「甘いですね」と言われた。 言われて、つと考えもせずに笑いながらそれに答えた。 第一印象は、愚鈍。 「延王」 「陽子か」 真夜中。自室の前でかけられた声に呼ばれて振り返る。 「こんな時間に尋ねてくるとは…何用だ?」 笑いながら問い掛ける。実際、この少女がこんな夜更けに尋ねてくるとは珍しい事であろう。どことなくではあるが、彼女からは遠慮か何かを感じる時がある。 もっとも、出逢ってから一週間足らずの付き合いなので実際にはどうと言いきれるものではないが。 「ああ。…維竜を、襲撃する為の王師編成が終わったと聞いたので」 「なんだ。それか。それでわざわざ尋ねてきたのか?」 遠慮を感じる時があるのに、そのくせ彼女は王である身分に対して忌憚が薄い。頓着が感じられないと言えばそうなのだろうが、其処がまた変わっていて面白い、とは思う。 「うん。そう言うことは早く知っておいた方がいいかなと思って」 「こんな夜更けにか」 「ああ。…まずかったろうか?」 朝食の時も昼食の時も、逢えなかった。からこそ、気にかかってこうして尋ねてみたのだが… 「もしも疲れているなら明日の朝でも構わないが…」 正直言えば、知りたい。でもこれは、ただの私の我が儘かも知れないから。 真顔でそう告げられて、延は思わず苦笑する。 否これは、寧ろ笑うしかない、と言った所だろうか。 気になるからと不躾に押し掛ける癖に、妙な所で余計な気を回す。 いっそそう思うのならば最初から来なければよいものを。 「……なんだ? 私は何か変なことを言っただろうか?」 けれどいきなり目の前で笑われた本人としてはさっぱり理屈が通らない。眉根を寄せて伺い見ると、困ったような色を付けた目と視線がかち合った。 「いや。別に大した事ではない。…俺はてっきり、やっと景王君として慶に立つ気になってくれたのかと期待したのだが」 顎に手を当て冗談交じりに言いながらにやりと笑う。 もしくは別の理由でも良いのだが。但しその場合は食指が動こう筈もないので謹んで辞退していただろう。 もっとも、目の前の少女にそんな事を危惧するだけ無駄な気もするが。 「………楽俊と同じ事を言う」 しかし、そんなこちらの思惑には気付きもせずに、陽子は更に眉根を寄せて複雑な表情を浮かべる。 「なんだ。楽俊にも言われたか」 「ああ。先刻な。王になれと諭されたばかりだ」 浮かべられた渋い顔を見ながらハハと軽く笑う。 「そうか。それはさぞや見物だっただろう」 「茶化さないでくれないか。私はどうやって国を治めて良いかも判らない。そもそも自分のいた国の政治の仕組みさえろくに理解していないんだ。そして私は私が馬鹿だと言う事を知っている。そんな者が王の器量があるなんて到底思える筈がない」 「だが、それでも王師編成は聞きに来た」 目を僅かに伏せ、強く掌を握りながら訥々と語る陽子を見ながら言い放つ。内心、珍しいと思いながら。 言われて、弾かれたように顔を上げる陽子を尻目に、延は自室の扉に手をかけた。 「入るがいい。長い話になりそうだ」 部屋に入って明かりを灯すと、どこかで泣いたのだろう。陽子の目にうっすらと朱が滲んでいるのが見て取れたが、敢えて触れもせずに卓につくように告げる。 と、言うよりも『この娘でも泣くのか』とか妙な考えがうっすらと脳裏をよぎる。 「―やれやれ。やっと眠れると思っていたのだがな」 「……あ………」 よく考えれば、朝も昼も一緒に取らなかったと言う事は、それだけ時間がなかったと言う事で。 「それはすまなかった。では矢張り私は」 「冗談だ。謝らなくていいし、部屋へ戻らなくていい。別に編成を聞くのは悪いことではないし、どうしても聞きたいからこそやって来たのだろう?」 「はぁ………」 それはそうだけど、と言いながら陽子は微かに眉尻を下ろす。恐らく困っているのだろう。生真面目な事だ。と思う。 それでも大人しく卓につき、こちらが話すのをじっと待っているのだから妙な話だ。生真面目で、他人の事を考える割には自身の考えを通す。他人の言葉に左右されつつも容易く流されたりはしない。そんな頑固な部分さえ持っている。 「さて。維竜襲撃の為の王師編成についてだったな」 『端的に言えば、良く判らぬ娘だ』と心中で身も蓋もない評を下しながら延も卓につく。 「ああ、はい。そう。それで―」 「慌てるな。……その前に、一つ聞いておきたいのだが」 勢いづいて卓から身を乗り出しかけた陽子を目で制して延はやや重そうに口を開く。 「………なにか?」 その視線に気圧され、すとんと卓につき直しながら恐る恐る、といった体で陽子も身構える。 正直、あまり聞きたくない話題の様な気がするが―― 「いや。何故、おまえは王師編成を気にする?」 「それは――景麒を、奪還する為ですから……」 「では、何故景麒を奪還したい? 蓬莱へ戻る為か?」 「……それは」 問われて言い淀む。そうだ。と以前にも言った。以前なら言った。けれど今は。楽俊に諭され、ジョウユウにも言われ。諭された今は。 唇を噛み、俯く陽子を見ながら延は内心ほう、と小さく感嘆する。 「正直に言えばな。俺はおまえが王師編成を知る事は悪い事だとは思わない。寧ろ良い傾向であるとさえ思う。それだけ景麒を取り戻す事に執着してくれるのはな」 だがそれも、自身が蓬莱へと帰る為に。ならば少々内情は変わる。 その為に自国の民が傷付いていくのはやはり面白いわけがない。 「言ってしまえば、おまえが王になる。と言うのなら話は早いのだ。――六太の言う通り、無理強いは出来ぬがな」 言ってしまえばそれは、ただ単にこちらの都合だからだ。 心情が変わろうと、どうだろうと、結局手を貸す事には変わりない。けれども王になる為の手助けと、延から見てみれば職務から逃げるようにしか見えぬ手助けとでは、矢張り覇気は変わる。 おまけに。その後、自分がどれだけ苦労するのかも容易く想像出来よう、と言う事になれば。 「……貴方も、王になれ。と言うのですね」 今更な話だけれど。と陽子は自嘲気味に笑う。誰も彼もが自分に対して王に慣れ、もしくは既に王だ。と言う。目の前にいるこの男とてずっと言ってきた。 「貴方は何故…私を王にしたい? それだけ自国が大事か?」 小さく笑いながら楽俊と同じように問い掛ける。なんとなく、気になった。 「大事だな」 それが当然であるように男は頷く。 「そう」 「俺はこの国の王だ。王は国を治めなければならぬ存在である以上、俺はこの国の小間使いでしかない。小間使いは主の為に働くものだ」 「慶の難民が延に寄り掛かると雁の蓄えが減っていく?」 「そうだ。おまけに遠くない未来に功も潰れるだろう。麒麟が失道したのなら王も潰れるのはそう遠くはない。更に慶まで同様に潰れたとあってはむこう十年余。二国の荒民が一気に雁に被さる事になる。それは避けたい」 「雁の国庫は無尽蔵ではないから」 「その通りだ。主がそれで潰れる、もしくは傾くと判っているのなら、小間使いはそうならぬ様に手を打つだろう?」 「だから、手助けをすると?」 「ああ。だが、だけでもない」 「……………え?」 陽子はその言葉に段々と俯き、自重する様に笑っていた顔を押し上げる。 「まず、おまえは王になれると俺は想う。以前にも言ったな? 資質を備えていると」 「…それは、稿王とて同じでしょう」 「ああ。麒麟に選ばれたのだからな。だが、それだけではない事も、以前話したな?」 言われて、陽子は微かに唇を噛む。 覚えている。自分は自身の王であり、自身である事の責任の重さを知っていると。つい先日言われた言葉だ。 「………覚えて、います」 身につまされる様な思いで言葉を紡ぐ。思い出されるのは先頃水禺刀で垣間見た稿王と稿麟の会話。稿王は愚かと。それが罪になると判っていて、敢えて罪に手を出した。自分の肩に乗っている責任の重さを、知っていて、放棄した。それも他者を巻き込むという最悪な形で。 「ならば何故、おまえは王になろうとしない。おまえは既に判っている筈だろう? おまえ自身の責任を」 「………知って、います」 判っている。それは楽俊にも諭されるまでもなく何となく判っていた。自分は、既に慶国の王なのだと。この肩には、慶国の民の行く末が掛かっているのだと。 でも、だからこそ。 「………私は、恐い」 「陽子?」 「楽俊にも言われた。私は怖がっていると。すくんでいると。その通りだと私も思う」 俯き、膝の上で両手を握り締めながら、陽子は一つ一つ、言葉を句切る様に、確かめる様に話す。 「それは、私が。私自身の事を、馬鹿だと知っているからで。愚かだと判っているからで。そしてそれでは皆が幸せになれないと判っているからで」 「陽子、それは……」 「違わない。違わないと、私は思う。ならば私が私自身を変えれば済む事だとも、私は知っている。マシになればいいのだとも。でもそれは、いきなり変わるものでもない事だって、私は知っているし、マシになるまでその分皆が辛い思いをする事だって、判っているんだ」 「ならば、さっさとマシになれば良かろう」 「……延王……」 それまで入れていた力を抜き、呆けた目で思わず目の前の男を見つめる。 「甘えるな。努力すれば済む事ならば努力すればいいだろう。おまえが王につけばそれだけで天災は減り、妖魔もいなくなる。それだけで荒廃は止まる。おまえが敢えて荒そうとしない限りはな」 「…そういう、ものですか…」 「そういうものだ。王が玉座に着いただけで民の負担は幾分軽くなる。その間におまえは努力すればいいだろう。嘆いてばかりいた所で、足踏みばかりした所で。前に進もう筈がない」 「ですが…稿王とて、自身が愚かと知りつつも愚かな道を選びました」 なおも逡巡する陽子の言葉に、延は微かに眉根を上げる。 「先程から妙に稿が出るな。予王ならば話も判るが…何か知っているのか?」 「水禺刀で……稿王と稿麟を」 「見たのか」 「はい」 言われて延は一つ溜息をつく。 「そうか。……なにを見た?」 「胎果は、嫌いだと」 「あの男は以前からそうだったな」 「胎果の王は功国の周囲には要らないと」 「愚かな事だ。王を決めるのは天意だというのに」 言われて陽子も頷く事でそれを肯定する。 「稿王もそれを知っていました。だからこそ、天と麒麟が王を選び損ねたのだと」 「戯れ言だな。選び損ねたかどうかは己自身にかかっているものを」 「……それと、功の周りに豊かな国が成されて、自分が愚帝と評されるのは許せないと。言ってました。慶が立ち、そしてその慶が功よりも豊かになったら、と」 「呆れた事だ。その行為こそが真に愚帝と評されるものを」 陽子の言葉に延は心底、と言う様に溜息をつく。行いが悪ければ麒麟は失道の病に伏すが、王の行い以前に性根から腐っているとなると、病にかかった麒麟は快癒する事自体が稀だ。おまけに今話に聞いた限りでは、稿麟とて快癒する事は難しいだろう。それこそ景麒の様に王自身が死ななければ。 「……稿王も、自分の行為が愚かと知っていました。そして知りつつもその道を選んでしまった事も」 だからこそ、恐いと思う。望んで愚かになろうと思っていたわけではないだろう。少なくとも最初は。意欲に溢れ、理想の通りに治世を敷いてきたはずだ。でなければきっと、予王の様に六年で終わりを告げていただろう。 ましてや、その予王とて、望んで国を衰退させようと思っていた訳ではない筈だ。それならば最初から王にならなければいいのだから。きっと、最初から国を沈める為に王になる人がいるわけないとさえ、思う。 なのに、実際予王の治世は六年で終わりを告げ、稿王は五〇年余りで沈んだ。 だからこそ。 「……私は、恐い。いつか、自分も同じ道を歩むかも知れぬと思う事が」 楽俊にも、同じ事を言った。判っている。これは恐らく愚痴だ。今更変えられぬ事に対して、突然のしかってきた責任に対して愚痴を言っているに過ぎない。 それでも、心のどこかで思うのだ。 責任逃れと知りつつも、既にのった責任は下ろせないと知りつつも。それでも。どうしようもなく。 「………私は、卑怯だ………」 俯き、固く握った拳を見つめながら呟く。 知っていて、どうしようもない癖に。それでも逃げたがっている。逃げようと、している。 どちらを選んでも、結局後悔するのに。楽俊にもそう、言われたのに。 未だに揺れる。 「―――私は、本当に卑怯だ」 まるで泳げる癖に溺れた振りをしている様な気分だ。 真実、一番最初の印象は「それなりの腕」だった。 遠目で見ても判った慶国秘蔵の宝剣を振り回し、妖魔に囲まれてもそれをどうにかするだけの腕。ただ、見通しが甘いのかそれとも生来の性分か。よりによって毒を持っている妖魔に攻撃を受けそうになっていた。ので、手を出した。そうでなければ出す気はなかった。慶国と誼を結ぶ気はおおいにあるが、なにも其処までする必要性は見て取れなかったが故に。 しかし手を貸してみたら、目の宿った光を見て妖魔が憑いている事を知った。 成る程。それでは腕がいいのも頷ける。服越しだから要として知れないが、袖から覗く手足の筋肉程度では土台無理がある動きを見せる。 その後。 「いい腕をしている」 取り囲んでいた妖魔とその指令を倒し、少女に声をかけて。 「しゃべる体力も尽きたか?」 無言でこちらをただ見るだけの不躾な様子と。 「………どうも、ありがとう、ございました」 問われ初めてその思い口を開けた事に。 ―――愚鈍な娘だ。 そう、評価を下した。 そして今尚、目の前で王に就くか否かで思い悩む少女のそれは、その印象を覆す事はなく。 知らず、溜息をつく。それで目の前の少女が怯える様に身を竦めても、構いはしない。 愚鈍の他に、愚図という印象も付加されるだけだ。 考えるに、この娘は真実、礼節があるとは思いがたい。名を聞いておいて、先に自分から名乗りはしない。ただまぁ、そこら辺は実際自分でも他人に事は言えない事など要として知れているので別段気にはしない。が、それでも繰り言を重ねるのも、一度でこちらの意を介さないのも、正直余り良い気は、しない。判断も、もたもたとしていて遅い。海客が故の・胎果故の、物知らずと言う事を差し引いても、少々鈍い。導いてやれば、解答を出すのだから回転は真実悪くはないのだろうが、今まで頭を使っていなかった所為もあるのだろう。辿り着くまでに少々もたつく。 おまけに既に判りきっている、自分の中で決着の付いている解答に、なかなか目を向けようとしない。未だぐずぐずと目を逸らそうとする。それが正直言えば鬱陶しい。 だが、真実。王気は備えているとも思う。自分で責任の重さを知っているだけ、馬鹿だと知っているだけずっとマシだとも。 そして既に。自分は知ってしまっているから。 また一つ、溜息をつく。それに対し陽子はただこちらを見ようともせずに俯いたまま、自身の拳を見つめている。 「……おまえは自分の事を卑怯だと言うが」 口を開くと、陽子が微かに視線を上げて先を促す。 「では俺も。卑怯ついでに一つ本音を言おう」 「………本音…?」 今度こそ頭ごと上にあげ、こちらを見返してくる。 「俺はおまえに王になる事を望んでいる。そこには確かに荒民の事、ひいては雁に対する政の現れだと思ってくれて良い。事実だからだ」 「…それはもう聞いた…」 「まぁ聞け。まだ続きがある。だが、それが無くても俺は恐らく、おまえの為に手は貸しただろう」 「荒民が無くても?」 「ついでに功の事が無くても、だ」 「……何故?」 真実不思議でならない、と言った様な顔で陽子が問い掛けてくる。それを見ていると、言ったこちらの方が不思議な気がするのだから面白い。 「簡単な事だ。俺はもう、おまえと出会ってしまった」 くつくつと笑いながら事もなく告げる。 「…………はぁ?」 素っ頓狂な声をあげる陽子を見て、また笑みが漏れる。 「既に誼は結び、知り合いと呼ぶ位の中になってしまった」 「ああ、はぁ………まぁ………」 「と、なると、だ。知人が遠からず死ぬ事を判っている。だがそれを回避する法がある。ならばそれを進言しない馬鹿が何処にいる」 「……そ、れで私に王になれと……?」 知り合いになったとはいえ、他人の事なのに………… 「ああ。と、言うよりも後でこちらの目覚めが悪い。おまえを蓬莱に帰した後で、こちらで景麒がいつ病むのか、と冷や冷やしながら見るのも御免だし、景麒が死んだ後、おまえも遠からず死ぬだろうと考えるのも余り良い気はせぬな」 「だからといって…そんな事、忘れればすむ事では……」 どうせ、ほんの一週間足らずの仲なのだから。 「ま。そうなのだがな。いつかは忘れる事になるのだろうが…恐らくはそう忘れられぬ。それに…そうだな。少なくとも景麒が居る間は覚えていようさ。嫌でも気にかかるからな」 「………そう来ましたか…」 知己の死。確かにそれは歓迎する物ではないだろうし、それを回避する方法があると知っているならば開示するだろう。誰かが死ぬのは哀しい。おまけにそれが知り合いならば尚更。少なくとも今の自分ならそうだ。 そして同じ事を楽俊もするだろう。事実、自分もそうして助けられた。 だが、その為に一国の王になれと言う、死にたくなければ他者の命を背負えと言いながらも、告げられた言葉がこちらの情に訴える物と来れば。成る程、確かにこれは卑怯だ。と陽子は内心妙な所で感心したりする。 ニヤリと口元を歪める延を見ながら陽子はくらくらと傾いできた頭を自身の手で支える。そうでもしないと、真実やりきれない。 「おまけに、だ」 「まだ何かあるとでも?」 苦悩する陽子を見て、心底面白そうに笑いながら延はこともなげに告げる。 「おまえは烏号で海客の届出を出し、受理された」 「それがなんだと…」 「大有りだ。受理されたと言う事は、仮とは言えおまえは既に雁でも戸籍を得ている様なものだ。とするとおまえは俺の民でもある。民の為に王が居る。でなければ俺はとうに王なんぞ辞めている」 「そんな…ばかなこと……」 「何を馬鹿なことがある。言っただろう。王は国を守り百姓を救って安寧をもたらすべき存在だ、と」 呆気にとられた陽子を見て、延は更に笑う。 「王は民の為に仕事し、国の為に仕事をするものだ」 だから俺はおまえに力を貸すのだ。 「甘いですね」 「朱衡か」 何に対して、とか、誰に対してだとかは聞かずに評された当の本人である尚隆はただ笑って目の前に佇む大司寇に目をやる。 「ええ。大甘だと、私は思いますね。確かに慶東国の王と誼を結ぶのは良いことだと思います。そしてその手助けをすることも」 言って、目の前に広げられた地図と書類に目をやる。そこには、維竜襲撃の為の王師編成を練る為に、と細々とした詳細が書き連ねてある。 「誼を結ぶのが良策と判っているのならば良いではないか」 軽く笑いながら尚隆は視線を書類に戻して、手元の白紙へと筆で何事かを書き連ねる。 「ええ。ええ構いませんとも。おまけにその為に仕事を早く片付けて下さるから助かる位です。全く、いつもこうなら私も帷湍も楽で宜しいのですが」 「あまり楽をしすぎると早く呆けると言うぞ」 「五〇〇年以上も生きて、どの口がそれをおっしゃいますか。それでも、わざわざここまでする事など、無いと私は思うのですが? 聞けば景女王は景麒奪還には協力して欲しいとは言いましたが、御自身が慶に立つ気はないのだと言うではありませんか」 「らしいな。だが、それがどうした」 尚隆の言葉に、ぴくりの朱衡の眉が動いた。 「では言わせて頂きますが。全く慶に立つ気のない、それでいて王の地位を返上せずに、蓬莱へ戻りたい。と願う王に手を貸して何か良いことがありましょうか。コレではいくら誼を結んだ所であまりにも無意味ではないかと私は思うのですが?」 蓬莱へ帰るにはまず、人意外でなくてはならない。海客・山客が来る時は関係ないが、こちらから蓬莱へ渡る時は少なくとも人では駄目だと言われている。 そして、人意外となると、仙か、神。それも伯以上の位のもの、と言われるとなると、どうしても王の位は外せないだろう。そもそも、生きて王を罷免することはほぼ難しい。天帝にそれを願い出た所で、大概の末路は死だ。 そして、景麒を取り戻しても、国の為に動かぬ王は所詮長くはない、麒麟が病み、麒麟が死ねば王も死ぬ。 「慶を助ければ確かに一時荒民は減りましょう。しかしそんな時間のズレなど問題にするのも憚られる位に即刻慶は倒れるでしょう。王が居ない上に、元々荒れていた国ならば当然です。ならばさっさと倒れてくれた方が良いとさえ、言う声もあがっているのですよ」 そこまで言って、朱衡はようやく息を吐く。正直に言えば、後からどっと来るよりは最初からさっさと済ませた方が楽なのでは、とさえ自分でも思う。 「おまえは相変わらずだな。やはりその字はつけて正解だったな」 ふむ、と言って尚隆は朱衡を見る。ずっと昔につけた『無謀』という字がこれほど似合う奴も他に居るまい。 「そもそも私はその字を歓迎してはおりません」 しみじみと言う自国の王に、朱衡は表情も変えずにさらりと返す。この王とも字とも五〇〇年の付き合いだが慣れたのは王の言動のみ、と言う事にしておきたい。 「そして、俺のやる事に文句は言いつつも反対はしないのだな」 ニヤリと笑って告げる。事実、先程言った件も『甘い』と評したのみで反対はしていない。出たのは文句だけだ。 「どうせ止めた所で貴方は勅命だ、とでも言うのでしょう」 「良く判っているな」 「では止めるだけ無駄というものです」 出来るのはこうして文句を言う位ですからどうぞお気遣いなく。 つらりとした顔で朱衡は自ら仕える王に告げる。 「まぁ、どちらにせよやることはかわらん」 くつくつと笑いながら、尚隆は資料を繰って筆を動かしてゆく。 陽子が帰るにせよ。景王として立つにせよ。 「もっとも、俺はそう悲観したものでもないと思うのだが」 「では。どちらにせよ王は甘い、と言う事には変わりはない。と言う事ですね」 彼女が王として立とうが立たなかろうが。初めてではないとはいえ、そもそも覿面の罪を誤魔化してまで兵を動かす時点で呆れる程甘いのだから。 翌日、陽子は朝食の席で延王と延麒に「やってみます」と言った。 その声は掠れてはいたが、震えては居なかった。 この言葉に二人はただ笑って頷いた。 陽子の隣にいた楽俊も嬉しそうに笑った。 楽俊にも延王にも、さんざ弱音を吐いたが、吐いた分だけ楽になった。二人の言葉は正直嬉しかったし、どちらも自分を後押しするものだった。 「それで、延王」 「なんだ? 景王」 「………その呼び方はまだ早いと思うのだけど…」 「直に慣れる。それで?」 呼称で呼ばれ苦笑する陽子に延は笑いかけることで先を促す。 「ああ、維竜襲撃についてだけど…私も、参戦したいのですが」 良いですよね? と言ったら延王と延麒の両名が揃って顔を歪めた。楽俊に至っては大きく口をぽかりと開く有様だ。 「………なんだ皆。一体どうし…」 「……景王には関弓に居てもらってもいいのだぞ?」 逆に不思議そうな顔をする陽子に延は苦笑しながら告げる。腕は知ってはいたがまさか自分も前線に立ちたいと言うとは思わなかった。否、「王ならば」と。多少は思わぬ所もなかったが、女という性別がある以上、ほぼ無いだろう、とも思っていた。 「いえ。一騎でも多い方が良いだろうし、何より私の国の事だ。私が後ろに隠れてていい筈がない。……それに」 「それに?」 聞いたのは楽俊だ。隣に座る友人を見ながら陽子はふんわりと微笑む。 「決めたんだ。自分で出来る事から始めようって。そして今私に出来る事は、景麒を助ける為に戦う事なんだ」 笑いながら、目に力を籠めて訴える。楽俊ならきっと、判ってくれると思った。 「だからって……景麒と逢う時に血まみれで行くつもりか?」 延麒が困った様に口を挟む。麒麟は仁道の獣だというからこれは仕方のない事なのだろう。 「景麒には…我慢して貰うしかないと思う。血が苦手だとしても…しょうがない。私の半身を取り戻す為の戦いだ」 言って、自嘲する様に小さく笑う。 「本当は、まだ良い王になれるかどうかなんて自信は全然無い。でも、王は民の幸せの為に働き、国の安寧の為に働くと言うなら。私はそうある様に努力したいと思う」 だから。 「力を貸して下さい。延王。私と、私の国にいる多くの民を幸せにする為に」 この言葉に延王はただ笑って頷いた。 ―了―
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