芸予諸島

 
瀬戸内海には幅が狭まる所が3つある。今は橋で結ばれたその下の海は、
昔は潮流が速くて複雑な船の難所であり、強力な海上勢力の揺籃となった。

それらの西端にあたるのが、゛しまなみ街道゛がとおる芸予諸島である。

 
大三島の大山祇神社は中世の伊予国一宮。京都に榑を貢納する木材の集散地でもある。
当時、一帯の島々は伊予の豪族河野氏の影響下にあった。大島の宮窪町友浦に残る

鎌倉時代末期の宝篋印塔にも、河野氏の関係者と思われる「養通」の名が刻まれている。

 
 鎌倉時代後期に海上交通の要衝に教線を拡大したという律宗。
永仁二年(1294)の年号がある生口島の光明坊十三重石塔は忍性の建立と伝える。
 

室町時代になると芸予諸島の海上勢力の中で、村上姓を名乗るグループが台頭してきた。
この村上姓のうち、因島・来島・能島の三氏が名をはせるようになる。
(写真右:2002年11月今治で開かれた愛媛大学考古学研究室主催のシンポジウム)


四国今治と大島の間の来島海峡。
潮流が最大10ノットにもなり「魔の海峡」ともよばれる。


海峡の西の波止浜湾口に浮かぶ小さな来島。ここに来島氏の海城があった。


大島(手前)と鵜島の間に浮かぶ能島(中央)。
戦国時代、瀬戸内最強の海賊と恐れられた能島氏の海城だ。


 
チャーター船で能島に上陸。史跡として整備されている。海岸の岩盤に今も、船を繋ぐ杭を立てた穴が残る。


能島から大島大橋を望む。橋脚の立つ見近島では戦国時代の倉庫跡と思われる遺構が発見された。
見近島遺跡出土の中国の磁器。朝鮮や東南アジア産もある(宮窪町教育委員会所蔵、写真掲載許可済)


写真左:鼻栗瀬戸を抜け江戸時代初期まで続いた甘崎城へ。手前に石垣跡が見える。
写真右:船折瀬戸をしばらく行くと海面が突然波立ち船がもまれる。潮と潮とがぶつかる難所だ。


因島市が復元した戦国時代末期の大型軍船「安宅船」。防護板で囲まれた船べりから櫂を降ろして漕いだ。


村上一族の中には大名に召し抱えられる者もいた。
小倉城下から出土した15世紀の中国陶磁片に書かれていた「上」紋。
細川忠興に仕えた村上八郎左衛門景広に伝わった品と考えられている。
(小倉城代米蔵跡出土・北九州市芸術財団所蔵・写真掲載許可済)

調査日
2002年11月29日−12月1日。11月30日と12月1日は
海津一朗(和歌山大学)さん、綿貫友子(大阪教育大学)さんとの共同調査。

  調査協力:因島市しまおこし課、宮窪町教育委員会

 

戻る