森鴎外と野口英世

2011.5.17

志田基与師

 

W 森鴎外(vs. 高木兼寛)と野口英世:あるいは脚気と黄熱病 あるいは パラダイムはどう働くか

 

1.森鴎外の生涯 あわせて 高木兼寛の生涯

 

関連URL  鴎外の医学方面での活動    森鴎外(年譜)    高木兼寛http://www.miyazaki-c.ed.jp/himukagaku/unit/hito_04/index.html

 

森鴎外「大発見」(1906)より、「発見は力ずくでは出来ない。一目の羅は鳥を獲ず。鳥を獲る羅はただこれ一目である。しかし初から羅を張らなくては、鳥は獲られない。脚気の病原はなかなか攫まらなくても、脚気調査会という羅は張っておかねばならない。」

 

 

2.野口英世の生涯

関連URL  野口英世

 


X 専門性の光と影

 

「悲劇」の原因は?

 個人的な原因についていえば、エリートあるいはエリートになろうとしたこと、であろう。鴎外の場合は日本の衛生学のそしてドイツ医学の正統の位置を占めるために、野口の場合は「ノーベル賞」あるいは「世界の野口」の名誉のために、である。エリートになる、あるいはエキスパートになる、その道の大家になる、ということは、一般にはその専門分野に十分(以上)に適応したことを意味する。また「専門家である」ということは「知識の構造」からいって、どんな狭い分野小さな領域についてでもいいから「No.,1」になることを要求するものであった。
 →専門と職業とが、そして職業と人生とが結びつく悲劇

 彼らは、(出自こそ違え)ひとつのパラダイムの「優等生」であった。鴎外は医学界の第一人者になり家名を揚げることが一族によって課された使命であったし、野口の場合は学閥外からスタートし貧困から脱却するための唯一の経路であった。そして二人ともほとんど成功しかけていた。鴎外の場合は、衛生学という専門性から行政よりの行動をし、野口の場合は、基礎医学の側面が強かったが、純学問的に言えば彼らの「錯誤」には当時の知識から「決定的に重大な誤り」と呼べる要素はほとんどない(悪意や過失はなく、「善良なる注意義務を欠く」事はなかったので法律的には免責される、薬害エイズ事件を見よ)。「病気は病原菌が起こす」という基本前提、あるいは先入観・予断、もっと悪く言えば「偏見」が、当時の第一級の知性(「細菌の狩人」「顕微鏡の狩人」という)袋小路に入り込ませたのである(さらなる「悲劇」は陸軍兵士と黄熱病患者に起こったのだが)。
 →専門性そのものに内在する悲劇

 鴎外の場合、まだ文学に逃避するチャンスがあったが、野口には「殉職」しかなかった。

 

専門性の光と影

 ある専門を志した者は、その道のエキスパートになるよう義務付けられている。専門家というのは、既存のエキスパートの影を薄くさせる存在であらねばならないからであり、そうした動機付けだけが、科学や技術の進歩に寄与できるからである。教科書やカリキュラムを修了してことたれり、というわけにはいかない。それが(多大の国庫支出によって支えられている)大学(院)であれば、その義務はひとしおであり、それを職業として収入をえながら社会の期待に応えようとすればなおさらである。

 その道のエキスパートになるためには、「同業者」の評価が必要である(と同時に、それのみで十分である)。専門性が高くなればなるほど、一般に、専門外の人に近づきがたく、かつ同業者が特権的に評価を行うようになる。それは、しばしば一般人としてのエンドユーザーの無視という事実に終わる。それはともかく、ここに「専門家集団」という、科学や技術を担う特有の機能集団の存在が主題として浮かび上がる。

 専門家集団の機能は、理念的にはポッパーの科学論に即して、新たな仮説の提示→反証→新たな仮説の提示というサイクルを維持することであり、きわめてニュートラルなものである。しかしながら、専門家集団には集団としても、また個人としてもその活動を維持する動機付けのシステムと、その生存を保障するシステムとがなければならない。

 この作用をよく理解するために、「官僚制」を例にとって見よう。官僚制は必ずしも特別な知識や技能によって成り立っているものではない。しかし、近代官僚制は逆に、官僚制(それはぜひとも必要なものなので)が存立するためのいくつかの基準を設けている。そのひとつは、「前例主義」「文書主義」「法規主義」と呼ばれる「形式合理性」の追求である。このことはちょうど学会誌に採択されるレフリード・ペーパRefereed Paperの基準と似ていなくもない。もうひとつは、固定給と身分保障であり、第一の基準に照らして職務を行っているかぎり(これを「善良な管理者としての注意義務」を果たしているという)、その行動は無答責である、というものである。つまりそれは主権者なり雇用主なりの意思の透明な遂行なのであって、個人的な責任をとわれない(道具である)構造に身を置くということである。このことは、科学的・技術的に予見できない事態には責任をとらなくてよい、という態度に通じないであろうか。

 さらにいえば、官僚制の弊害は、こうした原則をたてに実のところ官僚が組織と個人の存立をかけて戦うことである。そこにはすでに透明で中立的な意思の遂行装置という姿は存在しない。専門家は官僚主義化していないであろうか?

すでに確認したように、科学にせよ技術にせよある専門分野は、その専門分野に関する客観的な知識・技能だけではなく、評価システム、養成システム、そして何よりも専門分野内の権威や権力のシステムをも含んでいる。さらに言えば、それらは一体となって不可分の構造を備えている。そうした構造の中で個別の研究者や技術者は動機付けられている。そこでは、恫喝や阿諛追従も(場合によってはであるが)、世界を揺るがすような大発見や大発明に劣らぬ影響力を持ちえる(そうでないことをひたすら望むが)。たんに本人のパーソナリティだけではなく、人をして必然的にそう導く圧力を加え続けているのである。

 

どうすればいいだろう

 問題は、個人の資質にあるのではない。「専門性」というものに主要な原因があるのである。専門は人を利巧にも馬鹿にもし、善良にも悪にもするのである。最初の話題に戻るが、こうした事態に対処するには(1)説明責任の遂行と(2)非専門家による専門家の制御、の構造を制度化する必要がある(たんに法制度や規定を作るのではなく、社会学における制度化とは、行動が身体化されるレベルも含めて実際の行為の裏づけがあることである)。

 制度化の最たる物は、物的な報酬をはじめとする誘因incentiveである。専門性が利害とは無関係だとはもはや誰もいわない時代ではあるが、利害が絡むならば利害でコントロールする裏付けを持つべきである。

 こうした「専門性外部」の回路を専門性に積極的に取り込むことも重要であるが、専門性の弊害を専門性で対処する方策も考えられる。

その例として、(3)良質の科学ジャーナリズムや技術ジャーナリズム(ジャーナリズムも素人の目を失ってすぐ「オタク化」する傾向があるので困るのだが)が育ってくること、および(4)専門家による「代理人制度」も考察に値する。

(4)について少し補足しておこう。医学の世界で最近注目されるのは「セカンド・オピニオンsecond opinion」という考え方である。主治医以外の医師(別の専門家)の判断を仰ぐことによって、主治医の専門的判断を別の専門家によって再評価してもらうことに通じよう。また「弁護士」という職業は、専門職であるが原告ないし被告の法的代理人として行動する。エンドユーザーが科学者や技術者という専門家に太刀打ちできない以上、それに匹敵する能力の持ち主に自分の分身としてアドバイスを受ける、そうした科学・技術上の代理人(アセスメントassessmentでは「公共性」の立場から行われているが)を相補的complementary専門家として制度化することである(俗に言う「○○アドバイザー」のようになるのか?)。

これは「専門は一枚岩である」あるいは「専門家に判断は客観的で最終のものである」という「神話」にもくさびを打ち込むことになるであろう。


【参考文献】

  www.isc.meiji.ac.jp/~sano/htst/ History_of_Science/historical_examples01.htm

  中山茂 1995(原著1978) 『野口英世』岩波書店.

  坂内正 2001 『鴎外外最大の悲劇』新潮社.
 白崎昭一郎 1998 『森鴎外:もう一つの実像』吉川弘文館.
 吉村昭 1991 『白い航跡 上・下』講談社(講談社文庫版もあり).


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