『quench a hunger』 瞬くように、剣の軌跡が光を放ちながら向かってくる。ナツミはその光の延長線上に自分のショート・ソードを滑りこませた。耳障りな音と、火花。それから、剣を持つ手が痺れてしまうくらいの重い衝撃。両手に力を込めてその剣を振り払うと、返す刀で目の前を薙ぐ。 「――ふん」 その攻撃をわざと紙一重で避けて、その男――バノッサは面白くもなさそうに吐息を漏らした。 ――当たらない。 引いてはいけない。不用意に下がると態勢が不充分なまま追撃を受けることになる。 だから、ナツミは踏み込んだ。 (前に出している相手の足を踏むくらいの気持ちで――!) レイドに言われた言葉を思い出す。腰だめにしたショート・ソードで切り上げる。その攻撃を、バノッサは両手に持ったそれぞれの剣を交差させて受け止めた。バノッサの顔には僅かばかりの驚き。 ひゅう、と調子の外れた口笛。 ナツミはショート・ソードを手放して、横に飛んだ。バノッサの剣が一瞬前までナツミの体があった場所を通り過ぎる。二回転がって、その転がる勢いを使って跳ねるようにナツミは体を起こした。 「ヤルじゃねぇか」 にやり、とバノッサは笑った。子供がおもちゃを見つけたような、そんな無邪気ささえ感じられる顔で。 それは。 その感情は。 いったいどんな名前を付けたらよかったのか。 武器を手放してしまっては、戦う術などないのに。 ナツミは、腰にくくりつけた袋の中から、紫に光る石を手に取る。それを握った手をバノッサに向けて突き出した。 「まだ」 ぱりん。ぱりん。割れたガラスの破片が剥がれ落ちるように、世界が自分の周りで姿を変えて行く。魔力という、リィンバウムに来るまではまったく縁の無かった感覚。それが自分を満たして、自分の周りの空間にも影響を広げて行く。 「まだ、負けない――!」 目くらまし。召還術はその程度の使い方。バノッサが一瞬だけ怯んだその隙をついて低い姿勢のまま走る。ショート・ソードを拾い上げると、それを構えてバノッサに向き直った。 バノッサは笑っていた。 周囲にちらりと視線を這わせた。みんな、それぞれ戦っている。援護は期待できそうに無い。そしてそれは――バノッサも同じ。 飛び出した。バノッサも同時に。 斬る。払う。突く。薙ぐ。受ける。避ける。 ほんの少しでも気を抜けば、きっと死ぬ。そんな緊張感が神経を研ぎ澄ませる。一瞬でも気を逸らさないようにバノッサの目だけを見て、動く。 体が意思を離れて動く。そして、頭は全然関係の無いことを考えていた。 バノッサの目。どうして、あんなに――。 灼熱。 バノッサの剣が肩を擦る。痛みは僅かに遅れてやってきた。動きを止めてしまった瞬間に、次は左腕。バノッサの持った剣の刃に、何か赤いものがついていた。 血。 あたしの血――だ。 後ろに下がろうとして、どん、と背中に何かがぶつかった。振り向く。そこにはぼろぼろの壁があった。 ――追い詰められた。 冷めた思考で理解した。チェック・メイト。ショート・ソードを持っている左腕には力が入らない。さっき斬られた右の肩から先は感覚が無くなりかけている。召還術を使おうにも距離が近すぎる。おまけに、この怪我では精神集中もできない。 チェック・メイトだ。 「終わりだな。なかなか楽しかったぜ?」 バノッサがおどけた仕草でそんなことを言う。そして、ナツミの喉に剣先をぴたりとつけた。 「……抵抗しないのか、はぐれ野郎?」 後少し。ほんの少しだけバノッサが剣を突き出せば。 死ぬ。 ――嫌だ! なら、どうしたらいい? 「――するわよ!」 ナツミは座りこんでしまった不自由な姿勢から全身のばねを使って真横に跳ねた。バノッサの剣の切っ先は首の皮一枚を切り裂いただけ。 でも、できるのはそこまで。それ以上のことはできない。 バノッサはすぐに態勢を整えると、ナツミに向き直る。そして、剣を振り上げた――後、すぐに後ろに跳んだ。 バノッサと、ナツミ。二人のちょうど中間を、二人を引き離すように召還術の一撃が通り過ぎた。ナツミはその召還術が跳んできた方向に目を向ける。 髪の長い、落ち着いた感じのする少女が、その髪を振り乱して肩で息をしながら、手を前に突き出した姿勢のままでこちらを見ていた。 クラレット、とナツミは彼女の名前を呼んだ。 バノッサは辺りを見回す。つれてきた手下はあらかたやられてしまったことを悟り、忌々しげに舌打ちした。 「おい、はぐれ野郎!」 ナツミは立ち上がろうとしたが、手足に力が入らない。ひどく、寒気がする。それでも、ココロだけは折れてしまわないように、バノッサを睨み返した。 そんなナツミを、バノッサは鼻でせせら笑う。 「命拾いしたな。心強いお仲間に感謝しとけ」 そう言うやいなや、バノッサは剣を鞘に収めるとマントを翻して歩み去って行く。その背中が見えなくなるまでナツミは睨みつづけていた。 そして、辺りが静かになると、今度やってきたのは睡魔だった。逆らいようの無い、重力のような睡魔。荒れた地面ですら寝心地のいい布団に見える。 意識を手放す前、誰かが自分を呼んでいる声を聞いたような気がした。けれど、呼びかけに答えられるだけの気力も体力もナツミには残っていなかった。 ――暗転。 完敗? ――完敗、だ。 「いっ……痛いいたいイタイーっ!」 「ほぉらぁ! 動かないの!」 リプレは暴れるナツミを押さえ込んで、なれた手つきで傷口に薬を塗っていく。塗り終わったらその上からガーゼを当てて、包帯を巻く。軽い傷なら召還術で癒せるものの、召還術は開くまで応急処置だ。そして、使うものにも負担を強いる。クラレットは疲労で寝込んでいるし、ナツミは出血による体力の低下で召還術を使えそうにない。 「ナツミも女の子なんだから、こんなに傷ばっかり作ってちゃダメなんだからね」 まるっきり子供をしかる母親のような口調で、リプレは言った。ナツミは不精不精ながらも「はぁい」と誠意の無い返事をして見せる。 「ナツミ」今度のリプレの声は、ひどく優しかった。「こんな怪我するまで戦う必要なんて、ないんだよ? 次もこんな怪我して帰ってくるんだったら……絶対行かせないんだから」 「……リプレ」 それでも、とナツミは思った。自分は戦わなければならない。バノッサが眼の敵にしているのはいつも自分だし、何より――サイジェントを、この家を、帰ってくる場所を守るための戦いなのだから。 それっきり、リプレは無言で手当てをしていく。彼女の手が包帯を結び終わって、ナツミは上着を着た。 「リプレ。大丈夫。大丈夫だから」 「ナツミ……」 「ほら、あたしってばさ、しぶといんだから」 稼動部分を確かめるように軽く腕を動かしながら、ナツミはリプレに笑いかけた。 部屋を出て、後ろ手にドアを閉める。 じっと、右手を見た。 ――強くなりたい。もっと、もっと強く。 「……強くなりたい」 力が欲しい。戦う、力が。 手も足も出なかった先ほどの戦いを思い出して、ナツミは涙を滲ませた。 「……けるもんか」 その感情がどこからくるのかわからないまま、 「負けるもんか……!」 ナツミは動けずにその場所に立ち尽くしていた。 「……それで、俺のところに来たのか」 ラムダは、口に寄せていたグラスをテーブルに置いた。向かいあって座っている少女――そう、少女だ――を見る。いつもその持ち前の明るさで周囲に集まる人間を引っ張っているその少女の目は、刃よりも鋭い決意で満たされている。 「うん」 口元を結んで、頷く。 「何故だ」 「強く、なりたいの。今のままじゃ、全然足りない」 そう言って、彼女はジュースの入ったグラスを持つ手に、力を込める。 「……意外だな」 「何が?」 「おまえは十分に強い。それが、何故今更になって強さを求める?」 ナツミは俯いた。僅かな逡巡。 「あたしは――」ナツミは、顔を上げた。「あたしは、バノッサと戦わなきゃいけない。借り物みたいな召還術の力じゃない、あたし自身の力で!」 それは、一度も見たことのないナツミの顔だった。 ラムダは腕を組んで、椅子の背もたれに背中を預ける。 「レイドには言ったのか?」 「……ううん、言ってない」 レイドは――とラムダは思った。彼女のこの頼みを、決して聞き入れはしないだろう。彼女が自ら望んで戦う力を得ようとすることに、決して良い顔をしないだろう。そもそも、戦わせたいとすら思っていないだろう。 ラムダはしばしの間目を閉じて、考える。果たして、彼女の願いを聞き入れてもいいものだろうか。 「奴には――奴等には隠しておきたいんだな?」 「……うん。レイドもそうなんだけど、リプレだって、ガゼルだって、きっとクラレットも反対すると思うから」 「それでも、強くなりたいのか?」 「うん」 迷うことなく。 惑うことなく。 悲壮とすら言える思いを込めて、ナツミは答える。 威圧めいた圧力を込めて、ラムダはまっすぐにナツミの目を見た。揺るがず、怯まず、ナツミは真正面からラムダの視線を受け止めている。 「――条件がある」 ぱっ、と。ナツミの表情が輝いた。 「なに!?」 レイドは、ナツミの肩に見える包帯に目を遣って、言った。 「怪我を治せ。それからだ」 ――最近、ナツミの様子がおかしい。クラレットは読んでいた本をぱたんと閉じて、ため息を吐いた。いつもだったら、いるだけでそこが喧しいくらいに賑やかになるのに、最近は一人で考えごとをしている時間が多い。ナツミと考え事。光と影のように、相共存するものではないというのに。 何が気になるのか。クラレットは目を閉じて、その原因を探ろうとした。原因はいつも、自分の中にある。ナツミのこと。始めてみた彼女。正式に出会ってからの彼女。――最近の、彼女。憂いを含んだ横顔。何かを決意した、あの目が――。 本をテーブルの上に置くと、クラレットは立ち上がった。台所へ行ってリプレの手伝いでもしようと思った。ひとりで部屋の中でうじうじ考え込んでいるよりはきっと気も紛れるだろう。 少し、不機嫌になっている。それをクラレットは自覚した。その不機嫌の理由を、ドアのノブを掴んだままで考えてみる。――考えるまでもないことではあったけれど。 ――ナツミ。 彼女のこのところ見せるらしくない行動こそが心を落ち着かなくさせる原因であり、不機嫌になる理由でもあるのだ。 けれど。 自分が不機嫌になる正当な理由など無いことをクラレットはわかっている。ナツミが何も話してくれないのは確かに悔しいけれど、隠し事についてはナツミを問い詰める権利なんてない。 それに。 ナツミの様子がおかしいといっても、いったい自分がどれほどナツミのことを知っているというのか。無理矢理この世界に引き摺りこまれてしまった彼女が何か悩みを抱えていないと、誰が言える? そして、その悩みが彼女が元いた世界のものであったならば、きっと誰にも相談できないだろう。 考えていると頭痛がしてくる。クラレットは思考を止めて、部屋から出た。台所で家事をしているリプレに一声かけて、外に出る。特に行き先も決めずに、ぶらぶらと歩き出した。 季節は、夏から秋へと変わろうとしている。そんな季節の変化を、クラレットは肌寒さを覚える冷たい風に感じた。二つ目の季節が終わろうとしている。――ナツミが、この世界にやってきてから。 その間、色々あった。クラレットはしみじみと振り返る。ナツミに出会うまで生きてきた十六年間と、ナツミに出会ってからの半年間は、後者の方が密度が濃かったようにすら思える。 ひょっとしたら――このまま、ここで彼女と、仲間達とともに過ごしていけるのではないか。そんな幻想すら抱いてしまうくらいに、今の自分は幸せだ、と思う。そして、幸せだと思えば思うほど、抱えている嘘の重さが嫌でも自覚されてしまう。 いつまでこの嘘を抱えてみんなと接していけばいいのだろう? それを考えるとどうしようもなく暗澹とした気分になる。いっそのことすべてを打ち明けてしまえたら。そう考えたのも一回や二回ではない。 ナツミ。 断罪の刃を、彼女に振り下ろしてもらいたいと願う。きっと、彼女にはそうするに十分な理由があり、その権利があるから。 なのに。 彼女には、知られたくないと願っている自分がいる。彼女の傍にいたいと願っている自分がいる。最初の目的だった監視という意味ではなく、ただ共に在りたいと願う、その願いだけで。 クラレットは立ち止まり、辺りを見回した。考え事をしながら歩いているうちに、普段来ないところまで来てしまったようだ。南のスラムの、外れ。バノッサ率いる《オプテュス》が根城にしている北側のスラムよりは治安はいいが、それでも一人で歩くにはあまりいい環境とは言えない。そろそろ帰ろうと思って踵を返そうとした時。 何か、音が聞こえた。 足音。 クラレットは咄嗟に物陰に身を隠した。足音は少し遠くを通って、離れていく。顔を半分ほど出して、足音の主を確認する。後姿だけだが、そこに背負っているのは常人なら持ち上げることすら覚束ないだろう大剣。そんな剣を使う人物を、クラレットは一人しか知らない。 ラムダ。 何をしていたのだろう? ラムダがこんなスラムにくるような用事でもあったのだろうか? それに、彼が一人だけで歩いているということも滅多にないことだ。普段なら、セシルか、ペルゴあたりを伴っているはずなのに。 クラレットは、ラムダの姿が見えなくなると隠れていた場所から体を出した。彼の歩いていった方向を一瞥してから、くるりと身を翻してその反対方向に歩き出す。彼がこの先で何をしていたのか――気になった。 理由は、すぐにわかった。 しばらく進むと、元はどんな場所だったのかはしらないが、家一件分ほどの空き地があった。道はそこで行き止まり。つまりは、ここで何かをしていたということ。クラレットはその空き地に足を踏み入れようとして――思わず、その足を止めた。 その空き地の真ん中に、自分のよく知っている人物が座りこんでいたから。 「……ナツミ」 ナツミは、座りこんだままで、大きく息をしていた。遠目に見ても、疲労困憊、といった様子で天を仰ぐ。ナツミの左手の少し先に、彼女のショート・ソードが落ちていた。ナツミはそれを拾い上げると、膝に手をついて立ち上がる。そのまま空き地を横切るように歩いて、――元はそれなりに裕福な家だったのだろうか――石の壁の前に立つ。彼女自身の身長を超える高さの在るそれの前で、彼女は剣を握りなおした。 ふわり、と魔力が目に見えるほどの密度で彼女の体を覆う。 「我が名のもとに、汝を銘ず。闇より出し漆黒の刃よ、我が呼び声に答え、我が敵を貪れ!」 ナツミが手にした剣を掲げる。その体から立ち上った魔力が周囲の空間を侵食し、異界とのゲートを形作る。 後は、呼ぶだけ。そしてナツミはその名を口にした。 「ダークブリンガー!」 シャインセイバーと対になる、五振りの闇の剣を召還して相手にぶつける召還術。シンプルな召還術だが、それゆえに威力もあり、召還される対象に意思が薄いため、制御も比較的簡単な部類に入る。 けれど、五本の闇の剣はナツミの目の前の石の壁には向かっていかない。まっすぐに、ナツミの掲げた剣に吸収され、消える。 (……憑依召還術!?) 純粋に、クラレットは驚いた。召還した召還獣を自分に憑依させて能力を高める召還術。そういったものは、たしかにある。けれど、召還術のそんな使い方があるなどナツミには話していないのに。 ダークブリンガーを憑依させたナツミの剣は、禍禍しくすら感じる黒い光と化している。それを振り上げて、右足を踏みこみながら、振り下ろす。黒い軌跡が尾を引き、薄い刃など通るはずのない石の壁に、ナツミの振り下ろした刃は容易く滑りこんだ。 瞬間。 黒い雷が荒れ狂い、石の壁を跡形なく吹き飛ばした。 ――それは、戦慄と呼ばれる感情だったか。 立ち尽くすナツミに声をかけることもできず、クラレットはただ胸の中で吹き荒れ出した黒い感情に振り回されていた。 漆黒に染まった剣。 ぱちぱちと、ナツミの周囲で爆ぜる黒い雷。 まるで―― ナツミが振り返る。 ほつれた髪を頬に張りつかせて。 疲労をその顔に色濃く表しながら。 ただ、その眼光だけは、例えようも無く鋭く―― そんなナツミを、クラレットは、ただ美しい、と思った。太陽にも似た、鮮烈な色。眩しすぎて、見続けていたらきっと目が潰れてしまうとわかっているのに、それでも目が離せない。 ナツミはクラレットを見つけると、すぐにいつもの顔に戻って、右手のショート・ソードを鞘に収めると、少し足を引き摺りながら歩いてくる。クラレットはなんとか笑顔を作ってナツミに歩み寄ると、彼女に肩を貸して、ゆっくりと孤児院への帰り道を二人で歩き出した。 言えるわけがない。 まるで。 まるで魔王みたい、なんてことを思ってしまったなんて―――― 琥珀色の液体が入っているグラスを口元に寄せて、一気に傾ける。そうしてグラスの中身を一息で飲み干してしまうと、バノッサはそのグラスを床に叩きつけた。カシャン、とグラスの砕ける音。その音は、割と好きだった。 「バノッサさん」 カノンが声と視線でバノッサを咎める。けれど、彼はそれを無視して部下が持ってきた代わりのグラスを傾ける。 満たされない。こんな液体を飲みつづけるだけでは、まったく満たされない。この乾きは癒されない。 じくり、とわき腹が痛んだ。着衣をめくったなら、そこに棒のようなもので打たれた痣が残っているのだろう。 「……はぐれ野郎」 「何か言いました? バノッサさん?」 「いいや、何も言ってねェよ、カノン」 最初に気付いたのは、バノッサだった。 次に、カノンの体勢が戦闘モードに切り替わった。 少し遅れて、部下たちがざわめいた。 脳の働きを鈍らせてしまうほどにアルコールが脳細胞を麻痺させていたわけでもない。だらしなく気を抜いていたわけでもない。 なのに、その黒衣の男が、その場の中心にいることに、気付くことが出来なかった。いつ入ってきたのかもわからない。いつからそこにいたのかもわからない。 バノッサは内心焦りを覚えながらも、その黒衣に向かって凶眼を傾けた。 「……力が欲しくはないか、バノッサ」 「誰だ、テメェ」 「力が欲しくはないか、と訊いている」 低く、張りのある声。バノッサは無意識に帯びている剣の柄に手を遣っていた。 「力だと?」 「そうだ、力だ。おまえの望む力」 「召還術」 「そうだ」 召還術。それが、彼と彼女を分ける大きな差だった。今は彼のほうが勝っているとはいえ、彼女の成長具合、それから召還術との組み合わせて戦われると、この先苦しいことになる可能性は、ある。 負ける。 いや、それよりも―― 「――ああ、欲しいな」 「バノッサさん!?」 言い寄るカノンを手で制して、バノッサは黒衣を見た。フードで表情は見えないが、その奥で黒衣が満足げに笑ったような気がした。それが不愉快だったが、そんな不愉快さなど些細なものだ。 黒衣が、ばさりと黒い外套を脱ぎ去った。 「我が名はオルドレイク」 その手の中に、宝玉がある。赤く、歪な光を放つ宝玉。オルドレイクと名乗った男は、バノッサにそれを手渡した。 「これが、おまえの望みを叶えてくれる――」 これが、蒼の派閥から盗み出された秘宝のひとつ、魅魔の宝玉であることを、バノッサは知らない。知っていても、そんなことはバノッサにとってはどうでもいいことだった。この宝玉の出所も、オルドレイクと名乗った男の意図するところも、なにもかもどうでもいい。 ただ、力が欲しい。 彼女と戦う、力が―― 蒼の派閥――聖王都ゼラムに本部を持つ、召還師達の組織、らしい――から来た、ギブソンという男は、派閥から盗みだされた魅魔の宝玉というアイテムを探しているらしい。理屈は小難しくてよくわからなかったけれど、それを持っていれば召還術の才能が無くても、制御する正規の訓練を受けていなくても、召還術を使えるようになるっていうんだから、なかなかたいしたアイテムだ。 「むしょくのはばつ?」そう尋ねると、ギブソンは真面目くさった顔で頷く。あたしは苦笑して、尚且つそれを顔に出さないように努力しながら、リプレの煎れてくれたコーヒーに口をつけた。 無色の派閥。それが、その宝玉を盗み出した組織の名前らしい。召還術を使ってよからぬことをたくらむ組織らしい。ギブソンの話では。そして、それを召還術を正しく使うことを旨とする青の派閥は赦せないらしい。 「ま、いいワ。乗りかかった船だし。そんなモノがあるとまたいろいろ厄介事おこりそうだし?」 「その厄介事とやらが辿り着くゴールはおまえなんだよなぁ、いっつも」 「なんか言ったガゼル?」 「いーや」 ガゼルを一発蹴飛ばすと、その場にいたみんながどっと笑う。あたしも笑って、ガゼルも少し苦々しく、笑った。 「それじゃ、ちょっと情報収集してきまーす」 そう言って、傍にいたクラレットの肩を捕まえて、部屋から出た。 みんなが笑っていたあの瞬間、ただ一人だけ強張った顔のままだったクラレットを。 「そりゃあね、あたしだって悪いとは思ってるんだよ? たしかにあたしが来てから厄介事は有名ラーメン店に群がるお客のように舞い込んでくるし、あたしが引っ張ってきたヒトタチのせいでいろいろと切迫してるのはジジツだし。でもねー、なんでもかんでもアタシが騒動の中心扱いされるのってイマイチ納得いかないんだよねー。そりゃ確かにアタシだって悪いところはあるんだろうけど、それでもねー」 ねえ? とクラレットに話を振ってみても、上の空で頷くだけ。あたしはそんなクラレットの様子に嘆息して、頭の後ろで手を組むと、空を見上げた。 憂いを秘めた、曇り空。まるで今のあたしたち。って感じ? 「……探そう、って言ったけど、アテなんてないのよねー。クラレット、何かアテみたいなのある?」 軽い気持ちで言った一言だった。召還術をちゃんと学んでいるクラレットなら、世界に干渉するっていうその例の宝玉を探す手段に心当たりがあるんじゃないか、なんていう、言葉はあんまり良くないけど、特に期待して言ったとか、そういう意図はあたしにはまったくなかった。 けれど、 「あ……ありません……っ!」 訊いたこっちがびっくりするくらいの、過剰な反応。言葉を発したクラレット自身も失策だと思ったのか、あたしから目をそらして俯いてしまう。 「そう」 そうとしか、答えられない。クラレットが隠し事をしているのは前からわかっているし、あたしはそれを知った上で、クラレットのことを信じるって決めたんだから。 「それじゃあ、足で探すしかないね」 とりあえず繁華街かな。そんな風に言って、道を曲がる。クラレットは憂い顔のまま。 繁華街から北のスラムは、バノッサ達のテリトリーだ。そちらには近づかないように――と、そこまで考えてあたしは気付いた。その、魅魔の宝玉というものがサイジェントの中に持ち込まれたというのなら。出所を明かせない盗品だというのなら。 辿り着く先は、バノッサ達、『オプテュス』の元なのではないか――という、推論。可能性としては、一番高い、と思う。 ……でもなぁ。今すぐにでも行きたいところだけど、厄介事のゴール地点とまで言われた身としては、一人で突っ走るのも―― そんなことを考えながら歩いていると、いつのまにか繁華街を外れて、南の工場区。湿った空気がじわじわと服の上から染み込んでくるようで気持ち悪い。 「……もどろっか?」 クラレットを見ると、こくん、と頷いた。なんだか、ずいぶん長い間クラレットと言葉を交わしていないような気がした。 例えるなら、バスドラムをすぐ目の前で思いっきり打ち鳴らされた時みたいな、おなかに響く波。不意に、そんなものがあたしを揺さぶった。クラレットを見る。同じモノを感じたのか、クラレットはあたしの視線の意味を理解して、頷き返してくれた。 ――近い! 同時に走り出す。一瞬だったけど、大体の方角はわかっていた。そして、あれが召還術の使用によるものだということも。 「……なんだぁ?」 思わず漏れたあたしの呟きに、どうかしましたか、とクラレットが訊き返してくる。あたしは小さく笑った。 「あたしが自重したって、向こうから飛び込んでくるんじゃ、避けようがないじゃない――」 そこは、寂れて打ち捨てられた感のある、工場区でも一番外れのすでに使われていない廃墟のような建物だった。クラレットと顔を見合わせて、お互い同時に頷くと、一気にその中に飛び込む。 薄暗い、その建物の中で。 バノッサの手の中。 魅魔の宝玉だけが妖しく光っていた―― 「よお、はぐれ野郎」 「……バノッサ」 「魅魔の、宝玉……」 クラレットがぽつりと呟く。 よりにもよって。一番面倒な方向に物事が転がり出している。 「ちょうど良いところに来たな。やっとコイツの使い方も分かってきたところだ」 あたしは周囲を見回した。バノッサ一人だけじゃない。見なれない、黒衣がバノッサの周りに何人か。 どうする、とあたしは視線をバノッサに固定したままでクラレットに囁いた。けれど、返事は返ってこない。 「……クラレット?」 クラレットの方を向くと、彼女は杖を手にしたまま、まっすぐにバノッサを、バノッサの周囲の薄暗がりを凝視している。薄闇の中でもそうとわかるほど、クラレットの横顔は血色を失っていた。 「どうしたの、クラレット?」 その声で我に返ったのか、過剰な勢いでクラレットがあたしを見る。 「な……んでも、ないです。それより――」 クラレットはいつでも召還術を放てるように、意識を集中させ始めた。クラレットの「なんでもない」がぜんっぜんなんでもなくないことを知っているあたしは納得はしていなかったけど、それでも今は目の前のことに集中するためにバノッサに視線を向ける。 「――さあ、始めようぜはぐれ野郎!」 瞬間、爆発が起こった。熱風が吹き付けてきて、あたしは咄嗟に後ろに跳んで、目を閉じて顔を覆う。どん、と背中に壁がぶつかる。姿勢を低くして目を開けると、建物自体に影響は無かったのか、景色はそれほど変わってはいない。 「――ナツミ」 ひんやりと冷たい手が、あたしの腕に触れた。クラレットの手だ。 「無事?」 「ええ」 それだけの言葉を交わして、あたしたちは爆発の余波である、建物の中を満たしている煙が消えるのを待った。これに乗じて襲ってくるんじゃないかと思ったけれど、どうもそんな気配はない。 あたし達は、視界が戻るのを待った。天井辺りにある窓から風が吹き込んできて、辺りを覆う煙を晴らしていく。 煙が晴れて――そこに立っていたのは、バノッサ一人だけだった。 バノッサがゆっくりと近づいてくる。先ほどまで彼の周囲にいた黒衣の男達は、物言わぬ物体となって転がっていた。先ほどの爆発がそのためのものだったことは疑うまでもない。 「……なんで……っ」 ナツミはうめいた。鉛の塊でも飲み込んでしまったかのように、胸の辺りに重い異物感がある。 「なんで?」バノッサは笑いの形に唇を歪めた。「決まってるじゃねぇか」 咄嗟に、剣を抜き放って、頭の上に掲げる。 火花が散った。 腕に衝撃。 大上段から振り下ろされたバノッサの剣と、頭上に掲げたナツミの剣とが交差している。噛み合った刃を、上からのしかかるようにして押し込みながら、バノッサは言う。 「オレのこの手で……オマエをコロすためだよ、はぐれ野郎!」 「うる――さいっ!」 ナツミは足を振り上げて、バノッサの腹部に蹴りを打つ。突き放すように蹴って、その反動でナツミは間合いをとった。 「そんなにあたしを殺したきゃ――」 今なら視線で人だって殺せるかもしれない――そんな錯覚すら抱くほどの凶眼で、ナツミはバノッサを睨みつけた。 「――あたしだけを狙ってきなさいよ!」 鋭く呼気を吐く音は、どちらのものだったか。まるで示し合わせたかのように同時に飛び出した二人の刃が激しく打ち合い、悲鳴にも似た音を上げる。 「力で他人に無理矢理言うことをきかせて、抵抗できないヒトタチをいじめて。あたしはねぇ、そういうのいっっっっちばん! 嫌いなのよっ!」 ナツミが刃を振るう。バノッサはそれを、体の軸をずらして避けた。そうして斬りこもうとして、けれど、驚きに体が止まる。 彼女が振るった刃の軌跡に、異界との門が形成ていた。バノッサが咄嗟に後ろに跳ぶ。それを追いかけるようにして、五本の黒い刃が走った。三本を避け、二本を打ち払う。そうして出来た死角に滑りこむようにして、ナツミが踏みこむ。 横薙ぎに振るわれたナツミの剣を、避け得ぬと判断して、バノッサは剣を立てて受ける姿勢をとった。 瞬間。 バノッサの目が、驚愕に大きく開かれた。避けて、弾いたはずの黒い剣が、今まさに振るおうとしているナツミの剣に収束していく。五本すべてを飲み込んで、漆黒に染まる。 避けようのないタイミング。がぎん、と刃が噛み合う。 噛み合った、はずだった。ちゃんと受けた積もりだった。なのに、彼女は黒い刃をした剣を振り抜いていた。 衝撃は一瞬遅れてやってきた。 景色が後ろに流れて、止まる。 全身がばらばらになってしまったのだと、バノッサは本気で考えた。体の感覚は全く無く、目を開けているはずなのに景色は歪んで見える。スベテのものが歪に歪んでしまった視界の中で、彼女の目だけははっきりと見えた。 ――なんで 壁に手をついて、バノッサは体を起こす。衝撃が通りすぎて、麻痺した体の感覚が戻ってくると同時に、激痛が全身を支配していた。 なんで、そんなに哀しそうな目でオレを見ている―――― 気に食わない。 違うだろう。 受け止めた剣は、柄しか残っていなかった。それを投げ捨てて、もう一つの剣を抜く。 手は動く。 足も動く。 左手には、魅魔の宝玉。あの衝撃の中でよくも手放さずにいられたものだ、とバノッサは思った。……まるで、掌に吸いついているかのように。 魅魔の宝玉を、掲げる。雷が頭上から屋根を突き破って降り注ぎ、ナツミと、その傍らに立つクラレットを打ち据えた。 クラレットは吹き飛ばされて転がったが、ナツミのほうは揺るがない。確実にダメージは受けているのに、それでも引かない。 体の芯から未知の感情が溢れ出してきて、それは痛みの代わりに迅速に全身に行き渡った。それで、さっきの攻撃で受けたダメージは全部忘れることができた。感情は、ぐるぐると全身を駆け巡って、膨張し、やがて口から哄笑となってあふれ出た。 ひとしきり笑って、唾を吐く。壁に打った時に口の中が切れたのか、吐き出したものは赤い色をしていた。 「――さァて、挨拶は終わりだ。第二ラウンドと行こうじゃねェか」 ナツミの目が、射抜くような鋭いものに変わる。いつもへらへらしているあの異世界からきた人間が見せる、もうひとつの顔。 知らず、バノッサの唇が三日月の形を描く。 全身を満たしているのは、まぎれもない、歓喜。今まで知ったいたモノとはまったく違う種類のモノだ。 楽しくてたまらない。 走り出すココロが抑え切れない。 余分なモノがすべてこそぎ落とされ、ただ一つのことだけしか考えられなくなる。 ――それは、なんて満ち足りているのだろう。 示し合わせていたように、二人が同時に踏み込んだ。建物の中に、剣戟と、召還術を打ち合った後の爆発音とが何度も何度も響く。入念に打ち合わせと練習をした舞のような二人の戦いは、レイド達、ナツミの仲間が駆けつけてくるまで途切れることなく続けられた。 「ちょっ、リプレ、痛い! イタイよ、イタイってば!」 消毒液を染み込ませたガーゼが傷口を撫でる度に響く痛みに、あたしは抗議の声を上げた。けれど、手当てをしている方のリプレはそんなことお構いなしに傷口の消毒を続ける。手つきがやや荒っぽいのは、やっぱり怒っているからだろうか。 あたしは痛みに声を上げるのはやめて、顔をしかめて耐えることにした。 戦っている間は感じなかった痛みと疲労が、今は休み無くあたしの体を覆っている。 リプレの雰囲気に話題を探すこともできなくて、あたしはただ右手を握ったり開いたりして、それをじっと眺めていた。 「……ばか」 包帯をあたしの体に巻きながら、ぽつりとリプレは言った。 「ねえナツミ、毎回毎回まっさきに飛び出して行って、いつもいつも怪我して帰ってきて。何回も何回もこうやって手当てするときのキモチ、わかる?」 きゅっ、とリプレが肩の包帯を巻き終わった。少し、ほんの少しだけ――その手が震えている。 「ひょっとしたら、次は帰ってこないんじゃないか、って。怖いんだよ。本当なら、戦いになんか行かせたくないんだよ」 「……うん」 「わかってるよ。わかってるんだ。そうしなきゃいけないのは。それがナツミだから。でも、でもね―――」 後ろにいるリプレの表情は見えない。肩に触れているリプレの手がやけにあったかく感じて、あたしは目を閉じた。 ――ゴメン。 きっとリプレは謝られたくなんかないだろうから、その言葉は心の中で呟いた。 気付いてしまったんだ。バノッサがどうしてあたしを親の敵みたいにいつもいつも狙ってくるのか。どうしてあたしと戦っている時は笑っているのか。 「リプレ」 それは。 「あたしは、絶対に死なないから。あたしはいつもここに帰ってくるんだ。リプレのいるここが――今のあたしの、『帰る場所』だから。だから、この力を使って戦ってもいいって、思うんだ。得体の知れないあたしの力だけど、そのために使うのなら――」 本心ではあったけれど、スベテではなくて。 気付いてしまったジジツは、とても哀しくて。 バノッサの病んだココロが、戦うことでしか癒されないというのなら。生と死を分けるギリギリのところでしか、彼のココロに触れることができないというのなら。 ぶるっ、と体が震えた。 「……ナツミ?」 ふわり、とリプレの腕があたしの体を抱きしめてくれる。 「大丈夫。ナツミの『力』がどんなものだって……あたしたちは、ナツミのことを知ってるから」 リプレとくっついている部分があったかくて、だからなのか、鼻がすこしつん、として。あ、泣くかな、と思ったけれど、結局涙は出てこなかった。 ごめん、とあたしはもう一度リプレに心の中で謝った。震えているのは怖いから。だけど、違うんだ。リプレが心配してくれているようなことを、あたしは本当に気にしているわけじゃないんだ。 気にしているのは――バノッサのこと。 このまま戦いつづけたら、いつか、どちらかが死ぬまで止まらない、そんな戦いになってしまうような気がして。 ――でも、知りたい。触れたいんだ。バノッサに。 漏れ来る声を聞いて、クラレットはドアをノックしようとしていた手を止めた。唇を噛んで、俯く。しばらくそうしていたあと、ドアから顔を背けると、力のない足取りで自室に戻った。 ――とうとう、動き出した。 ベッドに体を横たえて、考える。 「……もう」 もう、限界だ。これ以上隠しつづけることはできない。魅魔の宝玉。バノッサ。それから、無色の派閥――。 とうとう、表立って動き出した。となれば、これから直接接触することだってあるだろう。 今日のように。 ――どうしたらいい? 無色の派閥を、父を裏切ることなんてできない。父のためにここにいるのだから。でも、そうだとしたら――ナツミを裏切らなくてはいけない。 どこにも進めない袋小路。今ならまだ、きっとどちらかを選べる。 けれど、わかっていた。きっと自分にはどちらも選べないことを。 泣きたいのに、この目は涙を流してはくれない。 殺して欲しい。殺されたい。あの――魔王のようだったナツミに。あの黒い刃こそが、断罪の刃。 いつか、真実を知ったときに――ナツミは、そうしてくれるだろうか? そんな幕引きだけを、身勝手だとわかっていながらも、望んでいる。 自室に帰ってきて、ドアを閉めたところでナツミは思った。誰かでなければ癒せない渇き。癒してあげたいという想い。 それってまるで――― 「……ばーか」 あたしは呟くと、両手を合わせて、ぎゅっと握った。 教えてあげるよ、バノッサ。 教えてあげる。そのココロに抱えた黒い感情を全部吐き出させて、それを全部受け止めてあげる。それから、あたしが教えてあげる。あったかい場所があるってこと。暖かいものがあるってこと。 帰る場所があるってことが、こんなにも素敵なことだってこと。 あたしが教えてあげるんだ。 絶対に。 でも。 だけど―― 「……ちょっとムカツクな」 だって、それってまるで。 ――アイシテル、みたいじゃない? |