって走っていました。 後に輸送力増強のため複線化されることになりますが、鳥沢〜猿橋間は従来の路線を使わず、 桂川に橋をかけその先をトンネルで結ぶことになり1968年(昭和43年)に新線に切り換えられました。
旧中央本線線路跡
 
 Rev.1 2002年3月
 Rev.2 2009年10月:画像追加及び誤記修正

(画像をクリックすると拡大できます)

 近くには日本三大奇矯である「猿橋」があります。そのやや下流方向にこれまであまり 気にもとめなかったのですが、線路跡のようなところにかなりの水が流れていて立派な煉瓦ポータルを持った 暗渠に吸い込まれていく光景が見られます。しかしこれは単なる発電用水路で廃線跡ではありません。

 猿橋側からの線路跡は上の水路橋と甲州街道の間を橋梁で越えました。猿橋側(南側)からは見にくい のですが、竹やぶの中に旧中央本線のトンネル坑口があります。大原隧道といいます。 川を渡った居酒屋食堂(仙台屋さん)のところにトンネル上部の欄干があります。 この画像は庭先をちょっと失礼して覗き込み、撮らせていただいたものです。 ちなみにこの坑口の川の対面、猿橋側にもそれなりに古い橋台が存在しますが、 その橋台上には住宅が建てられています。

 甲州街道を猿橋から鳥沢方面に少し進むと道路の右側に橋脚跡があり、その対面に冒頭のトンネルが ポカッと見えるはずです。車では上りの場合見過ごしてしまう可能性大です。
 (注:その後、この橋脚跡はそこから続く築堤跡とともに撤去されてしまいました)

 この時期はまだ木立が鬱蒼としていないため、国道脇からトンネルに向かって藪をよじ登り近づいてみました。 立派なポータルでしたが、金網で塞がれて中には入れないようになっていました。

 トンネル坑口のその場所に立って国道側を見下ろすと旧線路はこの場所で国道を横切り、国道より一段 高くなった築堤の上をほぼまっすぐに進んでいったことがわかります。しかし築堤の上にはレール、 枕木その他遺構らしき物は何もありませんでした。

 築堤は約200mで、甲州街道の宮谷入口の信号までまっすぐ続いています。なお、 やや低い位置に並行して走っている水路(発電用水利)も同じように向かいの造成地の中に消えていきます。

 そして突き当たった国道20号線宮谷入口の信号の正面、新規造成部分に塗りこめられてしまってはいるものの かすかなトンネルの痕跡が見られます。宮原隧道といいます。
 このトンネルの出口側、つまり向こう側は沢をひとつ越えるのですが近づくことはできません。たぶん、 3本目のトンネル(富浜第二隧道)もあるはずです。

 その次の小向という所から沢沿いの道を登っていくと、3本目のトンネルの坑口は見当たりません。 そこには造成された道路と建物があって、トンネルらしい面影はまったくありませんでした。しかし その反対側(鳥沢側)にふり返ってみると続く次のトンネル(富浜第一隧道)があります。 金網が張ってあって入れませんが、かすかに出口側の光が漏れてきていました。

 さらに鳥沢側に進むと国道沿いの左手上に古い石組みの、ちょうど線路スペースと思われる場所が続いていて、 そこに枕木を利用したようなものが一本立っていました。

 線路跡は総合体育館入口の信号のところで再び国道と交差し、鳥沢の駅に向かっていくように見られます。 (鳥沢側から振り返っています。)

 上の画像の中央部分を拡大したものですが、国道を横切る橋の橋脚がはっきりと見られます。 なお、国道を横切ったあとの鳥沢までの間にはこれといって遺構らしい形跡を見つけることはできませんでしたが、 そのまま素直に鳥沢駅に引き込まれたと思います。


 それでは最後に新桂川橋梁の夜景です。夜空を明るい一筋の光が横切り、“銀河鉄道999”のように 宙を飛んでいくような感じが気にいっています。
新桂川橋梁夜景


  
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