補充資料:自由主義のパラドックスその後
【参考文献】
セン『合理的な愚か者』1989 勁草書房。
佐伯胖『「きめ方」の論理』1980 東京大学出版会。
自由主義のパラドックスは、一つの衝撃であった。様々な「批判」も現れたし、これを「解消」「回避」するための様々な提案も現れた。この資料では、そうした批判や提案について簡単に触れる。
(1)個人の自由の制限
自由主義のパラドックスは、条件U、P、L(L*)の間の矛盾(CCRの上での両立不可能性と解釈できる。
これを「解決」するためには、3条件のうち一つをより緩いものに置き換えなければならない。問題はどれを緩和するか、にある。
無制限の個人の自由(権利の行使)は、はっきりいって「迷惑」ですらある。そこで考えられることは、個人の自由(権利の行使)の制限である。
(2)屋根の色の争い(Gibbard 1976)
「権利の行使は、他人の権利の行使を妨げない範囲のものでなければならない」という提案。
ストーリー:A氏とB氏が隣り合わせに住んでいる。二人とも自分の家の屋根の色と隣の家の屋根の色の組み合わせに選好をもっている。また、二人とも自分の家の屋根は自由に塗り替えることができる(権利領域)。いま屋根の色を緑(G)と赤(R)とであるとする。
( Ga, Gb) = x,
( Ra, Gb) = z,
( Ga, Rb) = y,
( Ra, Rb) = w,
\A
Ga Ra
B
Gb
Rb |
x |
z |
|
y |
w |
個人選好:Ra: B氏と違う色を好む: z x と y w とを含む。
Rb: A氏と同じ色を好む: x y と w z とを含む。
個人Aの権利行使 z x y w
個人Bの権利行使 x y w z
社会的な結果
z x y w z (条件Pなしに循環)
第一に考えられることは「他者依存型の選考構造があった」せいではないか(自律した個人でないと、自由なんか主張する資格はない?)。両氏には他人と独立して緑または赤を好むという選好がない。以下、権利体系のコヒーレンス(権利の体系は、権利を行使したことによって、社会的な決定ができないようであってはいけない)が成立するものとする。
さてそこで、
個人選好: Ra: 緑を好む x z y w
Rb: 赤を好む w
z y x
個人Aの権利行使 x z
条件P
z y
個人Bの権利行使
y x
社会的な結果 x z y x (循環)
選好の独立性は、パラドックスを逃れる条件ではない。
A氏B氏のお節介が原因か? 遠慮、親心、親切、奉仕、ボランティア、自己犠牲などは自由主義の敵なのか?
(3)個人の権利の行使の保留
Gibbardの提案:「条件Pのもとで他人の権利行使を侵害する権利の主張は認めない」。
個人Aの権利行使 x z
条件P z y
社会的な結果
x (z) y
個人Bの権利域 y x
このようなときにA氏の権利行使を認めない(同様B氏も認められない)。
これは一見非常に合理的な提案のように見える。「他者危害原則」(お互いに他人に迷惑をかけない=他人の権利を侵害しない=かぎり、自分の権利は最大限に認められる)という主張と同等である。
(4)昇進か辞任か(佐伯,1980)
他者の権利の行使を侵害するような権利の行使は認められない、というのは、それでは「有効な」解決策であろうか?
ストーリー:いまライバルの社員A氏とB氏とがいる。上司が二人を呼んで、次のような提案を行った。「二人のうち一名を重役にしたいが、昇進の話を断ったら会社をやめてもらう」。この場合2人には以下の4つの選択肢が存在することになる。
x:A氏は重役B氏は平社員
y:A氏は平社員B氏は重役
z:A氏は平社員B氏は辞任
w:A氏は辞任B氏は平社員
A,B両氏とも相手を「宿命のライバル」と考えており、この機会に相手に会社を辞めてもらいたいと思っている。そこで、両者の選好は以下のようになる。
Aの選好(権利域):
z x w y
Bの選好(権利域): w y z x
二人の決定(権利の行使)はいったいどうなるのか?
A氏の立場で考えよう。
条件Pの帰結
z x
A氏の選好(権利域): z x w y
条件Pの帰結 w y
社会的帰結
z y
ところが B氏の権利は y
z
これによって、A氏の権利行使はB氏の権利の侵害になる(A氏はB氏に迷惑をかけることになるので、権利を行使できない)。そこで、A氏の権利の行使は保留されなければならない。
練習問題:同様のことはB氏にも当てはまる。上のような形式で確かめてみよ。
残るのは 条件Pの帰結(二人が共通で「よし」とする判断)" w y "と" z x "とである。これは戦争による相手の抹殺を許すものである。
(5)パレート伝染病 Paretian Epidemic
ここまでの検討結果は、「自由の存在」「権利の行使」に問題があるのだ、という発想で貫かれていた。別の言葉で言えば、「共通の利益」や「公共の福祉」に当たる条件Pの妥当性には疑問の余地なしとしてきたのである。真の問題は条件L(L*)にあるのではなく、条件Pにある。自由主義の条件が問題なのではなく、パレート性(全員一致の条件)こそが問題なのではないか。
条件Pの2面性:(1)全員一致の選好の尊重
(2)2選択肢間の社会的判断は、各個人のその選択肢についての判断のみに依存して定まる。
後者を「独立性の側面」という。これが「悪さ」をしている。以下例を挙げる。
個人Aの選好(権利) z x y w
個人A以外の選好 z x を含む任意の
y w 選 好
としよう。このとき、
条件Pの帰結 z x
個人Aの権利行使
x y
条件Pの帰結
y w
社会的な結果
z x y w
このとき個人Aの権利は他者の意思(選好)を無視してz と wとの間での決定権も持つことになる。「xとyとの間の権利」が「zとwとの間」に「伝染」して新しい権利を作り出す。これは、条件Pのもたらした「困った問題」なのである。
練習問題:個人A以外の選好の具体的な例を作ってみよ。
(6)「良心的な」自由主義者
ここで、Senが行ったのは、驚くべき提案(?)である。
Sen(1976 翻訳1989)の提案(良心的自由主義者の存在):他者の権利行使に抵触する自らの選好が社会に反映されること認めない。練習問題:「チャタレイ夫人の恋人」「アンジェリーナとエドウィンの場合」「屋根の色の争い」「昇進か辞任か」のそれぞれについて、どちらかあるいは双方が「良心的な自由主義者」であった場合、社会的帰結がどうなるか確かめてみよ。
良心的自由主義者は、自らの権利の行使を行う。それは彼が自由主義者であるからである。良心的自由主義者は他者の自由の行使も尊重する。それは彼が自由主義者であるからである。しかし、自分の権利ではないことについて自分の「意見」が社会的決定に反映されることによって他者の権利が侵害されることを望まない。保留するのは「権利の行使」ではなく「選好の表明」なのである。このような良心的自由主義者が存在すれば、自由主義のパラドックスは回避される(証明略)。