教養教育科目   伝統社会と近代社会

 火曜3限 担当:志田基与師

 11回(2011.6.28

 

(前回資料の続き)



3.インド社会と仏教の基盤
 儒教と仏教とは、同じアジアの宗教でも、対極にある。儒教は「現世(此岸)」に基盤があるのに、仏教は「彼岸」を求める。

(1)インドにおける宗教者の経済的基盤:「出家(しゅっけ)」と「無一物(むいちもつ)」、「托鉢(たくはつ)」と「乞喰(こつじき)」、「袈裟(けさ)」。生産に携わることも社会的地位を求めることもない。(これは現在のジャイナ教の修行者。やや極端な例であるが)



http://now.ohah.net/maha/jain.shtml    http://www.tamagawa.ac.jp/SISETU/kyouken/WebLibrary/toudaiji/index.htmlhttp://www.sawaddeejapan.com/modules/lang/index.php/20070903.html
 仏教・インドにおける「聖」者と儒教における「君子」とは、その経済基盤がまったく逆転している。その求道者と研究者的態度とは、専門の哲学者ともいえる。
cf.在家(出家ではない)信者。

(2)インドの宇宙観:すべての存在は「輪廻転生(りんねてんせい)」する。「六道(りくどう;天上、人間、修羅(有名な興福寺の阿修羅像)、餓鬼、畜生、地獄)」を生まれ変わり死に変わる。カストや階層もこの一環である。上の世界はそれなりに「いいところ」であるが、天上も「あがり」ではない。転生は結局は「苦の再生産」となる。それは、法(ダルマ=因果法則)によって行われる。「善因善果」「悪因悪果」であり、徹底した個人主義をとる。本質的には功徳(くどく)は他へ及ばないので「親の因果が子に報い」は仏教の教えからは誤り。上座部仏教(小乗仏教)と大乗仏教はここから分岐する。


http://www.welcome-nikko.com/adachi/09.html  http://www.bell.jp/pancho/k_diary-2/2009_04_24.htm

http://teishoin.net/blog/003552.html                http://www.tnm.jp/modules/r_collection/index.php?controller=other&colid=A10942

(3)釈迦(しゃか)は、こうした前提の下、修行によって悟りを開いたといわれ、さらに彼の弟子たちにその教えを説いた。

http://rosyu-toyoko.de-blog.jp/blog/2010/07/21_7c55.html  http://plaza.rakuten.co.jp/takacyan/diary/201003030000/

 

4.仏教の真髄

(1)輪廻転生からの解放:「解脱(げだつ)」と「涅槃(ねはん、ニルヴァーナ)」とが救済である。もう何にも、どこにも生まれ変わらない。輪廻転生のサイクルから離脱すること。

(2)「法」にかんする完全な理解=完全な制御(法力)が、解脱への鍵である。これは自力で探求するしかない(誰も救ってなどくれない)。しかも、救いにあずかるチャンスはきわめてまれにしかない。「盲亀の浮木」「優曇華(ウドンゲ)の花」のたとえ。

(3)修行は「解脱」のための手段であり、決定的に正しい修行法はない。すべての行いは「解脱」によって正当化される(どんな方法をとろうと「悟りが開ければOK)。これが分派に次ぐ分派を生み出す。

(4)それでは「戒律」は? 修行者集団(出家/僧伽/サンガ)の自治のために作られた(悟りを開くための勉強会の規則であって、戒律は悟りを開くための規則ではない)。「独覚」(釈迦の教えによらず悟りを開いた者)の存在(たとえば唯摩)や「前世物語(ジャータカ)」(有名なところでは、法隆寺の玉虫の厨子に描かれている捨身飼虎図など)の存在は、仏教の戒律が解脱のための十分条件でも必要条件でもないことを意味する。
外形的行動に対する曖昧な規定が宗教集団としての仏教をインドから消滅させた。→一般大衆を相手にするためには、「わかりやすく」ないといけない?


http://hectonchair.jugem.jp/?eid=31

 

5.一神教の世界と多神教の世界

ここからのテーマ:1)(古代)ユダヤ教 2)イスラム教 3)キリスト教

         4)キリスト教と宗教改革;近代資本主義はいかにして生まれたか

 

(1)「ヤハウェ(エホバは誤読)」「アッラー」は、一柱の神の別名。ユダヤ教徒、キリスト教徒、イスラム教徒は同一の神を信仰している。それだけではない、同一のテクストを「啓典」として共有している。ユダヤ教徒:『旧約聖書』+α、キリスト教徒:『旧約聖書』『新約聖書』、イスラム教徒:『旧約聖書』(の一部)『コーラン』。もちろん『旧約聖書』『新約聖書』はキリスト教徒の呼び名である。

(2)「創造主」「絶対者」である神との「契約」、「オリエント宗主権契約」に原型がある。「絶対者」である神には、神の好むやり方で一方的に人々を支配する権利があり、これに抵抗して人々が生存する余地はない(契約に違反したものは救済されない)。→パウロのたとえ「壺作りと壺」を参照。

(3)「預言者(予言者ではない)」の存在と「奇跡」。神が選び、神の命令を実行するだけ、本人にはなんの実力もない。創造者と被造物の違い。

 

6.ユダヤ教の論理

(1)神はこの世界を創造し、人間(アダム)を生みだし、楽園の支配権を与えた。しかし、アダムは神の言いつけを守らずに楽園から追放される。ところが、神はアダムの子孫を見捨てずに、神との契約を守るものを楽園へと導く。そのために、たびたび啓示を与え、予言者を遣わす。この形式は3宗教に共通する。

(2)神との契約の内容は、具体的かつ外形的である。ノアの箱舟(http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%8E%E3%82%A2%E3%81%AE%E6%96%B9%E8%88%9F)は神が設計図を与えてくれた(「創世記」)。映画「レイダーズ:失われたアーク」に出てくる聖櫃(アークhttp://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%91%E7%B4%84%E3%81%AE%E7%AE%B1)も、神が設計図を与えている。

同一の神を信じ、同一の契約を守るものは、同じ生活習慣をもち、共同体(それに属する人々と属さない人々とを厳格に区別する集団の作り方)を作る。モーゼの「十戒」や「食物規範」がそれである。「海のなかで泳ぐもので鰭と鱗のないものは食べてはならない」「蹄の割れている動物で反芻しないものを食べてはならない」「子羊を母羊の乳で煮てはならない」「利息をとって人に金を貸してはならない」。
 異教徒:共同体外の存在であり、「人間以下」である。シェークスピア「ベニスの商人」に出てくるユダヤ人の金貸しシャイロックはどうやって商売をしていたのか? この特徴はイスラム教にかなりの程度共通するが、キリスト教には当てはまらない。

(3)ユダヤ教のポイント:(キリスト教徒から見ると)人は神との契約を守れるのか。

 

7.キリスト教の論理(略述:詳しくはもっとあとで)

(1)旧約聖書と新約聖書というロジック:古い契約は「更改」される。たびたび出現する預言者。最後の預言者で、神そのもののイエスが現れて「新しい契約」が神と結ばれ、それを守る人間が救済(最後の審判の際に天国に入れる)される。古いユダヤ教イスラエル的共同体の打破。

(2)外形的な行動規範がない(イエスによって否定される)。ローマ皇帝の権力(世俗権力)との妥協によって、身体と魂の二元論となる。内面的な信仰のみが神との契約の証である。

(3)キリスト教のポイント:何がキリスト教的な信仰なのか?

 

8.イスラム教の論理

(1)ユダヤ教と同様に神政政治。聖職者すらいない。法はイスラム教の教え(トーラー、コーラン、ハディース)。

(2)同じく外形的行動様式:信仰告白、礼拝、断食、巡礼、喜捨。「聖戦(ジハード:原義は「努力すること」)」は義務ではない。

(3)イスラム原理主義は新しい。原理主義(ファンダメンタリズム)の元祖はキリスト教。

 

9.歴史的因果関係:クイズ「産業革命、ルネサンス、市民革命、宗教改革。歴史的な順序に並べよ」

命題:科学技術や資本や労働力だけでは近代化できない。
 近代社会はそれに対応する合理的な人間類型(精神作用の持ち主)によって支えられている。伝統社会と近代社会とはその「心根」によって分離している。

   資本主義は、もっとも宗教的に敬虔な人々によって生み出された。

 

(1)資本主義は、現在はその固有の論理で支えられているが、もともと禁欲的プロテスタンティズムによって生み出された。歴史上、資本主義を支える特有の行動様式(エートス=内的規範によって支えられる行動様式)は、近世ヨーロッパ、北アメリカの、もっとも反世俗的な「禁欲的プロテスタンティズム」によって与えられた。これは宗教的感情の「効果」である。

(2)科学技術、大規模な商業、労働力、資本、それらは単独でも組合わさっても資本主義を生まない。古代オリエント、古代中国、古代インドの歴史を見よ。

(3)宗教と近代社会は対立するようでいて、その実近代社会は宗教が生み出した。

 

10.カソリックとプロテスタント:キリスト教再論

(1)「宗教改革」:ルターは何を訴えたのか。「免罪符」にではなく「被造物神化(ひぞうぶつかみか)」に反対した。

(2)グーテンベルグの起こした革命。キリスト教の聖書は何語で書かれていたか。預言者と「聖書を読む人」。

(3)宗教戦争(例:30年戦争)とは何だったのか。

(4)原理主義者たち(ファンダメンタリスツ)。「モンキートライアル」(進化論裁判)。

 

11.『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(M.ウェーバー)

禁欲的プロテスタンティズムとは?

(1)「天職」としての職業。Beruf, Calling。マルティン・ルターの「誤訳」(?)。
      世俗における職業遂行が神に与えられた義務である。

(2)「世俗内禁欲」、祈りもなく、音楽もなく...。禁欲的プロテスタントの生活信条。
    「金」「富」は人を堕落させるものである。

(3)「予定説」。神すらも人間を救えない。創造主と被造物の関係。血も涙もない神(詩人ミルトンの失望)。
    誰が救済され、誰が永遠の地獄に堕ちるかは、神が一方的に決める。そして神の決定は変更できない。いいことをしたから神に救ってもらえるのではなく、神に救ってもらえるような人間は神の言いつけにしたがった行動がとれる、という論理。

(4)「隣人愛」「汝の隣人を愛せよ」「黄金律(汝が施されんと欲するところを人に施せ)」
    詩人(?)イエス。「空を飛ぶ鳥」「野のユリ」。ユダヤ教の戒律に従わなければ救済されないなら、ほとんどのユダヤ教徒は救済が不可能。

 

 その結果が、偉大な逆説、意図せざる効果として資本主義を生み出す。証(あかし)を求める精神的態度。
(1)天職 → まじめに働く(2)禁欲 → 働く以外に楽しみはない (3)予定説 → さぼったら神に選ばれていない証拠 (4)隣人愛 → 他人に役に立つほど神の意志にかなう  → 金が貯まる → さらなる労働と隣人愛へ → 際限なく繰り返す

 資本=自らを増殖させる富。伝統破壊効果。資本家と労働者に共通する行動様式。

 

資本主義の精神とは?

(1)際限のない「合理性」。

(2)「時は金なり」(ベンジャミン・フランクリン)。自己規律、信用。「鉄の檻」(ウェーバー)。

(3)勤労の精神、反伝統的態度、合理主義。

(4)近代的自我の発生(自己反省)。近代科学の精神(自己懐疑)との相似性。

こうした精神的な態度のないところに資本主義は育たない。近代官僚制も根付かない。当然社会主義も成立できない。

 

  余談1:日本にある「資本主義」の反倫理性。

余談2:古き善きアメリカ映画:a)ヘイズ・コード;b)プロテスタント的価値。

余談3:新渡戸稲造『武士道』。

 

【文献】

小室直樹 2000 『日本人のための宗教原論』徳間書店。

橋爪大三郎 2001 『世界がわかる宗教社会学入門』筑摩書房。

フーブラー&フーブラー 1994 『儒教』青土社。

浅野裕一 1999 『儒教ルサンチマンの宗教』平凡社新書。

加地伸行 『儒教とは何か』中公新書。

フィンガレット 1994 『孔子』平凡社。

ベック 『仏教』岩波文庫。

片倉もとこ 1992 『イスラームの日常世界』岩波新書。

岡倉徹志 1987 『イスラム急進派』岩波新書。

マックス・ウェーバー 原著1904/1905 『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(岩波文庫)。

田川建三『書物としての新約聖書』勁草書房。

大塚久雄 『社会科学における人間』岩波新書。

丸山真男  『日本の思想』岩波新書。

川嶋武宜 『日本人の法意識』岩波新書。

新渡戸稲造 『武士道』岩波文庫。

 

 

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