GPA制度について:公聴会資料(2003.2.5)                  志田基与師

 

 大学院の入試で公聴会に出席できないので、GPA制度について、考えたことを簡単に記しておきたいと思う。

 

1.GPAは何を計っているのか?

 

 まず、押さえておきたいのは、GPAは尺度であり、尺度であるからは「何か」を計っているものである、という点である。そこから1)「計っている内容」の意味は何か、次に2)その「計り方」は妥当なものであるのか、という問題が生じてくる。

(1)大学・学部としてGPAを導入するとき、学生の「何を計ろうというのか」をまず問うべきである。おそらくそれは「大学における勉学の達成水準」とでもいえるものであろう(ここではこの程度の「曖昧さ」で許容してもらう)。そういうものを計ることには異存はないし、「入るのに難しく(その後のチェックがないから)出るのは簡単」と批判される大学にとっては「ちゃんと計ってますよ」という説明責任の遂行でもある。ただ、このことについて学部・全学の合意があるのか?

(2)しかるのちに、その内容に即して「計り方」の善し悪しも検討する必要がある。

 GPAの計算式をみれば、それがごく単純な線形回帰式で書かれていることは一目瞭然である。しかもこの「回帰式」には定数項(残差項)がない。つまり「大学における勉学の達成水準」を計るとすれば、「それは各科目の等価値の評価に単純に比例し、その他の要因はすべて無視できる」という仮説に基づいている。この仮説が正しい理由はない(同様に、別の仮説に基づいて構成される様々の代替的指標にも同様のことがいえる)。

 「試験」や「評価」はある「揺らぎ」を通っていることにも配慮が必要である(試験の山が当たる/はずれる、当日の体調など)。つまり、個々の評点は「真の」達成度からあるランダムな確率過程を経て出現することにも注意が必要である。

 また、各科目の評点のウェイトも一律に等しい。GPAで測定すること・その計算式の分母や分子に加えるにふさわしくない科目も多数存在する(これは「勉学の達成度」は一次元である、という仮説に基づいている)。実際GPA先進国であるアメリカでは、科目によっては現在いわれているGPAABCDF方式という)の他にP-F方式(ABCDは一括passとカウント)、S-U方式(演習や論文指導のようにSatisfactoryUn-かのみで評価できる)という方式も併用されているという。以上の仮説は図1のAの問題である。

 さらにいえば、「大学における勉学の達成度」がGPAに反映するとしても、「達成度」自身が、さらにバックグラウンドの構造的な要因によって出現していることにも目を向けざるを得ない。たとえば「達成度」には本人の勉学態度や学力や適性が反映するであろうが、同様に本人の属性(性別・エスニシティ・家庭の経済状態)なども反映するであろう(「しない」というのも仮説である)。さらにそうした要因が独立であるともないともいえない。これは図1の@に関連する問題である。

 GPAを導入することは上述の「達成度を測る」という目的の他にこうした「仮説」をも受け入れたことを意味する。「何かを計る」ときにわれわれはこういうナイーブなことをしてはいけない。それは測定の目的と指標が持つべき様々な基準に照らして、不断によりよい指標に改善していく必要をもたらすであろう。それは、成績評価委員会というような組織を作り、全授業の評価の平均や分散や、教官の間での成績のばらつき、GPAと個別成績の相関などといったことがらを調査するものになるであろう。

 

 

 

     個人的属性     学力・属性     勉学の態度     その他の要因

                                                                     ↓     @

個別科目の成績

                                                                                      A

GPA

                                                                 ↓         B

     奨学金  飛び級・短縮卒業  履修上限の引き下げ(引き上げ)  退学勧告

 

1:GPAをとりまく概念図

 

 

2.制度としてのGPAはどう機能するか?

 

 GPAの導入に関する第二の問題点は、それが「どう使われるか」である。図1には想定されるような使用法(B)を挙げてみたが、この他にも、学生間の評判や就職面接やあるいは教官の評価にもフォーマル/インフォーマルにGPAが反映するであろう。指標でしかないものも実際の社会過程の中では、実態をもった「物象化」あるいは「フェティッシュ」として働くことになる。これが制度というものである。

(1)一番期待されて、かつ望ましい制度的な特質は、GPAが図1の最上段の、それも「勉学の態度」に(のみ)フィードバックすることである。このありがたさは(もしそうした効果が見込まれるなら)何ものにも代え難い。

(2)しかし、それが「フェティッシュ」として機能するならば、フィードバックは第二段の「成績の上昇」にフィードバックするであろう。履修は「戦略的」なものとなり、「楽勝科目」と「カンニング」の支配する大学となろう。教官は成績で学生を恫喝でき、学生は成績の低下をおそれるあまり、授業に対する批判もできないようでは、大学にはあるまじき知的頽廃が訪れるに違いない。現段階での議論の焦点はここにあったように見える。

(3)この「意図せざる」効果を減殺する方法をきちんとたてないでGPAを導入するとすれば、それは「社会学的センスの欠落」を意味する(というわけで、この書面を用意した)。

 まず、上で述べた「制度の見直し」を定期的に行い、これを絶対視させないこと、つぎにGPAを学生を評価する「多様な基準」の一つ、と位置づけることであろう。学生個人の個人カルテが「学籍簿」以外に存在しない状況は、「全人教育」から遠く隔たった状況である。

 さらにいえば、図1の第一段の様々な要因が結果としてGPAに反映されていく以上、大学としてはこれを「勉学の態度の善し悪し」に帰着させない体制が必要である。本人や家族が病気になることも、不測の天災に遭うこともあり、経済的な問題や個人的な悩みが原因でGPAのスコアが低調となることもあり得る。GPAのスコアが、何を反映した結果であるのか正しく認識し、「勉学態度の善し悪し」以外の本人の責任に起因しない成績不良を救済するシステムがなければ、GPAは場合によっては「生まれと運の良さ」を反映するものともなりかねない。業績原理の末端を担う大学という機関では「属性による差別」を許容するようなことは、あってはならないことである。

 GPA先進国のアメリカでは、これもアドバイザー(指導教官と訳すのかしら?)とチュートリアルという制度でカバーしているようである。学生の状況を常にモニターし、個別の事情に考慮し、必要があれば「カウンセリング」などの対応を行うことによって、学生が望ましいコースに乗れるように指導する制度、またクレーム処理としてそうした情報がFDに生かされる制度がぜひとも必要である。さもなければ大雨警報だけを出して避難場所の設定もなければ避難の勧告もしない、というおろかな「防災対策」になるであろう。