このページはBIAブライダルコーディネーター講座受講者の便宜を図るために掲載するものです。ウェブページに掲載するに当たって、講義テキストにあった図表とグラフとを省略しました。また参考文献表や注も省いてあります。あしからずご了承下さい。今後本文も含めて逐次改訂する予定です。

 

ブライダル総論

2003年BIAブライダルコーディネーター養成講座

2003.7.29 東京 2003.8.5 大阪

志田基与師(横浜国立大学環境情報研究院)

 

1.儀式の社会的意味:講義の結論

 

 「教員」は、この業界でおそれられている。なぜかといえば、話が長く、かつつまらないからである。日常の仕事の中で我々教員は、「自分の話していることが聞かれるべきである」という期待を裏切られることが滅多にない。それが、「自分の話は役に立つ、ありがたいものだ」という錯覚につながる。こういう人種が披露宴のスピーチにたつと、予定の時間はたちまち超過し、座は完全に白けるということになる。教員は儀式の破壊者なのである。

 そういう教員の一人が話す以上、この講義を受講してもそれだけで直接的にブライダルコーディネーターとして役立つような内容はない。それは、この講義の内容が「儀礼」や「ブライダル」にかんする「一般原則」に過ぎないからである。皆さんの日々の仕事には、この講義の内容の「状況に応じた応用」が必要であり、それがなければブライダルコーディネーターとしての仕事は不可能であろう。「応用と工夫の中にブライダルがある」ということこそ、実はこの講義の結論でもある。

 はじめに、その「一般原則」を述べておく。残りの時間で、明治以降の日本のブライダルの移り変わり(歴史)を材料にこれらの原則を確認していこうと思う。

 

(1)   伝統・慣習・しきたりなどは発明されたものである。

ものごとにはすべて始まり(起源)がある。それ以前には存在しなかったことがらが社会に導入されたということは「発明」というしかない。発明された時期、発明した人、その意図や目的を忘れると伝統になる。だから、伝統には、歴史があるのではなく、多くの人が信じていることを意味する(であるから、伝統と流行とは心の働きの上では全く同様のものである)。よって伝統は変化するし、変えられる。意図や目的がはっきりしていれば変えても構わないし、そうしなくともいつの間にか変わっていく。

この実例は、のちほど「神前結婚式の発明」や「戦後の披露宴の変化」という事例で具体的に説明されるであろう。

 

(2)     儀礼はその社会の「建前」を表明するものである

儀礼も、他のことがら同様に社会における発明品である。それは歴史上のある時点で何かの目的をもったある人々によって始められたのである。では、どのようにして、あるいは何の目的をもって始められ、継承・維持されていくものなのであろうか。

図1(省略)を参照してほしい。私はこれを「儀礼の三角形」と呼んでいる。儀礼の目的は、その社会(集団)を成り立たせている社会規範(建前)を表明し、それを確認することにある。もちろん実生活(本音)と規範とはしばしば乖離するし、建前通りにことが運ばないことは皆が知っている。それでもなお規範の「正しさ」については、人々は逆らえない。

私の現在考えている仮説によれば、規範(建前)は社会を制御できる(もちろん限界はあるが)、社会の実態が規範を変えることもありえる、しかし儀礼が社会の実態や規範を変化させる、ということはほとんど可能性がない(全くない、とは言い切れないが)。つまり、儀礼の意味と有効性とは、その社会の建前を反映しているときに限るのである。

ところで、社会が変われば建前も変わる。建前が変われば儀礼も変わらざるをえない。社会が変わって、その社会の建前も変化しているときに、同じ儀礼を維持しようとする儀礼関係者は、犯罪的行為をなしているともいえる。なぜならば、もはや社会の本音を制御しきれなくなった「賞味期限切れ」の建前を人々に押しつけることになるからである。また、社会の内部で多様性が高まれば、社会の一部分にだけ通用する建前も多数存在するようになる。これを「社会の多様性」「個性」といったりする。

 やや長くなるが具体例を一つあげよう。

 柳田國男(1875−1962、日本民俗学の泰斗、日本常民文化研究に多大の成果をおさめた)『婚姻の話』(1948)によれば、かつて北九州、四国などには「嫁盗み」や「嫁かたぎ」と呼ばれる風習があった。同様の風習は様々に名前を変えて日本全国に分布していたようである。字面は「略奪婚」だが、実態は合意による恋愛結婚なのである。

 想いを交わした男女があって、女性の親の承諾が得られ(そうも)ないとき、男性の友人たちが農作業帰りの女性を路上で「誘拐」する。女性の方も先刻承知であって、そのまま男性の仲間にかくまってもらう。他方、男性の友人代表が女性の親のところに「娘を預かっているから、某々との結婚を承諾せよ」と交渉に赴く。親のほうも内心は同意だが、不承不承強要に屈した体で結婚を承諾することになる。

 西日本の農村部では伝統的に配偶者の選択に本人たちの意思が尊重される傾向があった。とはいえ、女性の婚姻を決定する(父)親の権威を無視するわけにはいかない。正式の婚姻手続き(その地方の慣習)を踏めば、男性と女性のイエの間にしかるべき仲介者が立ち、双方を往復しながら、細々とした婚姻の条件(嫁入りに際してどのような支度をするかなども含めて)の合意をとりつけ、節目ごとに多くの儀礼(それぞれに宴会が付属する)をこなしていかなければならない。

 「盗まれた」嫁は、嫁入り支度をしなくてもよかったというから、「嫁盗み」は慣習的な儀礼を省略することにより、女性の親にとって経済的なメリットがあった。なかには娘の思い染めている男に対して「どうか盗んでくれ」と頼む父親もいたという。

 それでも「嫁盗み」が略式ながら正規の婚姻手続きのひとつであることは疑いようがない。もし婚姻の成立が若い男女の合意だけに依存するなら、「盗む」ことによって親の権威を「承認」するまでもなく結婚できるはずだから。

 結婚式の社会力学は、このエピソードに象徴的に表れている。実質的には男女の合意で成立する結婚に、「娘は親のものである」という形式的な権威(=建前)を確認する手続きが必要だったのである。

 結婚式に「正しいやり方」があるのかどうか、は、一にかかってこうした権威の承認をえられるかどうか、あるいは結婚にかんする社会規範(建前)をどう反映するかという問題である。

 

(3)建前を確認する手段としての儀礼

 儀式は社会規範を象徴的に確認する手続きであって、結婚式もその例外ではない。逆に言えば、結婚式が象徴しているものは、その社会における婚姻にかんする社会規範なのである。社会が変動すれば社会規範も変動する。社会規範が変動すれば、儀式も変化する。結婚式の変化には、日本の社会の結婚にかんする規範の変化と、直接的・間接的な日本の社会構造の変動そのもの変化が反映している。逆にいえば、結婚式の今後を占うには、結婚規範がどうな(ってい)るか、社会構造の変化がどうな(ってい)るかを知ればよいことになる。

 しかしながら、儀礼の目的が建前の確認であっても、それによって儀礼の形態が自動的に決まるわけではない。目的と手段との間には、自動的には決定されない様々の要因・状況が横たわっている。極端な話、確認したい建前が同じでも、人々の知識や社会状況などによって全く違う表現の方法がありえるのである。ブライダルコーディネーターとしては、こうした目的と手段との選択性に、センスを示してビジネス・チャンスを見いだす余地があるというべきであろう。

 たとえば、神前結婚式以前に、主として農村部で行われていた婚姻儀礼は様々な「呪術」を含んでいた。それは、人々がアニミズム的な世界に住んでいて、その社会の常識に寄り添った形での「確認」を求めるからである。小さな神々や様々な「禁忌(タブー)」が、社会の合理化によって消滅してしまえば、これらの儀式は婚姻についての規範を確認する能力を失ってしまう。

 もっとも、「忌み言葉」のようないくつかのタブ-は、たんに「慣習」「伝統」に権威を求める、ということにより、ほそぼそと生き続けてはいる。

 キリスト教式や神前式の婚姻儀礼が「神」という超越的な「権威」を媒介にして婚姻の成立を宣言するものであることは明らかである。また、媒酌人の存在は、二つの「イエ」の上に立つ擬似家族的な権威によっている。そうした権威が信じられなくなれば(あるいは信じない集団であれば)、これらの儀礼は結婚式として採用されなくなる。

 これに対して、より近代的・主体的な社会の中に生きる人々にとっては、建前の確認は「契約」の中にある。当事者の明確な意志と責任の所在を宣言することによって、規範は確認されるのである。「入籍するだけ」という「結婚式なし組」も、その意味では立派な儀礼なのであって、そこには呪術も慣習も権威も必要なく、当事者の合意だけが二人を夫婦にするのだという観念が横たわっている。にもかかわらず、多くの人々はせめて列座の人々の承認(これも権威とはいえるが)だけは求めようと「人前式」に走るのである。

 

2.神前結婚式の発明:近代日本婚姻儀礼史(1)

 

(1)神前結婚式の発明

 だれもが、日本の「伝統的な」結婚式として「神前結婚式」を念頭に浮かべる。新郎新婦とその親族、媒酌人が集合して、神官が神殿(日本中の結婚式場や結婚式を執り行うホテルや公共会館の一室に存在する)を祓い清め、供えものをして神を呼べばそこに神が臨在し、神官が祝詞を奏上して新郎新婦の結婚を報告して神の加護を祈る。その後に新郎と新婦とが式三献の儀(3つの杯に注がれた酒を交互に飲みあう共食儀礼)を行い、神に誓詞を奉読し、玉串(榊の枝葉で作った符)を神に供える、というものである(多くのカップルが指輪の交換も神前で行う)。

 日本人が伝統だと考えている以上、海外にも神前結婚式こそが日本の伝統的な婚姻儀礼であると紹介されているであろう。「神道」の儀式であるという点から、日本の歴史と伝統と土俗のなかから出現してきたように見えて、意外にも正真正銘近代の産物である。1900年に行われた皇太子(後の大正天皇)の婚儀のために皇室が整備した儀礼がもとになったといわれ、一般の日本人がこの結婚式を初めて行ったのは、1902年のことである。もともと神道では神々は結婚のような人事に介入しないことになっていたから、それ以前に体系だった神道の婚姻儀礼というものはなかった。これは一つの発明なのである。

 

(2)神前結婚式の近代性

 神前結婚式は発明されて以来100年間その形を基本的に変えていないが、この結婚式は日本の習俗や伝統を十分に受け継いで成立したのではなく、むしろ積極的に過去と断絶することによって成立したのである。その証拠を挙げよう。

 神前結婚式の模様を伝える当時の新聞記事などによれば、悪くいえば珍奇な、よくいえばハイカラなものと見なされていたようである。その特徴は、短時間で済み、お金もかからず、厳かな雰囲気にあふれている、という3点にまとめられる。それまで一般に行われていた結婚式はその逆で、時間がかかり、物いりで、しかも必ずしも上品に終わるものではなかったのである。婚姻が成立するためには一連の様々な儀式を数カ月から数年にわたって行う必要があり、それも地方や階層ごとに大きく異なっていた(隣り合った村でも全く違う婚姻儀礼を行ってることも普通だったし、身分や家の格によって行う行事も違っていた)。一連の儀式のうち、例えば「嫁入り」の儀式一つとっても、しばしば夕刻から始まって深夜や明け方までかかる宴会を伴ったし、それも三晩も続くことが普通であった。当然のことながら多額の出費を覚悟しなければならず、その実、その雰囲気は卑俗に流れやすいものであった。

 日本(には限らないのだが)では、「もてなし」とは招待客が飽食することで成功するのであり、酔客が乱暴狼藉に及ぶような事態になってはじめて供応に成功したことが実証されるのである(したがって、招待された方も十分に酔っぱらっているということを示すのが礼儀となる)。

 新郎がズボンをはいていたことも大きな特徴である。新郎新婦が、紋付き羽織袴、打ち掛けに文金高島田(の鬘)で、神前結婚式に登場するようになったのは、ここ20年ほどのことであり、とくに新郎の服装に限っていえば、神前結婚式では明治以来一貫してモーニングコートの独壇場であった。新郎や新婦の自宅の座敷で行われていた座礼による婚姻儀礼に、ズボンでは何かと都合が悪く、立礼の結婚式は魅力だったのである。明治時代にズボンをはいている人々とは、官吏、軍人、高級サラリーマンなどの近代日本社会の建設者であった。

 結婚が「神聖なもの」でなければならない、という思想は、明治人が欧米人から学んだものである。キリスト教の教会で行われる結婚式をみて、その荘厳な雰囲気と、「夫婦の道を説き聞かす」という点に感心した日本人は、キリスト教徒になるかわりにその結婚式に匹敵する儀礼を作り出そうとしたのである。神道の関係者がこうした儀礼の存在に無関心でなかったのは当然のことである。

 式次第のうちで、中心に置かれるのは、「式三献の儀(三三九度の杯)」と「誓詞の奉読」であるが、前者は日本の標準的な婚姻儀式を採用したものであるが、後者はきわめて個人主義的な婚姻観に立っている。つまり、誓詞の署名者は明治以来一貫して新郎新婦であり、たとえ媒酌人によって代読されようとも、イエとイエとの結婚などおくびにも出さない近代主義的な原理に貫かれた内容なのである(昭和の初めには、すでに新郎新婦だけで神前結婚式を挙げる例もあったという)。そこには「嫁盗み」が象徴していた新婦の親の権威に対する配慮が見られない。

 このように神前結婚式は、近代日本社会の建設者たちにとって、西欧文明との接触に応じて生じた婚姻にかんする新しい規範を確認する儀礼だったのである。

 

(3)神前結婚式の発明のもたらしたもの

 神前結婚式が日本の婚姻儀礼に与えた最も大きな変化は、それまで自宅で行われていた結婚式を外に引きずりだして、商業主義にゆだねたことである。明治のころすでに、神社で結婚式を挙げた後写真をとり、料亭やホテルで披露宴を開くという一つのパターンができあがっており、これが、今日日本で隆盛をきわめている、一つの建物の内部で、美粧着付けから、結婚式、写真撮影、披露宴まで一貫して執り行える「総合結婚式場」やホテルの存在につながるのである。こうした商業主義の介入は結局のところ日本の結婚式を劇的に変化させることになる。

  それでもなお、第二次世界大戦が終了するまでの日本の結婚式の主流は、地方独自の自宅結婚式であった。これは、圧倒的といってよい比率である。そこで確認される社会規範は、男性や女性は親の持ち物であり、婚姻は両親らと村落共同体との承認によって社会的に成立するというものであった。

 

3.戦後日本社会と結婚式:近代日本婚姻儀礼史(2)

 

(1)農業社会から産業社会へ

 日本中の結婚式が神前結婚式一色になったのは、戦後の高度経済成長期のことである。それは、要する日本人の大多数にとって一世代の歴史しかない。神前結婚式は、結婚式場などによる結婚式の市場化によって普及したのであり、その背後には地方独自の伝統的な婚姻儀礼を支えていた社会と社会規範の変化がある。両親や村落共同体の承認が必要だったのは、結婚する男女にとって農家の生産と収入の様式、相続すべき農地や彼らを取りまく村落共同体の生活構造がそれを求めたからである。

 しかしながら、戦後の高度経済成長は、若年の労働力を大都市部へ吸い上げ、農村部には結婚する若い男女も、また結婚式を台所や道中で支える人手も残らなかった。婚姻は大都市の劣悪な住環境の中で生じるものになったのである。

 そうした社会と社会規範の変化を反映したのは、結婚式ではなく結婚披露宴であった。すでに述べたように、神前結婚式は基本的にその形式を変えてはいない(もっとも、ここ10年ほどは、キリスト教式の結婚式と、無宗教の人前式の結婚式とが急増している)。戦後の婚姻儀礼の変化を披露宴に見てみよう。

 まず日本の労働者が、大挙して雇用労働者化した。しかも若年労働力を中心に労働者が大都市に集中するようになる。簡単にいえば、日本中の労働力が、自分の農地を耕す存在から人に雇われて「カイシャ」のなかで働き給料をもらう存在になったのである。農家には個人収入がない。それにたいして雇用労働者は、相続すべき家産がないかわりに、一存でどうにでもなる自分の財布を持っている。こうした経済的地位の変化は、婚姻にかんする社会規範の個人主義化を促進するはずであったが、事態は必ずしもそうはならなかった。村落共同体にかわって「カイシャ」の承認が婚姻の成立のために求められるようになったからである。

  戦後すぐの時代には、物資の不足もあって神前結婚式に引き続く披露宴は質素なものであったし、なによりも純粋に神事の後の宴会という性格を保っていた。しかし、親族だけの神前結婚式には参加しない「カイシャ」の上司や同僚たちが披露宴に参加するようになると披露宴の儀式が始まった。結婚披露宴の列席者は1950年前後では平均30名ほどであるが、現在では平均80名以上になっている。この増加分は新郎新婦の友人・上司・同僚である。上司は「主賓」として別格扱いされるようになり、互いに面識のない出席者の整理のために司会者が登場する。「主賓」の挨拶はかつての村落共同体でイエの長が新婦に求めたように、自分の部下の配偶者に対して「内助の功」をもとめるものであった。

 

(2)披露宴の儀式化

 「カイシャ」の来賓は神前結婚式における「婚姻成立の瞬間」に立ち会っていないだけにそれを象徴する儀式を求めるようになる。結果として披露宴における婚姻成立を象徴しそれに承認を与えるために、ウェディングケーキへの入刀が儀式となった。1960年前後のことであり、いまやこの儀式を行わない披露宴はごく少数派である。世界の婚姻儀礼の中で日本のケーキカットほど儀礼的で象徴性の高いものはないだろう。新郎と新婦とが「お二人の初めての共同作業です」というアナウンスのもと万雷の拍手を浴びながら手に手をとってケーキにナイフを入れる。これが結婚披露宴の「決定的瞬間」であり、カメラを持参した列席者が一渡り写真を撮り終えるまで新郎新婦は1分間は笑顔を維持しなければならない。このケーキは二人の婚姻の成立・承認を象徴するだけのものであるから、1970年ごろからあとは化学製品によるイミテーションに置き換わっていて、披露宴の最後に配られるウェディングケーキとは全くの別物である。

 結婚式場による披露宴の儀式化は、ウェディングケーキ入刀のような、象徴と承認をとりつける儀礼の付加によって加速化され、1980年前後に最高潮に達した(私はかつてこれを「ハデハデ式」と呼んだことがある)。ゴンドラ、スモークを始めとし、花束贈呈とかキャンドルサービスというような新奇な「発明」が次々と導入されていき瞬く間に全国共通の儀礼となったのである。

 ここで戦後の結婚式を取り巻く状況を先ほどの儀礼の三角形に重ねてみよう。

 

4.個性と儀式:近代日本婚姻儀礼史(3)

 

  最も新しい流れは1990年頃から始まっていて、その合い言葉は「個性」である。式次第が簡略化され「自分(たち)らしさ」を打ち出す傾向が一挙に強まった。いきおい各式場では新郎新婦から出される多様な要求をいかにして商品化するかに頭を悩ますことになる。結婚式の分野でも企画された大量生産の時代が去ったのである。

 この傾向は二つの要因の複合によって生じている。一つは、恋愛結婚イデオロギーの普及である(皇室を見よ)。恋愛は建前上互いに相手の個性をかけがえのないものと見なすことによって成り立っているからである。お嫁さんやお婿さんをもらうのではなく、他の誰にも代え難い○○○夫さんと○○○子さんとが出会って結婚するのである。一人一人が違い、そして一組一組が違う結婚となる。

もう一つは女性の雇用労働者化である。日本の女性も男性に遅れて「カイシャ」のメンバーとなり、未婚の女性も既婚の女性も自分の財布を持つようになった。女性の地位も、未婚の場合は父親の、既婚の場合は夫の付属物ではなく多様な選択の余地を含むものとなったわけである。この現象は男性を(少なくとも婚姻規範の上では)「カイシャ」の従属物から切り離す役割を果たしているようだ。いまや「内助の功」がスピーチの禁句となっているからである。

 この両者の「建前」あるいは結婚にかんする社会規範を体現する儀礼としての結婚式は、現在も模索されている。仲人をたてない式や、あるいは全然結婚式を挙げないカップルが増えているのは、こうした変動しかつ互いに矛盾する結婚にかんする「建前」を同時に満足させる儀礼が存在しないからである。

 必要があるところ(社会の、そして自分たちの建前を確認すべきところ)に必要なものを供給することこそがビジネスチャンスであるはずである。結婚式を挙げないカップルが増えたとか、既存の形式に乗らないタイプが増えたと嘆くよりも、自分たちが携わっている「式」の内実、それが象徴している事柄を整理して、世間一般にアピールすることが何よりも重要なのである。

 

 このように、どんなブライダルにするかは、おのおののカップルが体現し、従っている建前に依存するのである。また列席者の中には、その建前に鈍感な方もあるであろう。そのときに新郎新婦の目指している「宣言」に適切にガイドしていくことがブライダルコーディネーターの役割であるといえる。