教養教育科目  伝統社会と近代社会

 火曜3限 担当:志田基与師

 15回(2010.7.26

*試験は、8月3日3限です。

前回の講義で出てきた「意図せざる結果(効果)」というのは「覚えておきたい言葉」でした。

 

15回:作為の契機、伝統、近代、歴史(前回の復習です)

本日のテーマ:近代社会でもっとも重要なものはなにか。それは作為の契機(覚えておきたい言葉)である。

 

参考:丸山真男『日本の思想』(岩波新書)、丸山真男『現代政治の思想と行動』(未来社)、川嶋武宜『日本人の法意識』(岩波新書)、山本七平・小室直樹『日本教の社会学』(講談社)、山本七平『空気の研究』(文春文庫)

 

1.禁欲的プロテスタントたちの生み出したもの

 

 禁欲的プロテスタントたちが生み出したものは「近代資本主義」だけではない。およそ近代的な制度のほとんどすべてである(順不同)。

(1)反省的な自我、社会関係から疎外され(社会関係の外にある)、神と向き合う「本当の自分」。これはひたすら「救われている」「証し」を求める、あるいは自分が救われていないような行動をとらなかったか、という反省に基づいて構成される。

(2)合理主義:目的合理主義(目的に対して最適の手段を選択する)、価値合理主義(一つの信条に生活を従属させる)。ロビンソン・クルーソー的な人間類型(大塚久雄)。これは、全然伝統的でない心的態度である。信仰あるいは神に救われるために行う行動/生活を支えるための行動、この二つに区別がなくなれば、生活のために行う行動もすべて神に救われるかどうか、という基準で判断せざるをえなくなる。「祈りかつ働け」というモットーが、生活の隅々までただ一つの目的(禁欲的プロテスタントたちにとっては「証し」)で統一し、最適の行動をとらせるようになる。

(3)近代科学:仮説の積み重ねと「反証主義」(既述)。

(4)業績原理:「隣人愛」の計量的表現。能力の束としての個人、自分自身を「人的資本」として対象化する「自己啓発」。しかし、これは結果として「成功したもの勝ち」の社会を作る。アメリカにおける「富」「富豪」はうしろめたくない。原理主義者であれば認めないような、(これは19世紀の話であるが)経済的成功(神に選ばれていること)と生存競争における勝者とを同等と見なす「社会ダーウィニズム」すら現れる。

(5)話は替わるが、家事、専業主婦、初等中等公教育、青年期、学歴競争(すでに講義済み)。

 

 しかし、一度生み出されたシステムは「禁欲的プロテスタンティズムぬき」で働くようになる(ウェーバー『プロテスタンティズムの倫理と・・・』の最終部分を見よ)。

 近代的なシステムが完全にそうした内面的・道徳的基礎なしで、自立的に維持できるかどうかはケースバイケースである。諸君はそうした例が実際に存在するかどうか確かめてみるべきである。とりわけ、もともとプロテスタント的でもなくキリスト教的でもない文化的基盤を持った社会に近代的諸制度が輸入された社会文化圏(ヨーロッパ・北アメリカ以外の社会)について、慎重に検討する必要がある(「○○型資本主義」など)。新渡戸稲造『武士道』はやや美化されているけれども、禁欲的プロテスタンティズムの等価物を日本の知的伝統に求めようとした試みである。ぜひとも一読を。

 

2.近代社会の特徴は「作為の契機」をもつ点にある

 

 作為の契機とは、人が、意思、意図、目標、目的をもって行動するところにある。社会の構成は人々が作為をもって行動する、その動機によって、内的、意味的に解明が可能である。目的をもった行為の結果には「責任」がつきまとう。よい結果にはよい責任(物的・象徴的な報酬)が、悪い結果には悪い責任(同じく罰)。近代社会では、人々は作為の契機をもち、そのことによって責任をも引き受ける。

 「である」ことと「する」こと。日本には作為の契機はない。東京裁判の例:一億総無責任体制(丸山真男)。「空気支配」(山本七平)。

 前近代的社会がもつ無作為性。自然的秩序観。

 

3.伝統とは、行為の起源を忘れる、理由を忘れる、目的を忘れることである(再説)

 

  伝統とは(ありとあらゆる意味で)事実が行為の根拠(規範)に転化する社会である(既述)。近代社会は規範的である(なんという逆説!)。

 「規範的である」とは、事実が現在や未来を拘束することではない。その逆に、(いまだ存在しない)目標が現在や未来を拘束するのである。くどいようだが、目標を実現するためには人々の実際の働きかけが必要であり、その意味で近代社会もやはり人々の実践によって支えられている。

 伝統と近代とは、作為の契機をめぐって真っ向対立する二つの原理である。近代社会は、この意味で、a)歴史感覚に満ち満ちている(伝統は歴史ともっとも遠い);b)規範的感覚に満ち満ちている(事実と規範とが分離した社会である)。

 

4.日本的「近代」の逆説

 

 キャッチアップ戦略(追いつけ追い越せ)の終焉とグローバルスタンダード。すべての発展途上国に共通する問題。

 たとえば、近代法は近代社会のモデルである。なぜならば近代法は、社会の合理的計算の基礎である(大岡裁きは近代社会では名裁判とは言えない)。 ヨーロッパ言語では「法」と「権利」と「正しさ」(英right,仏droit,独Recht)は同義語であり、法のもつ「正しさ」は、本来その社会で公認された正しさである(はず)。とすれば、是非善悪の異なる社会では異なる法制度が成立するはずである。しかし、日本の「近代」法の成立はそうではなかった。安政の不平等条約を改正するための法整備であった(江藤新平の民法策定の試み)。日本の法律は文明の落差の表明なのである。とすれば、そのほかの日本の近代化の産物にも同様のことは言えないであろうか? またその他の発展途上国の場合はどうか?
 

練習問題1:日本が受け入れたすべての制度文物に同様のことがいえまいか? 例を探してみよ。

練習問題2:すべての法が上の記述で割り切れるわけではない。例を探して見よ。

 


 
最終トピック:近代と反近代およびまとめ

この回のテーマ:近代社会は行き詰まっているのか。それは「考え方」にもよる。

 

0.近代社会・合理主義が切り落としたものは何だったのか?

 
それは「連帯」とよばれるものであろう。人々は個人としての達成(performance)ではかられる。それは「愛他主義」や「慈善」や「隣人愛」ですら、個人の達成に変換する社会である。自分の能力は神が自分に与えたものであり、他者はなんと「隣人愛」を実行するための手段に他ならない。
 たしかに、近代社会は人々をそのように動機づける「文体」をもち、その結果偉大な達成をした。われわれの物質的生活の基盤および精神生活の基盤の大部分は、この「文体」に負っている。しかし、道徳的にはどうなのであろうか? われわれは、こうした社会の(とくに道徳的基盤に関することについて)どこまでを許容すべきなのであろうか?


1.モダンとポストモダン

 

 近代(モダン)というのは、歴史的な産物であって、決して普遍的なものではない(世界史的に見てもある特定の地域で一回だけ起こった:既述)。近代西欧社会以外では、「近代化」は外部から押し寄せるものとして経験されている。さらにいえば「近代化」した社会では、「近代化」にたいする閉塞感やその「ほころび」のようなものが見えるではないか。

(1)エスニシティからの逆襲。文化相対主義の魔力。ナショナリズム、ファンダメンタリズム(原理主義)へ傾斜する世界。これが、近代的な教育システム(学校教育の普及や識字率の向上)とコミュニケーション手段の向上(印刷・放送・インターネット)のなせる業であることはなんという皮肉であるか。

(2)ポストモダニズムとはいったい何か。プレモダンとどこが違うのか。流行と差異とに文化は解消できるのか。→運動としての近代

(3)主体性の神話の崩壊。「私は誰」。アイデンティティと想像力。

(4)制度化と官僚主義の進展。「鉄の檻」(M.ウェーバー)と「外部」の喪失。

 

2.マルクス主義とエコロジー:進歩と発展、生産力、あるいは反近代の思想

 

(1)資本主義の矛盾は、資本主義の特質そのものうちにある。成長の限界、資源の枯渇。持続可能な発展は可能か。

(2)エコロジー運動は、環境社会主義に向かうか、環境資本主義に向かうか、それとも環境封建主義に向かうのか。

 

3.保守主義(ハイエク)と言語ゲーム論(ヴィットゲンシュタイン)

 

  もしも近代が自立できるとすれば、それは「根拠を問う」という行為によって可能となる。つまり、われわれの「作為」は何に基づいているか、という問いである。

(1)われわれの作為は、それ自体が決して正当化されない無根拠の「伝統」に基づく。伝統は、それ自体が根拠であって、他の何者によっても基礎づけられない。ただそこにあるだけであり、それが社会の基礎である。

(2)われわれの世界そのものが、壮大な言語ゲームであり、ここから外に出ることはできない。知るということは、無知の限界を知ることである。

 

4.ニヒリズムを超えて:近代社会は運動である(まとめ)

 

(0)われわれは今、文明の転換点にいる。狩猟採集社会から、定住農耕社会へ、そして、専門分化による雇用労働化社会へという動きは明白。この社会状況では部分と全体の関係が捉えがたくなり、見えない全体社会が出現する。巨大な壁なのかそれとも幻覚なのか。専門に固執することは新たな封建社会を導くことになる。

(1)近代社会には本来完成はない。現状に安住したらおしまい。イノベーション(「技術革新」という訳語は狭すぎる、本来は「新機軸」というべきである)による「永久革命理論」は、近代社会そのものに当てはまる。イノベーション/社会の発展。

(2)近代社会を他と分ける規準は、外的な産物(科学技術とその成果)にはない。近代社会は一つのスフィンクスも、一つのタジマハールも生み出さない。近代社会は、その産物を自らの手で破壊する。近代社会の特徴は、内面における「規範的態度」によって特徴づけられる。不断の作為の行使/責任の引き受け、の2種類の行為の組み合わせで近代社会はできている。このどちらを回避しても、社会は停滞するし、近代は死に絶える。

(3)根拠がないことはよいことである。近代社会は頼るべき何者ももたないし、持ち得ない。伝統は誰かによって作られたし、前例は誰かによって必ず破られる。われわれは言語ゲームのルールに従っているが、いつでもそれとは異なるゲームを始めることもできるのである。「nが存在するならば、必ずn+1も存在する」(数学の「可算無限」の定義)という比喩に依拠するならば、近代社会は無限であり、常に「外部」に向かって開かれた社会である。その反対に、近代社会のシステムが巨大な圧迫的構築物であり、動かしがたいように映る(それは有限で、外部を持たないことになる)のならば、それはすでに近代の産物ではなく、封建主義的な遺制になっているということである。

(4)悪い物(事)を改められるのは近代社会だけである。近代社会が行き詰まっているとしたら、それは人類社会そのものが行き詰まっていることを意味する。(「0.」のところで問いかけたことの答えもここに見つかるであろう)

 

【参考文献】

橋爪大三郎 1985 『言語ゲームと社会理論』勁草書房.

落合仁司 1986 『保守主義の社会理論』勁草書房.



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