リスク社会論 第一回
●コミュニケーションの問題としてのリスク
文体?
モード?
両立可能性
「脳」ではなく「脳と脳との間}
0.はじめに
社会学の基本テーゼ
「人は他人の期待に応えるように行動する」。
倫理 道徳 規範? 何をすべきか?
社会はコミュニケーションでできている。
基本は「命令文」である。
一人の人間への命令の整合性と社会全体での命令の整合性
複数の命令は、たいてい食い違う。倫理上の問題はここで初めて生じる。
科学技術の社会的文脈
科学・技術・専門がどのような状況に置かれているのか
科学者や専門家の責任は、それらが置かれている社会的文脈に依存する。
はじめに状況を検討し、その後に(時間があれば)対応について考える。
1.分業と社会:知的な分業を制御する論理
現代社会は高度な分業の社会である。
専門分化とは、知的な分業である。
知的な分業社会とは、専門的知識という商品を売買する市場によって制御されている。
それに対して「教養」(古典的と現代的)
古典的教養:デカンショ節
「デカンショ」とは、デカルト、カント、ショーペンハウアーのことである。
医師の使う、ドイツ語、ラテン語、ギリシャ語も同じか?
意味なし:顕示(誇示)的消費(ヴェブレン『有閑階級の理論』)
現代に求められる教養
教養をデカンショ節の世界(支配者のアクセサリー)から「生きる力」に変える。
知的インフラとしての教養、専門の競争力としての教養、だまされないための教養。
「人類の一員として学ぶ」「人類の代表として学ぶ」。
有機的連帯・ウロボロス的状況
互いが互いの知識に依存し、前提とし、協力し合っている。
==============10月14日はここから解説します===========
2.科学者の世界:科学的知識の真理性
(1)科学的真理は実在する。しかし、まだ発見されてはいない。少しずつ真理に近づいている、という感覚はあり、これを「科学の進歩」と呼んでいる。
(2)科学は法則あるいは法則の束である理論によってできている。一般性や共通性を指向、いつでもどこでも誰にでも当てはまる説明を求める。つまり。法則性は「全称命題」「すべての〜について〜である」の形式を持った主張である。
(3)事実・証拠・検証を積み上げることによって、全称命題の確からしさ(真理性)を保証することはできない。
(4)つまり、科学の特徴は、それが仮説(真とも偽ともつかない主張)によってできている点にある。
(5)全称命題の誤りは、ただ一つの「反例」をあげれば十分である。
(6)「反例」があがり反証された法則や理論はすでに、「誤った主張」である。それは少なくとも「別のよりもっともらしい主張」に置き換えられる必要がある。これが「科学の進歩」である。
科学の進歩とは、定説や原理や理論(すべて仮説)が嘘になっていく過程である。それゆえ、「教師は全員ウソつきである(仮説を述べているのであるから)」「論文もすべてウソである(やがて間違っていたことが判明する)」。
科学とは自らを古くさせる、自らをウソに変える営みである。
@反証主義:「多数の成功例が理論の正しさを保証するのではなく、たった一つでも失敗例があれば理論の誤りは確認できる。理論は反証のあがらない仮説であるに過ぎない」(ポッパー)。
科学教育の基本:「私の言うことを聞いてはいけない」。エピメニデスのパラドックス(ウソつきのクレタ人)。ダブルバインド(ベイトソン)
知識人と科学者:
知識人「私の言うことを聞け」。
科学者「私の言うことを聞くな」。
科学者に対する知識人的誘惑はそれ自体大きな課題である。
A理論負荷性:「事実を確定するという作業ですら、われわれの偏見や先入観から自由ではない。われわれは理論を背負って見る(デュエムのテーゼ)」(ハンソン)。
(7)われわれの観察や事実の確定は「虚心坦懐」なものではない。法則や理論や仮説によってあらかじめ汚染されている。先入観に充ち満ちている。
Bパラダイム論:「科学の制度は偏見や先入観を維持助長する方向に機能し、異説や少数派を淘汰する傾向がある」(クーン)。
科学者という職業「職にありつき、生活と身分と名誉を保証するのは、うまく回っている科学(=定説)である」。定説や標準的な学説は、より正しい新たな仮説よりも常に強力であり、科学者を支配している。
●森鴎外と高木兼寛と脚気(かっけ)
●野口英世と黄熱病
志田基与師(個人HP)