鬱陵島の童男童女神と金麟雨
 

藤田明良(天理大学)


    文献史でもフィールドワークの重要性は常識になっているが、離島を対象とすることが多いと、現地を訪れるのはなかなか容易ではない。済州島や黒山島では現地調査の成果を、論文に盛り込むことができたが、中国の舟山群島などは、活字にした後で訪れている。韓国の島を扱った最初の拙稿「十五世紀の鬱陵島と日本海西域の交流」(『神戸大学史学年報』8、『日本史学年次別論文集・中世1・1993年』学術文献刊行会に再録)も、文献だけで書いたもので、出口晶子さんに抜刷を渡した際、「どの宿に泊りましたか?」と聞かれて冷汗をかいたものである。以来、宿願であった鬱陵島調査は2000年11月、荒野泰典さん率いる立教大学日本学研究所の調査団に同行させてもらい、ようやく実現した。3日間で陸と海から島を周回し、さらに最高峰の聖人峰(986m)も踏査するという強行軍であったが、おかげで多くの知見を得ることができた。その中から、島の伝承にまつわるエピソードを紹介したい。

  鬱陵島の西北海岸に位置する台霞里のほぼ中央に、聖霞神堂という名をもつ祠堂がある。堂前の説明板によれば、この島の開拓以後、住民たちが豊作や豊漁を祈願して毎年三月三日にここで祭を行うほか、島内で新造船が進水する際には、常にこの神に安全祈願をしているという。ここに祭られているのは、「童男童女神」という幼い男女である。この珍しい祭神について、説明板はこんな伝承を紹介していた。

  朝鮮王朝時代の初期、鬱陵島の住民を撤収する空島政策が決定された。安撫使に任命された金麟雨一行が兵船二隻で来島し、台霞洞を宿営地に定め、島内を捜索をして島民を集めた。それが完了した日の晩、翌日の出帆に備えて早めに就寝した金麟雨の夢に、海神が現われて「汝らが陸地に帰るとき、島民の中から童男と童女を一組、島に残していけ」と命じたのである。おかしな夢だと思いながらも翌朝、予定どおり出航しようしたところ、突然暴風が起こり、待機していても、風波はますます強くなるばかりである。ついに金麟雨は一組の童男童女を呼び出して言った。「宿営地に筆と墨を忘れてきたから、取りに行って来てくれないか」。船からおりて走っていく二人が、森の中に姿を消すやいなや、暴風はおさまった。金麟雨は急いで出航を命じ、船はまたたく間に島から離れていった。筆と墨を発見できなかった二人が、海岸に戻ってきた時には、すでに船は水平線の彼方に消えていたのである。こうして金麟雨は島民刷還の任務を終えたが、島に残した二人の安否が気になっていた。数年後、彼は再び鬱陵島への巡察を命じられることになった。島に着くと前の宿営場所に直行したが、そこで目にしたのは、抱擁したまま白骨化したあの童男童女であった。金麟雨は二人の霊魂を慰撫するため、その地に祠堂を築いて祭祀をおこなったが、それがこの神堂の遠い起源だという。

  思わぬところで金麟雨と再会した私は、少なからず驚いた。この名を知る人は朝鮮史専攻者でもほとんどいないと思うが、前述の拙稿に登場する人物の中で最も印象に残っていたのが、彼だったからである。1403年から約五百年間、朝鮮王朝政府は絶域の孤島であることを理由に、鬱陵島への往来や居住を禁止し、時には軍船を派遣して入島民の刷還(強制退去)を実施してきた。これを空島政策というが、金麟雨はその初期にあたる十五世紀前半に、刷還の責任者である安撫使に三回も任命された人物である。実は彼は、もともと鬱陵島の対岸にある三陟の人で、以前から島に出入しており実情を良く知っていた。その金麟雨の話を江原道観察使が国王に伝え、さらに彼自身が王宮に出向いて進言して、按撫使に任命されるのである。一回目は、島から三人だけを連れ帰って人口・耕地・産物などを報告、これをもとに議論した政府の決定によって、二回目は島民全員を捜索して刷還した。その功で沿岸部の県知事に抜擢されるが、その後、島民の一部が戻っていることが判明し、また島に赴き刷還を実施したのが三回目である。

  伝承に見える童男童女を残したのが、按撫使として渡った二回目、二人の屍を発見したのが三回目にあたると考えられるが、実はこの二回目の渡島は、文献史料からいうと謎の多い事件なのである。他とは異なり、この刷還だけが『朝鮮王朝実録』に復命記事が見えないだけでなく、刷還作戦の実施期間中に、鬱陵島が倭寇の襲撃されたという記事が載っているのである。拙稿では刷還の強行とこの倭寇との間の関連性を推論してみたが、それ以後、この問題について考えは進んでいなかった。そういうわけで、島でめぐりあった童男童女の伝承には、文献からは知りえない歴史のひだの一端が見え隠れしているような強い印象を持った。

  説明板に書かれた話では、金麟雨を善玉として描き、童男童女を他の人たちが本土に帰るために犠牲となった殉死者と伝えている。だがこの話のなかで、海神の位置付けが落ち着かないような気がするのは、私だけだろうか。生贄を求めた悪役としての性格が曖昧である。なぜ海神は幼い二人を、島に残すように命じたのだろうか。そもそもこの海神は何の表象なのだろうか。堂内にある漢文の「聖霞神堂縁起」では、海神は倭人が信仰していたように書かれている。だがこの縁起ができたのは、今から僅か25年前である。1978年、鬱陵郡守(郡庁の長官)が大々的に神祭を挙行して、「聖霞神堂」の称号を奉った時に作られたもので、現在掲げてある墨書牌も1984年に郡守が奉納したものだ。現在の建物や堂地も、この頃から整備が進んだらしいが、その理由について聞き取りをしそこなったのは残念である。

  鬱陵島の歴史は領有問題との関連で論じられることが多い。拙稿ではそこから離れて、国家の論理と海の生活者の動向のズレに注目し、「治国安民」を掲げる空島化に抵抗し、離島への渡航と居住が繰り返される背景として、半島沿海民の旺盛な海上活動への志向を読み取ろうとした。この島に郡が置かれ居住が公認されるのは1900年のことである。だが、1882年の調査でも76名の日本人と、その倍近い140名の朝鮮人(内115名が全羅南道出身!)が把握されているように、それ以前からこの島には不法居住者たちがいた。海神のお告げで島に残った童男童女への信仰が、もし1900年以前から「島民」のなかで培われてきたのなら、かつての伝承はもう少し違う形だったかもしれない。二人を島に残す時に金麟雨がつかった口実が、説明板では「筆と墨」を取りに行かせたことになっていたが、忘れたのが「キセル」となっているパターンもあるという。十五世紀に煙草を吸うキセルが存在するはずがないが、むしろキセルの話のほうが素朴な古体を伝えているような気もする。

  鬱陵島は現在、観光開発の真っ只中にある。旅荘がどんどんビルに変わり、海岸の岩壁にはコンクリートの遊歩道が伸びている。二年前は工事中だった周回道路もすでに完成し、台霞里への道中も曲がりくねった細い山道に胆を冷やすことはもうないだろう。だが、観光の目玉は「絶景」と「海鮮」だけではない。独島記念館やロープウエイで登る眺望館も新設されたように「国境」による相乗効果が期待されている。島の外観だけではなく歴史情報も、「愛国」の文脈に沿って改変されつつあるのである。二年前の調査の時、私はかつて棲息していた「可支」(カジェ:ニホンアシカのこと)に関する聞き取りをおこなったが、この海獣の記憶が領有問題と結びついて再編されていることを強く感じた。

  機会があれば、この島を再訪して、古い伝承の発掘を試みてみたいが、それにはしばらく時間が必要かもしれない。

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