教養教育科目  伝統社会と近代社会

火曜3限 担当:志田基与師

第3回 知識や学問ということあるいは教養について

2011.4.26.

 

 

まずはじめに、前回の資料(1,2回用)にある「知識のPublic Domain」という話をします。そのあとで、今回の「知の殿堂」である大学やら、皆さんの受講する「教養教育科目」とは、知識や学問の世界の中でどんな位置を占めているのでしょうか?

 その前に、これからしばらくのお話の簡単なまとめ

 コミュニケーションの基本的な働きは次の4つにまとめられる(「情報の正確な伝達」だけがコミュニケーションのモデルではない、われわれが、言葉や意味を使って何をしているか、を考える)。「オオカミが来た!」を考えてみよう。


(1)感情の共有 サッカー場や野球場やコンパで騒ぐ!
(2)状況の定義  
(「状況の定義」は「覚えておきたい言葉」です)
(3)命令(あるいは期待)の伝達
(4)情報の正確な伝達・客観的知識の伝達


 こういう考え方に基づいて、「知識」や「学問」や「科学」について考えていきます。

 

 

大学といえば、知識だ、学問だ、科学だ! ところで、「知識」や「学問」や「科学」ってそもそも何よ?

 


こちらもどうぞhttp://www5b.biglobe.ne.jp/~SHIDA/univ1221.htm

1.大学はもともと中世の世界である

 

●(大学に限らず)たいていの制度は、その歴史的前身というものをもっている。改革し改良したといっても、それは盲腸を残していたり、場合によっては先祖返りをしたりする。

 

●大学の歴史的前身(歴史的な「古い大学」)の本質は「ギルド」(同業者組合という)である。

 1000年前、小学校も中学校もない時代にすでに大学はあった。学校制度の整備された順番と学生の人生がたどる教逆の順番とは逆である。

幼稚園の教諭や保育園の保育士にも免許・資格が必要なのに、大学の教師にはなんの資格もいらない(いわゆる「無免許運転」である)。なぜなら、「免許」などという観念のない時代から大学はあったから。

 ちなみに、歴史的な大学は、哲、法、医、神の4学部編成であった(横浜国立大学の学部編成と比べてみよ)。

 大学はギルドであった。大学の本質を理解するための、いくつかのキーワードを挙げておこう:

 

利権と慣行;新規参入者の制限;親方と徒弟。

 

それゆえ「教授会」はギルドのボスの寄り合いであり、「学問の自律」「大学の自治」のルーツの一つはここにある(すべてではない)。

Public Domain(前回参照)を拡張する仕事は、世俗の権力や義務を離れて、「額に汗せず」、悪くいえば「考えるだけで」飯が食えるおいしい職業ですらある。すべての人々がこういった地位については、社会は正常な活動ができなくなる。そこで、少数の人間を選んで、その人々にだけ、その特権を与えることにする(教員だけではなく、学生もまた同じ)。ある者がこの地位にありつけば他の人間が排除される(入学試験を考えてみよ)、という意味で、大学は知識の公共性を謳う割には、本来は(あるいは伝統的には)きわめて「排他的」な組織なのである。弁当屋なら、いつでも自由に開業できるし、競争に勝てば生き残れる。それとは反対に大学は、社会的に供給される少数のポストに守られて、その地位を確保している人々の集まりなのである。弁護士会や医師会や日本相撲協会の理事会と同じ(ヤクザの方がよほど競争にさらされている)。こうした大学の持っている「出自」「血統」には注意を払っていてほしい。

 ヨーロッパでは(もちろんアメリカでも)、つい最近までの長い歴史(19世紀まで)の中で大学がまともな「学校」であったことはほとんどない(潮木,1986参照)。大学生のための「家庭教師」や「塾」が存在した(大学の教員の「学識」がしばしば怪しかったからであり、にもかかわらず大学卒業や博士号は大学の専売特許であったからである)。ダブルスクールは昔から当たり前だった。科学革命の時代ですら多くの大学は科学の進歩になんの貢献もしなかった。「学生」が「強盗」であることもあった(詩人フランソワ・ヴィヨン)。もちろん現在は違う(といいな)。

 

●日本の大学制度の出発点

 日本で起きていることは、以上のような「歴史」のほかに、「日本における受容の歴史」という、さらに厄介な前身がつきまとう。

 フンボルトによるベルリン大学の改革によって、大学は教員による研究を教育の基本に据えることにより、再生した。いわば教員の研究する背中をみせて、学生を奮い立たせたわけで、ちょうどヨーロッパにおける近代的な科学の発展充実期に当たったから、学生は知的な成果の誕生する現場に立ち会うことが可能となった。研究と教育の幸福な両立が成立し、大学は「理想の時代」を迎える。そこで、ドイツ流の大学が世界の大学のモデルとなった。

 ところで、日本の大学はさらに別の「出自」と「血統」をもっている。第1に、日本の大学は輸入品である(中山,1978参照)。欧米が進んでいて、日本は遅れている、という発想、また進んだ制度を丸ごと取り入れればよい、という政策、そして受け入れの担当者がこれについてもっともよく知っている、という思想、これを体現したものが日本の大学である。文明開化・鹿鳴館思想の産物であり、不平等条約改正のために大学ができた。いまも「教育」を取り巻くさまざまな主張には、この「黒船」と「鹿鳴館」と「官僚統制」と「グローバルスタンダード」が充満している。

 

●「学校化」する大学

 大学が「再生」したのは、不幸なことにそのPublic Domain拡張の機能が正当に評価されたためではなく、産業社会において「上級の学校」として機能するようになったためである。すなわち、大量の知識コピーを生産し、とくに出来の良いコピーに高収入や、高い威信や、権力を割り当てる、というシステムができたからなのである(この背後には、「学歴社会」問題があるが、これはもっとあとで触れる)。大学をはじめとする教育機関には知識の伝達・発展という表の作用と同時に、人々をさまざまな(職業的)地位に割り当てるという、地位付与の作用があり、不幸なことにこの二つは切り離せない(「地位付与」は「覚えておきたい言葉」です)。

 「大学は博物館(知識の継承)なのかノーベル賞生産所(知識の開発)なのか、それとも中堅労働者の育成所(単なる学校)なのか?」。この問題は、「伝統的な社会における大学と近代社会(とくに産業化した社会)における大学の違いとして理解できる」はずなのであるが、日本ではあまり理解されていない。(他のすべての制度と同様に)欧米の制度の「外枠」だけをなぞっているからである。

 

2.教養とは何か

 

 同様に「教養とは何か」とか「教養が何の役に立つか」も時代とともにその意味が変化する。

 現代社会における「教養」の意味と意義とを理解するためには、現代社会における高度な「分業」の意味を知らなければならない。

 

●「古典的な教養」

 かつては、ある階層、「支配階級」のメンバーとなるためのパスポートであった。高等教育を受ける人間がごく少数であったため、教養という特殊なアクセサリー(実生活には役に立たない、立たないからこそ地位の象徴である)を備えていることで身分の証とした(旧制高校生の「デカンショ節」を知っていますか? http://www.city.sasayama.hyogo.jp/dekyurai.html)。

 

●現代社会(高学歴化・専門分化した社会)

ところが、現代の先進社会においては大学が大衆化している。「支配」の道具ではなく、「専門家」を養成するための大学教育になっている。これは、高度な産業化によって分業が高度化したためである。したがって、大学卒業者はエリートで専門家ではあるが、少数の支配者ではなくなった。大学進学率が50%にもなれば、他の人々もみな、専門家でエリートではあるが、にもかかわらず支配者でない人々である。それぞれの専門家が非専門家に自分の知識技能を売って生計を立てている。

 こういう時代に「専門馬鹿」でよいのか?(「反語」というものである)。他の専門家に「だまされる」かもしれない。自分の技能や知識に金を払ってくれる(あるいは専門の存在を認めてくれる)のは、非専門家である他の人々である。自分の専門を大衆化した大学の時代における教養とは、専門の基礎というだけではなく;(1)「生きる力」、(2)分業の中で、他の専門を理解しチェックする能力、(3)同じく自分の専門を他人に理解させる能力(説得力・説明責任能力accoutability)のことである。「わからない奴が悪い」ではお客は逃げるから、教養は必要である。「だました方が悪い」のは当然だが、だまされないためにも教養はある。社会の専門分化が進むにつれ、この種の「教養」の必要性は益々高まっている。


●要するに教養は「あなたも私も知っているはず」ということが基本の知識である。
 こういう知識は、直接「金になる」わけではない(専門性はない)。しかしながら、みんなが知っていると、そうでないとでは、コミュニケーションの効率や仕事の進行に著しい悪影響が出る。教養は知的世界のインフラストラクチャーであり、公共財である(すでにお話ししたように
Public Domain としての知識本来の働きである)。 
 (「公共財」は「覚えておきたい言葉」です。経済学では、利用料を払うことなく誰でも使えるものやサービスを「公共財」といいます)。

 

3.知識とリテラシー

 

(このエピソードは第一回でやりました)
 ちなみに、日本にはどのくらいの本屋さんがあるか知っていますか? やや古い資料ですが、http://taketaku.blog85.fc2.com/blog-entry-208.html をみると17,000軒ほどです。一般の学術書は、初版第一刷りでせいぜい2,000部ほどですから、教科書や参考書が本屋さんにないのは当然のことです。

 また、本の「印税」(著作者が本の売り上げからもらえる収入)は、ふつう定価の10%です。1000円の定価の本を、2,000部売って、著者にはいくらの収入があるでしょうか?

 単行本を出すよりも雑誌に書いた原稿料の方が高くなることがあります(400字で5,000円ぐらい)。なぜでしょう? 雑誌には「広告」があるからです。当然のことながら雑誌の読者は広告の分だけ「得」をしていることになり、その余禄が著者にも来るのです。

 

●活字は「文化」である

その昔、暗記こそ学問だった。九九、数え歌、詩、お経など。本はあとからできたのです。「韋編三絶」(『史記』):文字と書物。竹簡、木簡、巻物。

 活字文化が、文化を変えた。映像文化、ニューメディアも文化を変える。

 それでも、大学、学問の世界は圧倒的に本の世界である。TVより、本。放送大学ですらテキスト「ブック」がある。

 本の長所:一覧性;検索のしやすさ;スピードが変えられる;持ち運びやすさ;場所を選ばない;長期保存可能。

 本の短所:場所をとる;重い;頭から読むしかない。

 

書誌的データ:書物の世界の掟

 「行間」ではなく「行外」を読む。「奥付」の読み方。

・雑誌と単行本。本と論文。『』と「」。

・単著、共著。講座とリーディングス。書き下ろしと初出。

・著者、編者、編著者、著作権者、監修者。

・タイトル、表題、副題。角書き。あおり文句。

・刊行年。頁。

・刊行場所、出版社(刊行者)。

・版と刷り。初版本コレクター。

・章、節、項、注。

・要約、要旨。

・原著と翻訳。

 知識のオリジナリティーは、十分に尊重する、というのが学問の世界、大学という世界の仁義である。逆に、書誌的データを隠して、レポート、答案、論文を作成すると、(本人の意図とは無関係に)「盗作」とされて、犯罪者としてこの世界から追放される。

 

●論文の読み方書き方

 文「。」から「。」まで:文には「主張(いいたいこと)」がある(べきである)。

 段落:一群のまとまりをもった主張。

 文章:さらに大きな単位のまとまりをもった主張。

 どの部分も「主張」があるべきである。

 事実と意見の峻別。前提と結論の明確化。

 自分の主張と他人の主張。引用と盗作。著作権とコピー。

 

【参考文献】

         潮木守一『キャンパスの生態誌』1986 中央公論社(中公新書)。

     マックス・ウェーバー『職業としての学問』(原著1920)岩波書店(岩波文庫)。

     中山茂『帝国大学の誕生』1978 中央公論社(中公新書)。

     川成洋『大学崩壊!』2000 宝島社(宝島新書)。

木下是雄『理科系の作文技術』1981 中央公論社(中公新書624)。

     田川建三『書物としての新約聖書』1997 勁草書房。

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