雪融け

 

 

 

 三月、良く晴れた日、松葉の針先に切り取られた向こう側の空は息をのむほどに青く澄み渡っていた。海は見えず、だが北の波風の荒々しい声が松林を縫って、容赦なくここにまで伝わってくる。

 僕は目を細めた。太陽の高度が上がらぬ時期には、晴れの日ざしは目くらむほどにまぶしい。松の木の影が時折顔を過ぎるのを一歩一歩のちっぽけな楽しみに、林の小さな小道を歩いた。生気を失い茶けた松葉が足元には敷きつめられ、その間の至るところに、砂利のように固まって泥をはらんだ残雪が見えている。白さは汚れと同居し、日を浴びるとそれは、くすみと照り返しの眩しさを両極端に見せるのだった。道を歩けば、ブーツで踏む松葉の不思議な感触の中に突然として脆さと硬さを足に感じさせる、雪の上の一歩に出会う。

 だがそれも、もう数日もすれば全て消え去ってしまうだろう。日ざしは日々力強さを増して高まり、松の枝にしがみつく残雪もいま枝葉に雫を滴らせて、手を伸ばし辛うじてぶら下がっているにすぎない。陽気は日夜の寒暖を繰り返しながらも確実に春に近づき、そして今ある冬の名残はいつ消えたとはっきりともわからぬ間に人の目から姿を隠す……。

 不意に僕は微笑した。ラはいいところに眠っている。海の飛沫をすらここまで吹き飛ばしてくる北風も、決して人の心をどうしようもない寂寥に押し込めるか細さを見せない。それは凍てついてはいるけれど、思わずうめいてしまうほどに凍えさせるのだけれど、その豪放さはこちらに微笑みを浮かべさせてくれる。ここの雪融けは美しい。雪融けが美しい場所にラはとどまっていることができる。

 街に戻ってみれば、消えてゆく雪など詩的でも何でもない。ザラメとなって固まったグロテスクさも。人の足に踏み固められて中に砂を抱え込んだ強情な歩道のそれも。スタッドレスタイヤが作る茶ばんだ轍からゆっくりと融けてゆく泥水も。雪を呪う人の呪詛が込められ除雪され、積み上げられた行き場のない雪の塊のオブジェも。街は汚れて、煩瑣でありすぎる。静かに眠る場所じゃない。

 街は見えない。常緑の松の林が、常盤の枝葉を絡めて街からここを隔絶している。ここは、海と街とを遮断する防風林だ。地域史を紐解けば、明治の初期から人の手によって地道に植林され続けてきた人工物であることが記載されているだろう。

 人工物。

 ここには実用という人の意思が込められた自然が具現化しているわけだ。

 いつごろからだろうか、この防風林に動物が住み着きはじめたのだそうだ。タヌキやキツネ、それに猫ぐらいもありそうなでかいネズミが、どこか人の目の届かないところに潜んでいるという話で、それがくだらない子供の戯言でないのを大人達は、連中のグロテスクな死体で思い知らされる。時折転がっているのだ。林に近い道路などで。車に引かれた奴もいれば、別の動物に襲われた奴もいるし、単に力尽きた奴もいる。一度、その防風林に近い仲間の家の庭先で、でかいネズミが死んでいたんだそうだ。顔を背けながらそいつは黒いビニール袋にネズミを入れて、それをこの世から見えなくしようとしたのだけれど、ミミズが十匹も前へならえして連なっているような長い長い尻尾が黒いビニール袋からはみ出して、閉口したらしい。

 タヌキとキツネは、もともと野生でいたのではなく、人の手に飼われていたものなのだという。そんなもの拾ってくるわけにもいかないから、どこかの物好きが金を出して買ったんだろう。彼らはそこで愛玩され、やがて飽きられて捨てられたか、それとも自由への羨望が、ラ・マルセイエーズでも歌わせたか、人が海岸線に沿って延々と植樹していった細長い緑のベルトで新しい生活を始めたのだろう。ただ、連中の律義さにはつくづく感心するが、おそらく人の手のなかにあった自分という負債を払うためなのだろう。死というリアルに直面すると連中は人前に顔を出してくる。まるでラが眠るこの松の林を聖域にしているみたいだ。すごいなラ、お前って王女様みたい。

 もちろん彼らの律義さに感心する人間なんていない。目を背けて家に駆け込み受話器を取って、自分の敷地で死んでいる野生動物の処理を保健所に依頼する時、実費負担は必要かどうかあれこれ考えるだけだ。

 そのくせ死が、死骸という醜悪なリアルを見せない状況だと、例えばテレビのブラウン管越し、キタキツネの親子なんて図に感動して涙を流す。キタキツネは寒さに凍え、吹雪の中で母親が倒れる。いつまでも母親の匂いのする毛並に鼻先を突っ込んでじゃれている子供キツネ。やがて雪は母親の死体を美しく白く覆い隠す……。

 大学のディスカッションで自然保護問題を討論していた時、防風林沿いの自動車道路に飛び出してくるキツネやタヌキについて、熱烈に彼らの人権を擁護し、無情にも彼らを跳ね飛ばすドライバーのアンチエコロジカルな鈍感さを弾劾する人間がいた。それにショックを受けたという口実で、僕は学校を三日休んだ。

 ネズミのことは知らない。きっとどこかのマンホールから引越ししたんだろう。『野生の』タヌキやキツネの人権を守ろうとしてくれる、彼らの死骸に泣かされたことのない人間はたくさんいるだろうが、ネズミ擁護派を、僕は見たことがない。きっとネズミはしぶといから、誰もが安心しているんだと思う。「ネズミって好き?」

「ミッキーとミニーか、トムとジェリーのジェリーみたいなのだったらね」

 なるほどと僕は肯く。

 やがて松の林の行く手に、簡素な囲いで隔てられた霊園が見えてきた。最近、このあたりの再開発が盛んな影響で、何十年か前に植樹した松を薙ぎ払って、こういったものが作られている。「風はどうするの?」

「ああ、側に十階建てのマンションが建つんです。ウルトラマンのような松の木じゃないと、風は防げませんね。でも大丈夫。マンションの設計上、ちゃんと風を逃がすような作りになっているんです」

 立ち止まって辺りを見ると、確かにマンションがでかい墓標のように突っ立っていた。多分バブルの頃に作られたんだろう。入居がどれぐらいなのかは知らない。本当に風が逃げるかどうかも知らない。僕は誰もいない霊園の入口を通り、比較的新しい墓石が何の秩序もなく立ちならぶ間をすり抜けて奥へと進んだ。似たような墓、同じ名字、そんなものに惑わされながら、曲がっては進むを幾度か繰り返す。やがて目当ての墓を見つけると、そこには既に先客があって、背をこちらに向け神妙そうに頭を墓石に下げていた。そいつはやがて後ろに立つ僕のけはいを察してゆっくりと振り返り、やっぱりなと言いたそうな表情を浮かべ、だが黙ったままだった。イーヤらしいと僕は思い、こいつに倣って手を合わせ頭を下げた。

 祈る言葉は、白々しい。僕の祈る言葉に、どれだけラに向けた実があるんだろうか。でも僕は、取ってつけたような言葉と違うものを思い浮かべることなどできないし、そして、それを道具に祈りを捧げることしかできない。勘弁してくれよ、ラ。どうも俺は小説家にはなれないみたいだ。ただまあ、今年も会いに来たよ。

 顔を上げた。祈りをやめるのを待っていたかのように、イーヤが話しかけてきた。

「久しぶりだな」

「去年もここでその言葉を聞いた」

 イーヤは鼻で笑った。髪型と、コートが黒に変わった程度で、シニカルに笑うその笑顔は変わらない。Rは元気か、共通の友人について、僕はイーヤに聞いた。

「ここに来れないことを済まなそうにしてた。オマエも、ラにもな」

 僕は肯いた。Rはメールでそのことを告げ謝っていたから、イーヤに言われる前に良く知っていた。そのことを多分イーヤも知っていたんだろう。一つうなずくだけの僕に別に不思議そうな表情も見せない。知っていながらイーヤはそのことを僕に告げ、Rは僕に直接メールを書きながらもイーヤにメッセンジャーになってもらう。僕はそれぞれにうなずく。そして、辛くて来たくなかったんだなという既定の事実をイーヤに確認することもない。イーヤもまたそれを喋らない。僕らの中にあるあいつらしさがあいつのことを許容している。ラ、勘弁してやってくれよ。だってさあいつ、去年やっぱり泣いちゃったじゃないか。今年はいなくてもさ、来年はきっと大泣きしに来ると思うぜ。

 会話が途切れた。僕は、見るともなくラの家の雪と氷に凍てついた冷たい墓石を見つめた。側の別の墓石と大差ない大きさの、かたちの、没個性的な恰好、ラの名字もどこにでもあるもので、墓石の側面に刻まれたラの本名もまた平凡すぎるありふれた女の名前だった。ラの母親の名前と言っても差し支えがない古臭いものだ。

 イーヤも、僕の視線に気付いた。

「オマエ、ラの本名ってあいつから聞いてた?」

 苦笑しながら僕は聞いていないと答えた。お前は?

「聞いてない」

 イーヤは少しうつむいて、僕と同じ答えを出す。

「教えたくなかったってことだろうな」

 心持ち下を向いたイーヤの顔はわずかに蔭り、どこかの枝から雪がこらえきれずに落ちた音が聞こえた。それに驚かされたのか、どこかにいる鳥が羽をばたつかせる。

「分からないな。……でも、本当のことはあいつが望んでいたことじゃなかった。だから俺達には言わなかった。都合がいいけど、そう思う」

 ようやく口を開いて、そんな事ぐらいしか僕は言えなかった。ああ、なま返事気味にイーヤは返事をした。

「考えてもみろ。俺がおまえのことを本名で呼んだら、おまえはきっと別人だ。お前はイーヤで、イーヤの時のおまえはバカでスケベな困ったちゃんだろ」

「……」

「だからラはラだ。本名なんて関係あるか」

「本名の方、ダサい名前だもんな」

 イーヤもそう苦笑してもう一度墓石を見た。

「なあ、ボセキに彫ってやろうか。ラって」

「ばか、んな事できるかよ」

「だったらこっちだ」

 墓の前の降り積もった雪を手でかき集めて、女の細い腕ぐらいの太さでラという文字をイーヤは作りはじめた。僕もしゃがんで、上の横棒の方を担当した。僕の−とイーヤのフが合わさって、ラになった。墓の前にそれを置いた。いつまでたってもガキだと、目の前でラが笑っているだろう。ああガキだよ。ガキだよ俺ら。そんなに笑うな。

 さよなら、また来る。やがて僕たちは、どちらからともなくゆっくりと踵を返して墓石の前から遠ざかりはじめた。霊園には、なお残雪が豊かで、足音の一歩一歩がざらついた音をたてる。口から吐き出す自分の息がもやがかって真っ白だった。イーヤの息も真っ白だった。霊園の敷地を出た。松の林の中に戻った。しばらく歩いた。立て札が見えた。右に折れ曲がれば駐車場と市街地への道で、真っすぐ行けば林の中の散策路になっている。僕もイーヤも曲がりはしなかった。真っすぐ歩いた。起伏のあるのぼり道が進む先に見えてきた。散歩させている犬の早足に引きずられながら降りてくる老人の姿が向こうに見える。しっかりと帽子をかぶり、耳当てをして、赤いマフラーをつけて、淡い水色のダウンジャケットを着て息をはずませ、はしゃぐ犬に赤く染まった笑顔を向けながら生き生きと歩いてくる。すれ違う。こんにちは、いいお天気ですね、ニコニコしながら老人はこんな時間のこんな場所に珍しすぎるけったいな見知らぬ若い男二人に臆することなく声をかける。僕らの方が驚いて、ちょっと会釈するぐらいが精一杯で、気がつけば老人は犬と共に僕たちの後ろにあっという間に行ってしまった。何となく立ち止まって、しばらく老人の後姿を見送った。

 小さな丘を上りきると、僅かな先にはのぼった分の下り坂が待っているのだけれど、そのささやかな頂上の踊り場ほどのスペースに、黒く湿った小さな石のベンチがあった。片隅の雪を僕はどけ、イーヤが腰かけた隣に座った。

 ベンチは、海への防風林であり防砂林でもある松林が視野を遮断する中にとり囲まれていながら、ベンチから視野を遮らぬようにと見えない誰かが枝葉を切り落としたのか、その松林のさえぎる緑の中にぽっかりとトンンネルのような空間が開いていて、ちょうど海を眺めることができるように置かれていた。その向こうに海が見える。

 僕とイーヤは黙ったまま海に見入った。

 こんなにいい天気だというのに、海は静まるどころか、高波をもたげ、それを自分の足元に叩き付け、こちらの体を揺さぶるように轟いていた。水際から離れても、はっきりとそれは分かった。日和はもちろん、穏やかな潮を呼ぶ。だがいつも海は空の姿を模倣するわけではない。空が引き締まる寒さに高みを増して蒼く透き通り、そして海が鈍色の青を白い飛沫に姿を変え荒れる。こんな今日の日のように。北の海は、夕日の沈む黄昏色の海であり、北風に白く荒れ狂う海でもある。ずっと肌で触れ続けた海だ。そのせいなのだろうか、この海に触れたことのない人が思うほど物悲しさなんて感じない。その荒れ様の人を人とも思わない傲慢さが、かえって愛しい時もある。

 たった一度だけ、真冬の最中の猛吹雪の夜に、一人ぼっちで海に行ったことがある。もうあの時はまともに前なんて進めやしなかった。歩伏前進の方が速いかもしれないって思ったほどだ。大体恐ろしい勢いで吹き荒れる海風の方に向かって進むのだから、一番効率が悪い一番のバカだ。僕はビルをよじ登るスパイダーマンのような恰好で、一歩一歩進んだ。どれぐらいか懸命に歩いて、ようやく海を一望できる場所に出た。怖くて怖くてハチ切れた。狂ったような風と、真っ暗闇と、貧弱な外灯にぼんやり照らされた牙を見せる海。呑み込まれるかもしれない、そう思うと無性に砂浜まで行きたくなった。うきうきしながら海への階段を駆け降りた。足を踏む感触がコンクリートから砂の柔らかさに変わって、そこからもう一歩たりとも前進できなくなった。死ぬ。ぜったい死ぬ。ライオンが大口あけた狂暴さの波が、すぐ目の前、もう一歩先と言ってもいいぐらいの距離にある。寄せては返す波打ち際なんて消え失せていた。そこまで行って笑った。雪と砂の上にぺたっと座り込んでバカみたいに笑った。怖くて心底脅えながら、脚を子供のようにばたつかせて笑いたいだけ笑った。波がいいように僕の体の中に入り込んでそこを蹂躪し、それが僕の力であるように体の隅々に満ちた。脅えながら笑い、思いっきり「ラ!」って叫んだ。ラ、サイコーだよここの怖さは。

 吸うか、イーヤはコートのポケットから煙草の箱を取り出した。吸わないんだ、知ってるだろう。僕はちょっと嫌な顔をして答えた。イーヤは鼻で笑った。安っぽいプラスティックのライターを指先で何度かまわしてから、持ち直して火をつけようとし、風に弄られてはためく炎を手のひらで守りながら、煙草の穂先を焦がし続けた。煙が当然のように立つ。詰められた茶色の葉の先端が茜色に光る。イーヤは吸い、一息に吐き出した。苦々しい臭いが僕の鼻にもやってきた。紙が焦げるような好きになれない臭いだった。燻されて、僕の表情も苦いものになったようだ。イーヤが横目で見てゲラゲラ笑った。僕は波風に負けないように怒鳴った。笑うな。

「タバコの一本ぐらい吸え。ガキじゃあるまいに」

 ヤニならハッパの方がいいと言ってやった。僕らしい言い方だと思ったんだろう、イーヤは微笑を浮かべ崩さない。

「タバコの快楽よりも、見えもしない老後の健康の方が大事かよ」

「そんなわけないだろう。そんなもんはくそくらえだ。お前こそ、快楽なんて言うんなら、もっと高い煙草を吸え。何だよこのいかにも安物の濁った臭いは」

「軽いから楽だ。ウマくてもキツいのはゴメンだね」

「おまえらしいよ、本当に。変わらない」

「オマエもさ。変わらん」

「変わったさ。変わったよ。変わっちまった」

「いやオマエも変わらないさ。変わらないために、いろいろ都合の悪いのを誤魔化しているだけだろう」

 うつむいて笑った。「図々しいだろう」

 さあねえ……。

「あのオンナと、どうなった」

 どの女だと僕はイーヤを見返した。

「ほら、オマエが受験の頃に付き合っていたやつだよ」

「消滅したね」

「だろうなあ」

「だめそうに見えてた?」

「見えてたね」

「もうとっくの昔だ。何年前だろう? こっちも忘れていることを、どうして今更思い出したんだ?」

「ラの前で、モラトリアムって事を考えていたら、不意に連想したの」

 新しい一本を求めて、イーヤの指は少し潰れた煙草の箱をなぞった。

「名前、なんていったっけ。そのオンナ」

「どこにでもある名前だよ。言っても多分お前はまたすぐに忘れるだろう」

「どうして切れた?」

「遠距離恋愛のなれの果て、陳腐すぎる平凡な結末だよ。遠距離になってから一月も持たなかった」

 イーヤは喉を震わせる奇妙な音を立てて笑い出した。「オマエ、離れ離れになった後、そのオンナと会ってヤッてないだろ。会わず消滅だろ。それじゃあ何が遠距離レンアイなもんかよ。バカだねこのオトコは」

「ばかやろう、俺を責めるな。女を責めろ女を。それでも俺はその一月は操を守っていたんだ。守ってないのは女だ」

「ごっこだねえ。レンアイごっこ」

 ああそうだな、僕は笑いながら同意した。ごっこだよ。「おまえの方のごっこはどうなんだ。カノジョ作って弄んでいるか?」

「んなもん作るか」

「ウソつけ」

「飽きたんだよ。一人エッチの方が気持ちいい」

 二人でバカ笑いした。

 

※   ※   ※   ※

 

 僕とイーヤと、それから墓参りのできなかった東京にいるRと三人が、ラに会ったのは、僕らがまだ高校にいた頃、夕焼け時のゲームセンターでだ。

 あの頃はそう、ゲームセンターはアミューズメントパークって名乗りはじめていた。今はどうなのか、遠ざかってしまったから分からないけれど。ゲームセンターっていう言葉の持つ、薄暗さ、さえない男が巣食っているようなイメージを捨てて、気軽なデートスポットに脱皮してもみたい、そんな意味でのアミューズメントパークだったんだろう。僕らはそんな労苦を無視してゲーセンと呼んでいたが。ゲーセンはゲーセンだ。ノータイ厳禁でBGMがクラシックというゲーセンができたとしても、ゲーセンはゲーセンだ。でも、何かのパイプがむき出しのような壁面だったり、黴臭いような薄暗い場所が、清潔で明るくて女の子一人でも気軽に入って行ける空間に変貌したというのもまた事実だ。いや、変わったからこそ名前の変化が必要になったということか。たしかに名前が変わったころには、カップルも増えれば女の子のグループも見かけるようになったし、背広姿も目立ちはじめた。それもまた僕らとは別の場所での真実だ。

 あの頃のことを思い返してみる。……しかし、今も何を持っているわけじゃないけれど、あの頃は今以上に何も持ってはいなかったんだな。ゲーセンに行くために、放課後あんなに一生懸命自転車をこぐ必要はなかったのに。車を持った今、あんなところにわざわざ出向くなんてまるで億劫になってしまった。緊急事態にトイレを拝借するぐらいのものだ。『アミューズメントパーク』のトイレは、回転のいいパチンコ屋のそれと全く同じで、どこからこんな金が涌いてくるのか不思議なほどにキレイなものだ。笑ってしまう。どうしてあんな場所に金をかけるのだろうかと。僕らがそれを貢いでいたと思うとますますおかしい。

 僕らは、あの頃もまるで宙ぶらりんだった。高校に入学した手の緊張感が失せ、受験への切実感も薄い二年の時だ。高校の体育会系の部活のノリにはついていけない。クラブやサークルをやるような興味もない。バイトとバイク通学は校則で禁止されていたし、クラスの女の子を必死に拝み倒してまでカノジョにする器用さもやる気もあまりなかった。もちろん、それほど勉強に燃えていたわけでもない。ちょくちょく顔を出すゲーセンにも、時間潰し以外の意味なんて見つけていなかった。僕らは遊び、笑い、叫び、はしゃいでいたけれど、虚ろな思いをどこかに抱え持ってもいたのかもしれない。無意味で馬鹿な遊びをしているってどこかで自分を嘲笑していたんだろうか。ラに会ったのはそんな時だ。

 きっかけは、もう忘れた。イーヤは、Rは、覚えているというだろうか。とにかくつまらないことでちょっと話をして、一月の間に三回ぐらい偶然にそのゲーセンで顔をあわせてしまって、いつのまにかつるんでしまっていた。あんまり深い意味はない。

 ラはいつも私服だった。はやりのものを手当たり次第に着て、見せるために出歩いているようにはとても見えず、自分に似合いそうなものをごく自然に着ているといった感じで、要するに取りたてて背伸びもしていないしガキっぽくもない、僕らと同じ年頃の普通の女の子の恰好をしていた。ただちょっと不思議なことに、一度も制服を着てそこにいたことがなく、一度も誰かを連れていたこともない。聞くともなくそのことを聞くと、ラはあっけらかんと「わたし高校生じゃないから」と言った。

「え? 大学生なわけ」

「ううん、やめたの。ガッコ。だからいまプー」

「やめた? 何でまた」

「何でって、嫌だったから」

「嫌だって、嫌でやめられたの、ガッコ」

「だってやめたいですって言えばどうぞって言うでしょ」

「いや、親とかがさ」

「変な親もいるんだよ」

 変わったやつなんだなとその時は思った。大体、名乗るラって名前からして変わっている。イーヤだったかがラと知り合ってからその名前を聞いた時、ラは待ってましたとばかりにラと名乗った。誇らしそうに胸を反らしている。ラ? なんでラなんだ。なんだそりゃあと思いながら僕らは聞いた。ラは意味なんてないって答える。

「いいじゃない。ラだって立派な名前だよ。わたしは気にいってるんだ。悪くないじゃない。どこにもいないよ、こんな名前の人。世界でたった一つ、ラって名前だけで、すぐにわたしだって分かるんだよ」

 本当に変わったやつなんだって僕らはつくづく思った。

 とにかく僕らは、会えばニコっと笑って寄ってきて、時には小犬のようにじゃれついてくるラという女の子に、戸惑い、驚かされ、振り回されながらも、自然に一緒にいるになっていた。ラがいい子だっていうのを空気で感じることができたようなものだろうか。

 ただはしゃいでいた日々だった。Rはキャッチャーでラの欲しがるぬいぐるみを取ろうとして、イカのオバケみたいなそれを取るのにムキになって百円玉を随分浪費した。多分、小さなテディベアぐらいだったら買える金額じゃなかったんだろうか。イーヤは対戦格闘ゲームでラを向こう側のマシンに座らせ、何だかわけの分からない必殺技をかけてボコボコにのし恨みがましい目でにらまれて大笑いして威張っていた。そして僕は、メダルゲームという奇妙な遊びをラと一緒にやった。

 その一角は、ゲーセンという現実から遮断された空間の、さらに特別な場所だった。

 マシンは、スロットやポーカーゲームにBJ、ルーレット、要するにラスベガスの世界がゲーム機によって模倣されている。そこに例えば競馬のシミュレーションマシンや、マージャン、花札、パチンコの模倣をするマシンが付随している。そういったマシンの全てには、プラスティックの皮膚の中にコンピュータのチップが、見えないように埋め込まれている。彼らはディーラーで、同時にあらゆる勝敗を乱数によって管轄するジャッジだ。その中にはあらゆる意図が渦巻いている。客からメダルを巻き上げ、見捨てられない程度に勝たせてやる、超越者の視点が内蔵されている。いや、チップそれ自体が超越者だ。僕らの一喜一憂は、それに隷属する。これはそういう遊びだ。

 ガキの遊び、そう、まさしくそれだ。本当のカジノと違って、ここで買うメダルには換金性がない。景品と交換することもできない。負けて失うくやしさと勝った時の興奮が、金という実のない曖昧な状況で僕らを揺れ動かす。出口のない、入り口の易々とした、この奇妙な模倣の空間は、ピュアに完結している完全な遊びの世界だった。

 例えば一万枚を稼いだとして、それは一万枚の興奮と一万枚の達成感、ただそれだけで、メダル一万枚を担いでディズニーランドに行けるわけもないし、海外旅行に出かけられるわけでもない。一万枚は、疲れ果ててこの遊びに退屈するまで、更に拡大するためにひたすらチップたり続ける。

 稼いだメダルは、店のカウンターに預けることができる。名前、住所、電話番号、それだけを記入すればいい。別に実印や保険証が必要なわけではない。その代わり、というか、だから別に預けたメダルに利息がつくわけでもないし、二ヵ月音沙汰がないとそのメダルは店に没収される。理不尽だが、理不尽だと怒るやつを僕は見たことがない。

 ラはよくポーカーやBJをやった。こいつはマシンに向かってすらポーカーフェイスをするのだ。マジメくさったその顔がおかしくて、隣に座って良く大笑いした。ラに言わせれば、競馬ゲームで「まくれ、まくれ」と叫ぶ僕の方がよほど笑えるのだという。

 現実を喪失したその空間で、イーヤもRも、みんなで一緒になってギャンブラーになっていた。「もうおうちに帰りなさい」と言われるまで時間を忘れわれを忘れて遊び、そして従順すぎるほどに、突然耳に飛び込んでくるたったの一言に従ってそれと訣別する、そんなガキの遊びの直中にいた。漠然としたタイムリミットは誰しもが見えないその先に見上げていたのかもしれないけれど、タイムウォッチは秒刻みでもなく、すり減っていく時間を僕らは無視し続けた。無視できる空間で遊ぶことに固執していたのだ。

 あのときぐらい驚いたことはない。ラと知り合って随分経った頃だ。いや、すぐに昔からの友達のように仲良くなったから、それほどの時間は過ぎ去っていなかったかもしれない。とにかく、僕らの側にラがいることが当たり前すぎるようになった頃、突然ラが言ったのだ。「セックスしようよ」

 みんなのいる、メダルゲームのスロットマシンのブースのところで突然そう言い出したのだ。ラの突拍子のなさには免疫がついていたが、それにしたって驚いた。僕はしばらく黙り続けた後で、みんなで一緒にするのかよと呆れながら言い放った。どう考えたって、たちの悪い冗談だとしか思えなかったからだ。Rは唖然としたままで、イーヤはニヤニヤしている。センスのないジョークだと思っているんだろう。

 ラは平然としたままだった。

「ううん、みんなと公平にするけど、一人ずつ。わたしはみんなの共有物になって、その代わりみんなは私のレンアイごっこに付き合うの。新しい遊びだよ」

 僕たちは黙りこくって、こいつの頭の中の配線がどうなっているか、僕たちなりに考えた。分からなかった。分かるわけがなかった。何を考えているんだろうこいつは。

 目の前のラは無邪気に微笑んでいる。肉欲でグチャグチャになってネトネトになった顔じゃない。ふらついてもたれかかってくる表情でもなかった。セックスの好奇心を目に浮かべているわけでもない。言う通り、遊びそのままだった。ここにいるのと同じ顔なのだ。

「わたしじゃつまらないかな。それとも、愛している彼女としか寝たくないっていうシュギなの?」

 まさか、僕は笑った。愛、笑える言葉だ、そう思ってヘラヘラしていた。

「じゃあ、さっそくいこっか」

 そう言ってラは僕の手を取り、イーヤとRをその場に取り残してさっさと先に歩き出した。僕はのこのこ後をついていった。

 自転車は置きっぱなしでいいねと、ラは外に出てからそういった。相変わらず、僕の手を小さくて白い手で握っている。柔らかい手触り、さらっとした感触の中に、何だかしっかりと握る硬さがあるような気がした。

「どうして自転車はここでもいいんだ?」

「だってウチけっこう近くだもん。わたし歩きだし」僕らは二人ならんで歩いた。

 いつのまにか割合静かな住宅街に入っていた。この辺りは、僕にとってはほとんど未知の場所だった。四つ角にある小さな公園の砂場で、小さな子供たちが一生懸命遊んでいる。「あそこだよ」とラは指差した。静かな周囲の家々の雰囲気を乱さない、とびきりの豪邸というわけでもないが、卑下も似つかわしくない、ラそっくりの、ラと同じような家だった。

「行こう」ラはぐいぐい僕の手を引っ張る。

「おい、ここはおまえの家のすぐ近くなんだろ」

「そうに決まってんじゃない」

「近所のオバチャンとかに見られてもいいのかよ」

「そんなの気にしてたら身が持たないよ」

 玄関先でラはようやく僕の手を離した。バッグから鍵を取り出して、ゆっくりと差し込み、ゆっくりと回す。微かな軋みが、遠くの子供たちの笑い声と共に、僕の耳に届く。ラは鍵をゆっくり引きぬくと、そっと冷たそうに光るドアノブを握って、玄関のドアを引き開けた。

 中に入った。家の中はびっくりするほど静まり返っていた。玄関には、人が脱いで、その場に揃えておいたような靴は一足もなかった。人は、この家の中に住んでいるんだろうか。玄関やフロアといった目に映るものを見渡しても、生活感の崩れのようなものは見つけられなかった。

 入って正面の壁には、何とも形容し難い一枚の前衛風の絵画がある。けばけばしい色彩をした油絵のモチーフは、男なのか、女なのか、何かが体をよじらせたような、子供の落書きのような絵だ。理解する眼力のないお前が悪いといわんばかりの迫力で、その絵は僕とのコミュニケートを拒絶する。青褪めたその背景には陽炎のようなものが浮かんでいて、じっと見つめていると焦点が合わなくなってくる。違和、あるいは一つのトリップだ。凝視すればするほど、現実と幻想の境目が曖昧になって行く。そんな僕の視界に、扉を閉めたラが入り込んできた。「どしたの」

「いや、別に」

「緊張してる?」

「そりゃあね。エッチしたことないからさ」

「ふうん」

「つまらないだろ。まあ分かってたと思うけどさ」

 ラはニコッとして僕の首に腕を巻きつけた。「レンアイごっこなんだよ」

「うん」

「きょうはね、スケコマシの男の子とエッチな女の子のレンアイのごっこ」

「俺、スケコマシの役?」

「エッチな女の子の役がいいの?」ラは笑った。

 遠慮しないで入ってとラは僕の体を離して背を向けてからそういった。足下を見ると、無造作すぎるほど無造作に靴を投げ出してスリッパにはきかえ、パタパタと音を立てる。何だかわざとここに人がいますって言っているようだった。

 僕も靴を脱いで、ラに倣うべきかこの家の秩序に従うべきか少し悩んだけれど、とりあえず奇麗にそろえ、ラの靴はそのままにした。ラがスリッパを差し出した。屈んだ時に白い膝こぞうが見えた。ありがとうといってそれを履いた。ラが笑った。入り口のフロアの右手にある階段をトントンと登って、上から下に立ち止まっている僕に早くと言って手を伸ばした。その手をつかんだ。ラが笑った。トントンと軽い音を立てて階段を登っていった。僕はゆっくりと続いた。二段あった間が三段になった。短めのラのスカートが揺れて白いすっとした足が見えた。奇麗だなとぼんやりと思った。

 上がり終えてすぐがラの部屋だった。先に入って僕を引き入れ、後ろに回ってパタンと扉を閉めた。

 落ち着いた雰囲気の部屋だった。カーテンとか家具なんかも、女の子めいたところがあんまりなかった。ドレッサーと、大きな鏡と、窓際のいくつかのぬいぐるみぐらいがそれっぽい程度で、カーテンの色もベッドの形もこっちが想像したような少女趣味なんてかけらもなかった。

 そのベッドに、ラは腰掛けた。「座って、スケコマシ君」

 僕はちょっといやな顔をしながらも、ラの隣に座った。値踏みされて、それも安値をつけられるのが嫌だったから、わざとラとぴったりくっつくすぐ隣に座る。

「スケコマシって言われるのイヤ?」

「さすがにいやだよ」

「でもさ、遊びでさ、そうなってみたいって思わない?」

「そうかな、どうなんだろう。でもやってみるとあれも実際大変じゃないかな」

「だから、実際の大変さなんか無視しちゃってさ、遊びなの」

「うん、そうね。そういうのも楽しいかもね。遊びだったら。でもスケコマシ君って呼ばれるのはやだ」

 ラは笑った。体が微かに震えるのが体ごしに伝わってきた。

「ね」

「……ん」

「あったかいでしょ。わたしのからだ」

「うん」

「肩ぎゅって抱いて」

「うん」

 胸の辺りにラがもたれかかってくる。

「なんかさ、怖いんだよ」

「怖い? わたしのことが?」

「俺って根性ないな」

「でもそれなりに落ち着いているじゃん」

「そうかな」

「いきなり押し倒されるかもって思ったし」

「だって俺はスケコマシ君でゴーカン君じゃないんだろ」

 そう言ってから自分で笑い出し、だんだん止まらなくなった。つられてラも笑い出した。喉奥をくすぐるようにして、胸が震えるようにして、腹がぐるぐる回るみたいに。気がつくと僕はラをしっかりと抱きしめ、その下でラは僕のあからさまな愛撫を薄目をあけて受けていた。「ほらあ、スケコマシ君。愛しているっていいなさいよ」

「愛しているよ。エッチ子ちゃん。キミだけがほしい」

 またばかみたいに笑いあう。僕らはもつれ合い、乱れた服やシーツの中にうずまった。

 ほとんど完全に暗くなって、さすがに僕はラの家を出ることにした。家の人がいいかげんに帰ってくるだろうと言うと、ラは裸のままちょっと目をそらして首を横に振る。

「別に、もう少しいてもいいんだよ」

 でも僕は帰ると言った。「子供は、帰る時間だね」

「今日の遊びはおしまいか」ラはつまらなさそうな顔をした。子供のような表情で、重なった肌の熱気と共に見上げたあの時の不思議な顔は何処かにか失せていた。

 シャツのボタンをはめようとすると、ラが手を差し出してくる。「オクサンごっこしようかな」その指が僕のボタンをはめようとすると、さすがに僕は赤面した。冗談だよと言ってラは指を遠ざけた。一人で着替え終わった。それから何となしにラを見た。それじゃあというだけなのも素っ気なさすぎると思って、何かためらった。ラが笑った。「さよならのキスは? スケコマシ君」

 僕も笑い返した。そっとベッドの上のラに寄って、唇が重なる淡いキスをした。

「これだけだと、ヘタクソなのがばれないだろ」

「けっこうバレるよ」

 微笑むラの顔を手でそっと撫でた。少女らしいうっすらとした頬の曲線をゆっくりとなぞった。ラは、喉をくすぐられる犬のような顔をしていた。

 その顔を見て笑って、それからラの家を出た。

 自転車を拾いに、ゲーセンに戻った。窓は相変わらず色々な光で瞬いていた。街灯を伝って薄暗い駐車場の自転車置き場に行くと、離れた隅っこにぽつんととめられた僕の自転車は、ご丁寧にもサドルが一度取り外され、前と後ろを逆さにしてつけ直されてあった。誰がやったか、考えるまでもない。僕はそれにそのまま乗って、奇妙な感触を味わいながらガニ股でこいで家に向かった。

 次はイーヤの番だった。照れながらもスケベそうに笑ってラと歩くイーヤに取り残された僕とRは、さっそくゲーセンの駐車場に行って、とめられたイーヤのマウンテンをバラしはじめた。奇妙な感覚を味わう時間はなかった。いいものを持ってきたとRは言った。学ランのポケットをまさぐって一本のドライバーと共に出したのは、後づけ用の自転車のキーだった。「お前の時にも持ってくればよかったけど、あの時はなにせ唐突でねえ。俺も心の準備が」とぶつぶつ言いながら、妙に慣れた手つきでネジを回し、タイヤのホイールの間に錠を通してがっちりと固定すると、見ている僕が驚くほどあっさり鍵を抜き取った。

「さて、どうする」

 安っぽい鍵を指に引っかけてくるくると回し、Rは言った。むごいなと僕は本音を漏らした。にやっとしてからRは、ここに置いておこうと言って、すぐ近くの窓の下にある何かの金具にそれを引っかけた。僕はサドルの角度を変え、ハンドルを抜いて後輪タイヤと泥よけの間に強引に差し込んだ。こうして売れない芸術家が造ったようなオブジェは、しっかりと二重に施錠されその場に寂しそうに取り残され、僕とRは笑い合いながらいつもよりもずっと早く家に帰った。

 その次はRの番だった。何だかおどおどとラに付き従って消えたRを確認すると、イーヤは「ほら、ぐずぐずするな」と俺を引っ張って駐車場に向かった。Rの自転車は、イーヤのマウンテンの隣に並んでいる。僕はそのイーヤのマウンテンが芸術作品からもとどおりの機能性を取り戻したことに少し感心して、あの後ちゃんと帰れたかイーヤに聞いた。

「さすがにムカついたって。カギまでかけられちゃな。まあ立ち上がった瞬間に目に入って、『あ、ある』てね。あれでカギが見つからなかったら、さすがにマジギレしてたよ」

 今日はいいものを持ってきてやったとイーヤはバッグを開けた。何かこんがらがった緑の線が出てきた。「クリスマスツリー用の電飾だ。安心しろ。ちゃんと電池でつくように直したんだ。アイツの気が向けばダイナモと接続ができて、走りながらキラキラ輝く。あかとあおとみどりがあるんだぞ。交互に光るやつだ」

 三十分もしないうちに、サドルの場所にハンドルが、ハンドルの場所にサドルが突きささった、翼のはえた悪魔の乗り物のような不格好なしろものが、ぽつんとその場にさらされた。全身につたのように絡みついた電飾のイルミネーションの光がまだ明るい午後の日ざしを受けながらセコく輝いて、ひとりぼっちの寂しさをますます引き出している。なかばこのことを予想してこの場にやってきて、それでも絶望的な表情を浮かべるだろうRの情けない顔を想像して、腹を抱えて笑ってから、僕とイーヤは家に帰った。妙な気持ちは笑ってしまって失せていた。

 よう兄弟、学校でそう声をかけると、イーヤは爆笑し、Rは赤面した。

「なあイーヤ。俺とRをぶっ殺して、ラを一人占めしたいと思う?」

「バカ、あいつがオレ一人で満足するタマか? あいつ言ってたぞ。このまま三人と結婚して四人で幸せな家庭を築きましょうだって」

「マジかよ」

「笑える図だな、おい」

「全くだ」

 こうして、四人で会う時は友達で、時々誰かとラがレンアイごっこをする、僕らの新しい遊びが始まった。僕らは、ゲーセンやカラオケやボーリングなんか、四人かたまって遊び、疲れると、ふらっと何となく誰かとラとがラの家に行き、誰かがテニス部のステキなセンパイになり、ネクラでオタクでむっつりスケベなクラスメートになり、中年ハゲの教師になり、お医者さんになり、ちいさなおとこのこになり、パスタとマンマミーヤしか言えないインチキイタリア人になって、ラは夢見る新入部員になり、気が強い学級委員長になり、おやじキラーの女子高生になり、重病患者になり、ちいさなおんなのこになり、パスタとマンマミーヤしか言えないインチキイタリア人に騙されるパーな女子大生になるのだった。

 笑い、ふざけあい、ラの体じゅうにキスをして、僕たちは遊び、また四人で会った時、二人の時の姿を忘れて別の遊びをする。粘着質の快楽は、次には無邪気なままごとに変化して、野原を思うままに駆け回った後、弾む息をこらえてラを抱きしめる。笑い声は、遊びが変わっても、遊びが続く間ずっと途切れない。

「ねえ、この間さ、Rと寝た時どんな感じだったの」

 ケンタイキの夫婦ごっこ――やること済ませた後にお互いそっぽを向いて壁を見つめているという、ラらしい妙な感性の遊びだ――そうやってお互い背中合わせになった都合の良さで、僕はそう言ってみた。

「ああっ、それ反則。退場もんだよ」

 ほとんど金切り声でラは叫んだ。

「どうしてさ」

「あのね、これはね、レンアイごっこでしょ。興味本位で自分のオンナにそんなことを聞く男なんてシチュエーション、そうありふれてないし、ありふれていても面白い遊びになると思うの? 大体遊びから外に出ちゃったら駄目なの」

 妙な迫力で、僕は謝るしかなかった。横になったままラの方に向き直って頭を下げると、ラはどうにか許してくれた。

「だからね、もっと上手にしなきゃ」

「上手にって?」

「例えば、シットオトコとシットオンナのシット深いカップルごっことか」

 ラはそう言ってから僕の脇腹をくすぐりはじめ、こらえきれずに僕は身をよじった。「自分の中のシット心をね、シットしているふりをするの。自分のココロで遊ぶの」

 今試してみようかな、そう言いながら、僕はラの首すじを唇でつまんで反撃した。

 ラは幸せそうな笑い声をころころと響かせる。

 

※  ※  ※  ※

 

「……なあ、ラのこと、考えていたのか?」

 いつのまにか、足下に吸い殻のいくつかをまとわりつかせ、イーヤが言い、僕はぼんやりと我に返った。海も雲も、いくらも変わってはいない。

 軽く僕は肯いた。

「よかったよな、ラとのセックスは」

 イーヤはぽつんと言った。「何人かと付き合って、何人かと寝てみたけど、ラとのセックスはよかった。楽しかった。他のオンナたちだとさ、気持ちよくないオレが一人ぼっちでいるんだ。射精してもだよ。気だるさがあっという間にオレをガックリとさせるんだ。楽しくないんだよ。そのうちどうでもよくなった。それでもナンパはするけどね」

「もしかしたらって思うわけか?」

「さあねえ。でもそこまで単純すぎるぐらいクリアだったら、オレも生きるのラクなんだけどね」

「SM嬢にひっぱたいてもらわないと、もうどうにもならないんじゃないか。そこまでいっちまうと」僕は、気も乗らないままに笑顔を結び、イーヤはひどく皮肉な笑みを浮かべた。

「まったくだ」

 イーヤはポケットに手を入れ、しわくちゃになった煙草の箱を取り出し、中身が空なのを見て舌打ちして、手の中で握り潰す。音にならない音がして、ビニールと紙がいくつかに角張ってから丸まる。手持ち無沙汰になった指を苛立たしげにせわしなく動かし、イーヤは言葉をしばらく探しさまよってから、ゆっくりと口を開いた。

「なあ」

「何だよ」

「ラが死んで、それも自殺して、その事をずいぶん時間がたってから知ってさ、オレは真っ白になって驚いたし、ムチャクチャ辛かったけど、でもどうしてかな、意外じゃなかったんだ。虫の知らせってわけでもなかったんだけど、なんだかさ、どこかで、ああやっぱりって気がしたんだ。オレっておかしいかな? 好きなやつが死んじまってもストレートに悲しむ事もできないイヤなやつなのかな?」

 違うさ、僕は掠れ声で答えた。

「ラは強そうに見えた。でもいま思えば、本当は脆かったんだ。あの笑顔の中で、ものすごく壊れやすいあいつが潜んでいたんだ。俺も何となしにあの時その匂いを嗅いでいた。おまえとおんなじようなことを感じていたんだろう。だから遊んで、遊んで、遊んで、そんな自分とそんなラを自分が見てしまわないようにしていた。俺はそうだったんじゃないだろうか。だから、俺があの女と引っついた事、あれがどれだけラを傷つけたかを想像すると、苦しい。ラに最後の一歩を踏ませたのは俺かもって……」

「そうじゃないってあの手紙にも書いてあっただろ。疑うなって。そんなことをいうんならオレも一緒だ。それに、あいつには、オレたちのバラけた後に付き合った、最後のオトコがいたんだろう?」

 僕は肯いた。確かに、事実を知って、血を吐くように嘔吐して、胃液くささの中でどん底に落ちて目の前が真っ暗になった僕を救ったのは、あの後のラに付き合っていた男が存在したという事だった。男は、僕らのまるで知らない男で、その顛末も良くはわからないが、ラが死んで、姿を消したのだという。その男の犠牲を僕は救いの種にして、自責の念をどこかでうやむやにさせていた。そんな自分の心の中の嘘っぱちに僕は気付いていたけれど、嘘を否定する事は怖くてできなかった。だからずるずると、僕は生きていたし、今もずるずると生き続けている。

 イーヤが僕の顔をのぞき込んだ。

「分かっている。オレにだって分かっている。そのオトコはオレたちにとっての生け贄なんだ」

 それからぞっとするような冷たさでイーヤは笑った。「オレたちはオカマか? お互いの傷を舐め合うなんてさ。バカみてえだ。Rが呆れてオレたちと一緒にここに来ないわけだ。アイツは一人で泣いて、一人でじっと耐えている。キャンキャンとうるせえのはオレたちだけだ」

 それを聞けば、Rはきっと苦しそうな顔をして否定するだろう。そうじゃない。俺には根性がないんだって。

「……なあ、Rにさ、オンナってできた?」

「……この前、笑いながらまたフラれたって言ってた。オンナにフラれたのに、まるで安心したみたいな顔をしてそう言うんだぜ。ああフラれた。ちゃんと入り口があって出口がある。きちんとした終わりがあって嬉しい、みたいなさ」

「何だそりゃあ」

「あいつね、顔が暗い、時々人が変わったみたいな顔をするって、オンナに言われたんだって。そう言われてアイツどうしたと思う?

 笑ったんだと。笑って、そりゃそうだって答えたんだって。薄気味悪いってオンナは嫌がったけど、そんな嫌がるオンナの顔も含めた全部を見ていると、安心するんだってさ。イッちゃってるねアイツも」

 イーヤは笑った。体を折り曲げ、自分の膝に顔を埋めるようにして笑った。

「オマエはちゃんとしろよ。オレら二人がイッちゃっても、お前が地面に足をつけていてくれれば、まだ救いがある」

 僕は首を振った。俺だってイカれてるさ。おまえ達ばっかりじゃない。

 何人かの女の子と知り合ったのは、何もイーヤばかりでもなかった。僕も見知らぬ女の子たちと新しく知り合い、何人かと寝た。別に特別気に入られようと努力したわけでも、どうにかしてあの女と寝てやろうと執着したわけでもない。なんとなくの雰囲気、なれあいの気分のレンアイごっこが、無用に僕の周りで、僕の側で、僕の隣で、そして僕に向かって、消費され続けていた。ただそれだけだった。不愉快で、その不愉快さがクリアな形で僕の中に存在していなかった。モヤモヤした違和感だけが、自分の居場所のなさを教え、焦燥感ばかりを募らせてきた。

 その中で僕は誰かに特別好かれたわけでも特別嫌われたわけでもない。特別好かれそうになると身を翻し、嫌われそうな空気を感じては焦って媚びて、そうしてしまう自分に舌打ちしていた。それでいて、そんな現実のあやふやさに僕は目を向けていなかった。どうだっていいと思っていた。そこにいる自分は、どうも自分の形をしているけれど、自分のように思えない、そう感じていた。それでも女の子は、ほんの何度かだけだけど、気まぐれに僕に触れた。

 女の子も色々だった。自分の躰を餌にするのがうまい子もいれば、普段の姿と豹変する子もいた。平凡すぎる子もいれば、おくての子もいただろうし、こっそりと教授と寝ていたってウワサを持った子もいただろう。もっと違ういろんなやつもいたんだろうけど、みんなにとって意味のあるそういったものでも、僕にとってはまるで意味がなかった。何人かが結局僕の部屋までやってきたけれど、みんな僕のどこかに失望して大した時間もかけずに僕から離れすぐに別の男を捜した。僕もまた体を侵蝕し侵蝕されながらも、それを望んでいた。結局はそれは仲間内でのレンアイ総当たり戦だった。何勝何敗何引分けに勝ち点がプラスなのかマイナスなのか……。ただ、みんながそう思っていないだけで、僕がそう思っているだけだった。去っていった女の子たちの名前と顔は何となく覚えている。でも肌に触れた感触や、髪の毛の匂いや、あったかもしれないセックスの心地よさは拭い去ったように霧散していた。

 あからさまに嫌なやつだと思われぬように、頼まれれば金を貸し物を貸し、酔いつぶれた仲間を車で送ってやって、たまには代返やノート係を引き受けた。それだけだった。それで大体、男も女も、僕のことを理解した。「そんな男」というのが僕という男だった。僕にとってはその評価は十分だった。

 一度、真っ昼間から僕のアパートで飲んでいる時に手紙が来て、それを開いて読んでビリビリに破いてしまったことがあった。無難と思われていた僕の壁が他人には崩れて見えたのだろう、幾本かの好奇心の触手がからみついてきた。僕はおどけて、昔俺をふった女が不幸の手紙を送りつけてきやがったと笑ってみせた。みんなは納得し、何人かは妙につぼにはまってうなずいていたかもしれない。一人になってから、来客用にとかっぱらってきた芸のない形の灰皿の上でそれを燃やしてしまった。自分の手紙が黙殺され、返事がなかった事に多少なりともがっかりしたんだろうか。手紙を出してきた真理という女はそれから二度と僕のところに手紙をよこさなかったし、僕もいらないことで心を消耗する事はなくなった。もう、その仲間たちと酒を飲む事はおそらくないだろうし、真理の姿も手紙も見かけることはないだろう。

 あっさり消えてしまう。現実ってやつも、浮薄な夢物語だ。連中が信じているリアルは僕にとっては幻想でしかない。そしてもしかしたら、僕にはもう思い出以外にリアルが残されていないのかもしれない。

 死んで、曖昧になくなってしまいたいとも思う。生活に疲れてとか、借金苦とか、そういったリアルが背押すのではない。どこにもリアルが見つけられないからだ。ひょっとして、曖昧な壁を通り越してしまえば、その先にリアルは存在しているかもしれないと思いもする。

 それは戯れだ。死というリアルへの戯れだ。それは軽薄なことだろう。命を大事にしろと通りがかりの牧師だったら心配そうな顔をしてそう言ってくれるかもしれない。その善意は彼にとっては重々しいリアルなのだけれど、僕にとっては絵空事にしか感じない。彼の人としての好意を喜びながらも、死に戯れかかる軽薄以上に現実に存在するものが軽薄にしか見えないのならば……。

 笑ってしまう。本当に、どうして生きているんだろう。セックスしたいからか? だったらもう少し楽だ。もう一度冬がやってこないかと僕は思った。あの吹雪くバケモノのような海にもう一度行きたい。あの常世と思えない世界も、波荒れるのと陸地との境界線がグチャグチャの無明のとんでもない所だが、きっと一歩を踏み出せばあっという間に自分の体なんて見えなくなってしまうのだろうが、たまらないぐらいの力が横溢している。

 例えば屋上とか、路線沿いに、そんな力は見えないと思う。

 

※  ※  ※  ※

 

 僕らは、サザエさんじゃなかった。永遠に成長しない幼稚園児の子供と小学生のおとうといもうとを持つ永遠の二十代、永遠の専業主婦じゃなかった。あっけなく高校の三年になった。あっけなく受験ダービーに叩き込まれた。極めて特殊なゲームが、ゲームそれ自体の面白さを完璧に喪失させて、僕らをも強引に引き込んでぐうの音も出ぬようねじ伏せはじまった。そのテーゼは、リアルなのだという。

 入れかわる教師達は入れかわる授業の中で、このゲームの攻略法ただそれだけを延々と板書し続ける。生徒たちはそれを必死になってノートに書き写し、頭に叩き込んで、自分のスコアを0・1ポイントでも上昇させようと躍起になる。そうやって模試という舞台に望み、身を削ってスコアを塗りかえようとする。そうやって出てきた自分の持ち点で、僕らというグループのヒエラルキーをクラスや学年や教務室の中に構築する。あるいはもう少し段差がアバウトなのは、志望校別のヒエラルキーだ。将来につながる、一昔前にあれほど嫌悪された階級の、そのプロトタイプがここに構築される。といって、僕はそれを否定する気はない。信じたっていい。でも捕食ピラミッドの頂点の人間は頼まれもしないのにヘマばかりをマメに繰り返し、小市民をターゲットにしているマスメディアの恰好の餌食となって、そのたびに僕を失望させ、断罪に回る市民の良心というものには絶望させられる。どちらにも僕はなりたくないのに、どちらかか、あるいは双方を兼ねることを要求し、ゲームが始められる。

 熱意のない生徒はたちまち異端児となってすみに追いやられ、攻略法を効果的に教える事のできない教師は放逐される。現に国語の教師が一人、受験生の担当を外れて一年の授業にまわされた。一つの小説やエッセイを、なぞるように丹念に解説するのが好きな読書家の老先生だった。代わりに来たのはドーベルマンのような男の教師だ。辣腕家として知られ、受験指導の鬼として誰からも一目置かれている。昔の違う場所でなら、信者を統括する司教のようなものだろうか。彼もまた僕らを約束された大地へと導くのだ。彼は同時に、落伍者の数を戦死者数にびくともしない戦場の将軍のように計算に入れてもいるのだろう。リアルに一番近い人だ。鉄砲弾に当たって死ぬ兵士にリアルはあまりない。自らの死という悲痛、それだけ。ほかのリアルは彼にはあまり役に立たない。将軍は偉い人間だし、偉い人間は色々と死というリアルを免れる術を知っている物だが、それ以外のリアルは彼と共に存在している。

 彼は自分のやることの馬鹿馬鹿しさを、きっと熟知しているだろう。馬鹿馬鹿しいからアジテーションなんてやれるのだと今の僕には思える。あの頃は毛嫌いしていたものだが、会って酒でも飲んで、あの頃彼がいかに僕らを嘲笑していたかを聞き出すのは、きっと爆笑してしまうほどに面白いことだろう。今も元気だろうか。

 とにかくゲームでないように見えるゲームが始まった。おそらく一番憎悪され、一番小馬鹿にされ、一番その無意味さを弾劾されながら、だれもが切実にならねばならない実にけったいなゲームなのだろう。大学に行ってからも、日頃その無意味さを声高に責める教授が、自分の倅がその季節に差しかかると研究も何も手につかないようになる、そんな光景をいくつか見た。

 やはりこれはゲームであって所詮リアルではないのだ。メディアが発達して、世間や社会とほとんど有機的に結合し、同化したような僕らは、奇形的な殺人事件を見て犯人を推理する天才的な探偵で、政治家のハゲ頭を見て毒舌を吐く誰よりも鋭い政治評論家で、芸能人のインモラルな関係を嫌悪する天使のような道徳家で、そして日本の現状と未来とやらを憂える良質のインテリなのだ。自分の尻に火がつかなければ。そんな偉い僕らにこれっぽっちもリアルは存在しない。

 僕は笑う。こんな僕は、きっとあの時の戦争だって、嬉々としてやっちまったんだろうなあ。こいつは盛大な火祭りだと。

 天使のような道徳家は、かつては忠君愛国の国士だった。今はデモクラシーを守るガーディアンだ。マルちゃんだったこともあったろう。ゲームだ。僕らはかつてジュケン戦士とやらだった。今は、今は何だろう? ラがいた頃は自分の規定に悩まなかったけれど、今は、一人のアホかな?

「ジュケンかあ」

 ラはどこか寂しそうに笑いながらつぶやいた。「わたし、プーだから、はずれものだから、良くわかんないな」

「遊ぶ時間は、ゼロにはならないだろうけど、学校の押し付けてくるカリキュラムのウェイトがきつくなっているから、ずっと減ってしまうね」Rが滅入ったように言った。

 わたしみんなに合わせて時間作るようにするから、時々でいいから遊ぼうね、ラは僕たちを見つめながらそう言った。ありがとうと僕は心底ラに感謝した。

 ありがとう、言い尽くせない。あの時もそう思っていたつもりだった。今、言い尽くせぬ感情は、あの時には想像できなかったほどに深く、光はささない。ありがとう、言葉は虚しい。その言葉、告げると、いつもラは困ったように微笑んだ。「どうしてありがとうなの?」

「どうしてありがとうなの? わたしが好き、わたしが会いたい、わたしがムリ言っちゃっているのに、どうしてありがとうなの?」

 僕たちは笑った。笑って、ただ一度だけ、ラのルールを無視した。そっと三人でラを包み、優しく躰に触れ、ついばむようにして頬や額や髪にキスし、抱擁した。ラが大好きだと思った。それは今でこそそう言える言葉なのかもしれない。でも、あの瞬間は、遊びなんてどうだって良かった。そのはずだ。そう思いたい。ラは笑い、困ったようなかぼそい悲鳴を上げ、それからポロっと涙をこぼした。

 忙しい、ラと会いにくくなる日々。やがて春は緑を深め、川の流れも水を色濃くし、涼しい風としっとりと濡れた初夏がやってきて一息ついたと思えば、長く重苦しく暑苦しくてただただ暗い梅雨がずっと続く。

 テスト、テスト、テスト、ゲーム進行の度合いは常に数値化されるよう、テストが繰り返される。受験のため、というこのくだらない努力を呑み込み我慢するただ一つの目的、それですら、連打されるテストの前で色褪せて、僕らはただ次のテストのためだけに勉強し、それが終わればまた次のテストの勉強を始める。テスト、テストテスト、根気ない僕はもうとうにうんざりとしている。それでもテスト。そんなに繰り返さなくとも、僕の可能性はすっかり掘り尽くされてしまって、カスも残っていない。それでもテスト。テストの中で、僕はいつのまにか塾というやつに通いはじめていた。

 その塾には真理が通っていた。しばらくはそのことに気付きもしなかった。その中の知らない顔たちは僕によって名前を与えられておらず、沢山の人たちであるに過ぎなかった。僕にとって真理は隔てられる必要のないその中に埋没しているにすぎなかった。

「何だかすごく間があいちゃったね」

 前走とかい? 僕は寝転がって笑った。抱き合いながら喋るのは本当に久々だった。のろのろとラにキスをする。こういうのを嫌がる女がいる事を後で知って、僕は結構驚いた。でも確かにこういう事を自分にされると無性に苛立ってしまう、そんな気になる女がいるというのも確かだった。ラとセックスしていた時は夢想もしなかった事だった。それともあれってうざったいと思っていたのを顔に出さなかっただけなのか。

「あのさあ」

「なあに?」

「ごっこじゃなくって、本気で恋愛する事って、あるのかな」

 ラは僕から窓に目を向けて静かに言った。「わたしには、多分、ないと思う」

 珍しい沈黙がやってきて、それに慌てて、振り払うように僕は言葉をみつくろった。

「ねえ、海行こう」

「うみ?」

「うん、近くにもあるけどさ。もっと奇麗で、もっと静かな海岸があるじゃない。そこに行こう。みんなで行こう。夏に、夏休みに一日時間を作るからさ。ラの水着姿が見たい」

 そう言って、僕はラの胸に顔を埋め、乳房の先端をペロリとなめた。やあと言ってラは何も着ていない躰を反らす。「わたし胸がないから水着着るとしまらないの」

「でも見たいの」

「やあなの」

「ね、みんなで一緒に遊ぼう」

 仕方なさそうに笑いながらラは僕の頬に手を伸ばしてきた。

 

 

 待って、待って、梅雨はようやくあけ、遅い夏がやってきた。

 短い、盛りの夏。

 気だるい夏。

 クーラーの寒さが混じる夏。

 細かい砂粒のようにあっという間に指の間からこぼれおちた夏。

 夏の終わり。僕らはようやく一日の時間を作った。

 タイムリミットを横目でにらみ、電車にゆられる。

 窓を流れる木々の緑。

 ラを中心に久々のばか話。

 冷房の中で、季節をなくした僕たち。

 汗も浮かべず笑顔をならべている。

 丘陵を伝い走る電車は、やがて行く手に海を見すえた。

「クラゲがいるぞ。おい」

 Rが顔をしかめた。無理もないさと僕は言った。もう夏は終わろうとしている。

 その証拠に、水も冷たかった。川のせせらぎのひきしまるような冷たさじゃない。護岸のためのテトラポットのない、外海の水が海岸まで直接やってくるここの水は、まろやかなぬるさの中に気がつけば唇を紫色に染めてしまう裏切りの冷ややかさを持っている。

 イーヤが手を叩いて喜んだ。着替えてきたラはオレンジの蛍光色のビキニを着ていたからだ。

「胸がないからそんなにカッコいいもんでもないでしょ」ラはちょっと照れてそう言った。

「胸がないのは良く知ってる」Rと僕でハモって笑った。

 平日だったこともあって、人気はあまりなかった。遠い彼方から、近くの砂浜や岩場に打ち寄せてくる潮騒だけが、何かの鼓動のように響く中に、いくつかの家族連れの小さな子供のはしゃぐ声が時折遠く気だるく混ざった。

 どれぐらい泳ぎ、水をかけあって遊んだか。波に追い立てられるように僕は海から上がった。黒く湿った硬い波うちぎわをよろよろと歩き、真っ白な砂のところで大の字になって寝転んだ。背中から、砂は体を温めてくれはするけれど、もうこらえきれないほどに焼けてはいない。体で感じた。太陽は時折かげった。辺りが雲の厚みの分だけうっすら暗がると、体の芯の冷えが外側に向かってぶり返してくるようだった。

 隣にラが座ってきた。いつのまにか白のパーカーを着て、肩や腕や胸もとを隠している。

「疲れた?」

「ああ、疲れて、ちょっとだるい」

「わたしも」

 僕は波の音に聞き入った。日ざしで僅かにほてった頬に、ラの濡れた髪からの滴がいくつか落ちて流れた。眠気と疲れがゆっくりと僕を引きずり込もうとしていた。

「何泊かできればよかったね」

「どうして」

「だって、みんなとできるから」

 寝転んだままのどを震わせて笑った。「異常気象で大雪でもふって、学校の近辺が二日はマヒしてくれないとだめだろうね」明日は登校日で、そして校内模試だか校外の塾屋が主催して学校で受ける模試だか、とにかく何かのテストだ。勃起の都度にペニスの長さが微妙に変化するかどうか克明に記録するようにして、テストが繰り返される。

「ねえ、見て」

 ラがそっと僕の裸の胸をゆすった。僕は体を起こし、ラの導く方向に目をやった。

 海、そこにRが浮かんでいた。ひょろっとした図体を小さく頼りなげに見えるピンクの浮き輪にはめ込むようにして、波の行き来に身を委ねて浮かんでいた。離れていてその表情ははっきりとは見えなかったけれど、幸せ以外のものを感じることはできなかった。こちらを見ているかどうかすら分からないRに向かって、ラは微笑みながら手を振った。横になり僕は目を閉ざした。

 

※  ※  ※  ※

 

 海。

 イーヤと共に腰掛けて見つめるこの荒れる冬の海は、みんなで遊んだあの冷えた夏の海とつながっている。

 淡いクリーム色のグリーンがかって、湖面のように静まった海。

 カーペットがめくれるようにして高波をもたげ、腰が引ける大音響を轟かせるためにそれを下に叩き付ける、白い飛沫と、深すぎるコバルトブルーの冬の海。

 どちらも、海の顔だ。

 人間はかみさまじゃない。つくづくそう思う。ほんの僅かに見えるものを全てと思い込み、すぐ誤解して、すぐそれを真実と思い込んで、後は考えない。僕はかみさまじゃない。つくづく思い知らされる。時々の表情ただそれだけで、姿を規定してしまう。だから全ての表情を見て理解する事ができないし、全ての表情を無視してその根源的なものを見つける事もできない。そして、あの時は、たった一人の女を、僕一人でなく三人がかりで、ほんの一時だけ、慰め満たしてやる、ただそれだけしかできなかった。それもどこまでそれができたかどうか、まるで分からない。ラを理解する事も、包み込む事も、僕にはできなかった。やろうとして躊躇する事すらできなかった。やれたことと、やるべきであったこと、そしてやれなかったことを、終わってみて、ずいぶん時間がたって、はじめて知った。それだけじゃない。僕らはラを吸っていたんだ。僕らがラを吸い取っていたんだ。そうなんじゃないか? ラ。

 かみさまじゃない。それでごまかして諦めようとしているんじゃない。僕はその言葉を楔のように、大きなハンマーで杭を打つように、心の中に打ちつける。僕の中の邪魔な人間が悲鳴を上げる。僕はそれでも心を穿ち心を突き刺す……。目を閉ざす。人間なんて消えちまえ。俺の人間なんてなくなってしまえ。

 もう行こうか、イーヤはそう言ってベンチから立ち上がり、執拗に吸い殻を足でもみ消した。僕はうなずいた。倣って立ち上がり、向こうの海にちらっと目を向けると、後は見ないようにした。

 駐車場までの道、あまり意味もなく歩いた小道を元通りにたどって、ふらふらと歩き、その内に砂利を敷きつめただけのそこに着いた。「オヤジから借りてきた」オヤジくさいマジェスタに乗り込むと、イーヤはエンジンをかけ、それからウィンドウを開けて僕を見た。

「すぐに向こうに帰るんだ。何で帰ってきたかあれこれうるさく聞いてくるから、実家には長居しない」

「からだ壊すな」僕は手を伸ばした。イーヤは握り返した。「オマエも気をつけろ。オマエもな」

 Rによろしく伝えてくれ。波がまた一つ鳴った。イーヤは肯いた。

 ウィンドウがせり上がり終えてから、マニュアルに乗りなれたイーヤはオートマ車を乗りにくそうに発進させた。

 パールホワイトの車が消えると、僕もまた自分の車に向かった。小さいクーペだ。一度で何の問題もなくエンジンがかかる。この日もそうだった。中古で買ったけれどエンジンまわりはまったく快調で、そこに限れば一度も手をわずらわしたことはない。

 アクセルを踏み、クラッチをつないだが、別にこれと言って行くべき場所も僕には思い当たらなかった。両方の足を離した。ここから近い自宅の方に帰る気もしなかった。ラの事は、多分家族は感づいていない。饒舌に語りたいものでもなかったし、語ったところで理解してはもらえないだろう。

 大切な人の命日だった。

 どんな人?

 俺とイーヤとRのコイビト。

 笑ってしまった。これではよほどただれているか、頭がおかしいと思われるだけだろう。それに僕だって、例えば親父が実は五人いると打ち明けられれば、仰天するに決まっている。そういうものを打ち明けるのに家族は向いていない。万能じゃないから。

 その中に戻ろうとは、今は思えなかった。車を降りてもう一度ラのところに行こうかと思ったが、踏ん切りはつかなかった。ラのあの柔らかい躰は、もう冷たい墓石になってしまって、取りすがっても拒絶の冷ややかさを味わうだけなのは分かりきっていた。相変わらず僕は、分かりきっていると自分で思いこんでいることをやろうとしない人間だ。イーヤは言っていた。オマエは変わらないと。

 エンジンを切った。うなりは止まった。タコメーターはいっぺんにゼロに落ちた。シートを倒した。窓は白く曇って濁っていた。曖昧なカプセルの中に僕は包まれた。目を閉ざした。寒さが車のボディの鉄を凍てつかせ、そこからじわじわと忍び寄ってきて、横たわる僕を震えさせた。

 冬の波の音が聞こえていた。

 

※  ※  ※

 

 だんだんと、ラに会うのが辛くなってきていた。

 会えば、自分が今、どこに行こうとしているか、話さなければならなくなる。

 僕は親父から猛烈に県外の某大学を受験するように進められていた。大学なんて別にどこだって構わないと考えていた僕は、明確にそれに反対するしっかりとしたヴィジョンも理由もないままに、具体性のある親父のヴィジョンに屈服し続けていた。それに不愉快さはあった。生理的嫌悪のようなものだ。だけれども親父の主観は様々な数字と客観性ある意見に彩られたものだった。反論する余地はまるでないし、また与えてももらえなかった。そして、反発という不快さただそれだけで、数字も何も捨て去って行動する、そんな根性が僕には欠けていた。

 そこには、誰も行かない。Rも、イーヤも、もちろんラも。新しい場所での新しい人間関係、それを夢見ようと思っても、それほど喜ばしくも感じられない。感じさせる余裕も与えられない。テストと、スコアと、志望校のデータが洪水のように流れ、僕は情熱のないスコアを担任に懐疑的な目で見られながらも、大勢の中の一人としてほったらかしにされ、家では学校の冷淡さとは正反対の熱情に押され、二つから押しつぶされたサンドイッチになっていた。

 僕はもうじき今までの遊びの空間が全て、思い出以外では消え失せてしまう事を、熟知していた。それに抗って、ラの手を強引に引っ張って一緒に新しい場所に連れて行く、そんな覚悟も、本気の一歩を踏み出すべき根性も、ラがそこまで自分にとって大切なものであるという自覚も、僕にはなかった。タイムアップが来る事を良く分かっていながら、何もする事がなかった。じりじりとそれが失せていくのを見ていることしかしなかった。たまにラと会う時、親父にとっての既定の事実、僕にとっての主体性のない同意は、単にいくつかの候補の一つとしてだけラに教えられた。ラは少しだけ寂しそうな顔をして、僕が地元の大学の名前を挙げるまでの間、静かにじっとしていた。イーヤもRも、僕が見る限りでは似たようなものだった。曖昧に地元の大学をあげてはいるが、そこに何の魅力も感じていない事を、僕は何となく察していた。

 ラもその事を知っていたんじゃないだろうか。とにかく、あの時はラの無邪気そうな仮面そればかりが強調されているようで、それが痛々しく辛かった。

 それとも、僕らが地元に残る、それすらも、ラにとっては辛かったかもしれない。今となってはそう思いもする。ラの前の僕ら三人があの時のままであり続ける保障はどこにもない。それを間近で見る事は悲しいだろうし、一緒に歩くことなくたまに交錯して姿を確認しあうようではなおさらだろう。ラは好きこのんで高校を中退したように言っていたが、きっとそうではないだろう。学校というゲームから降りても、ゲームそれ自体から逃れてリアルに自由になれるわけじゃない。別のゲーム、もっと過酷で、もっと辛いものが待っている。どこまで駆けても結局僕らにはゲームしかないわけか。立ち止まってもゲームか。ゲーム。ゲーム。またその次の新しいゲーム。ラとのごっこが懐かしい。

 

※  ※  ※  ※

 

 真理とは同じ中学、同じ学区出身だったから、塾帰りの同じバスで乗り合わせているうちに、僕は真理がいて、真理が僕と同じ塾に通っている事に気付いた。向こうはもう少し前から僕と気付いていたんだそうだ。僕が自分の事に気付いた頃を見計らって、真理は声をかけてきた。小テストの結果がどうのという話題だったと思う。他人の成績なんてどうでもいいはずが、真理は口実をそれとは認めない真摯さで、僕の成績を聞き、自分のスコアと志望校を頼みもしないのに打ち明けた。

 真理とは中学が一緒で、取りたてて親しくもなかったけれど、まったく話をしないわけでもなかった。そのころはなんとなく真理の事が好きだったけれど、卒業したら奇麗に忘れていた。その真理が、少し大人びた顔を見せ、昔のほんのつまらない縁をしきりに強調して、塾で僕の隣に座ってくる。

 どうだっていい話題にはちっとも事欠かなかった。共通の知り合いは今どこで何をしてどこの大学を目指しているのかとか、中学の時のイヤミな教師は教頭とそりが合わなくて僻地に転勤したとか、そういうことだ。

 そのうちに、真理も親とすれ違い続け、成績に終われ続けて疲れている事を僕は知った。同じような気持ち、共通していると思った。みんなが似たような状況にいるんだって事、冷静になれば苦笑と共に分かりそうなものが、お互い妙に相手を憐れんで相手に同情し、相手を勇気づけして、それを恋愛の感情だと取り違え出した。僕はそれが、昔にちらっと過ぎった真理への気持ちが、見えないところでずっとくすぶり続けていたためだと思った。その気持ちが消えないで、蘇ったのだと思った。それは単に自分を鏡で映して、鏡の中の自分を哀憐する、ただそれだけのこと。僕は錯誤した。ラを単純に思い切ることなんてまるでできなかったけれど、遊びではない本当の存在がそこにあるように見えた。ラが寂しそうな顔をして言った、自分の手にする事の出来ない本物の恋愛感情、それを真理の中に見つけ、ちょっと手を伸ばせばそれと共にある事ができると思いはじめていた。欺瞞。くそっ。もう随分ラに会ってはいなかった。

 受験シーズンに突入し、すり減った僕と、やっぱりすり減った真理の距離は、無意味に近づいていった。焦燥、圧迫、逃げ場を封じ込められ、いくつかの偶然が重なって真理が口走った「前からずっと好きだった」という言葉、それを聞いて、もう歯止めがきかなくなった。僕は真理を抱いていた。

 

 

 宴の最後は、粉雪が舞い落ちてくる冬の終わりだった。いつものゲーセン、いつものメダルゲーム、この日は何故かRが勝った。アホみたいについていて、増えたメダルを浪費するために無謀な勝負に出て、またそれに勝つ。「もういいかげんにしたいところだよ」それでも勝った。僕らがRのメダルをわしづかみにしてずいぶん減らしてやったんだけど、Rは止まらなかった。スロットでメダル取り出し口をパイプが壊れた水道管のようにメダルで溢れさせ、ついに呆れて預けに行った。四人でくたくたになって笑った。二ヶ月以内にRがこの店をもう一度訪れる可能性はない。メダルは消える。元の場所に帰ると言った方が適切だろうか。戻ってきたRはラに、いつでも好きなときに引き出してくれと言ったけれど、ラは笑いながら首を振った。Rはそれ以上を強いなかった。

 その後、ゆっくりとバラけた。四人の時間は終わり、一人一人がラと話し始める。R、そしてイーヤ。僕はその姿の見えないところでさまよう。そして、Rの時間、イーヤの時間が終わった。最後が僕だった。

「外に出よう」

 ラはそう言って微笑んだ。駐車場に出た。それほど遅い時間でもなかったが、辺りはすっかり暗がってた。雲が冬場の貧弱な日差しを塞き止め、そのせめてもの償いのように小さな光の粒のような粉雪が冷たい空気の中を漂っていた。街は、いつのまにか薄っすらと雪化粧をして、儚い無垢の世界に変貌していた。

 ラは、ゆっくり笑いだして、おめでとうと言った。僕が、本命の大学には合格しなかったものの次善の地元大学にパスした事、そして真理という彼女ができた事だ。真理の事は、ラは名前も知らなかったんだろうけれど、僕の雰囲気の変化で見破ってしまったらしい。ねえカノジョできたねと迫られては、白状しないわけにはいかなかった。そばにRとイーヤはいなかった。どこかに行っていた。連中の時間はもう終わっていた。そして僕とラが二人で話す時間も、谷底に落ちそうになった者が血相を変えてつかまる一本のロープが、きしみをあげながらどんどん千切れそうになるのに似て、見る見る削られていた。

 ありがとうと答えたけれど、今までありがとうといった中で、一番不誠実なありがとうだった。進学のことも、希望に愚息が答えられなかった事で親父は不機嫌で、地元といっても距離があるため通学できず、一人暮らしに金と離別が要り、家の中はくすんでいたし、真理の事をラに歓迎されるのも複雑だった。真理のことが本当に好きなのか、まるで分かっていなかった。

 Rは無事に本命に合格して地元を離れ、イーヤは浪人が決定したものの首都圏の予備校に押し込められて、結局Rと同じ日に同じ新幹線で東京に向かうという。

見事に取り残されてしまった。馬鹿らしい事に真理もまた僕とはまったく別の、それも見当違いの遠い場所に行くのだ。いくらいくつかの合格通知といくつかのサクラチルのコンビネーションだからといって、よりにもよってという選択で、やむにやまれぬという真理は悲しみつつ、そのくせ全く精力的に新しい生活の準備を行っていた。

 忙しい一日、誘い出した真理は語った。どうやったらうまく遠距離恋愛を続けられるのか。結論は、精神論に帰結した。

「私は絶対に変わらないよ。好きっていう気持ちは、そう簡単に変わるわけがないでしょう。変わるとしたら、その気持ちが本物でないから変わるんだよね」

 僕は聞いてみた。本物の気持ちとニセモノの気持ち、どう違っているんだ、と。

「だから、自分に本当に好きな人がいる時でも、よその人に、目が向いちゃう時ってあるでしょ。そういうのがニセモノ」

「でも本当に好きな人っていう気持ちが本物かどうかなんて、だれも保障なんてしてくれないぜ。ニセモノとニセモノがぶつかり合っている時だってあるんじゃないか?」

 真理は怒り出した。僕は弁解し、なだめ、そのうち何もかも嫌になってずっと黙っていた。

「ねえ本当に私のこと好きなの。ねえ本当に好きなの。好きなんでしょ。好きだから抱いたんでしょ。好きなんだよね。どうしてその好きっていう気持ちを信じれないの。どうして疑うの。気持ちはね壊れないの。だから疑っちゃだめなの……」

 つい数日前の光景を思い出し、深々と溜息をついた僕を見て、淡すぎる笑顔を浮かべたラが「どうしたの?」と聞いた。

「……カノジョのこと?」

 僕はラの顔を見つめた。悪戯っぽく微笑んだ顔があった。

「お別れするのが寂しいんでしょ」

 粉雪をてのひらに乗せてみて、ラは歌うように言った。僕はぎこちなく両手を空に向かってあげた。粉雪はラの赤いコートをゆっくり白く彩りながら、僕の掌ではたちまち融け姿を消す。またね、今度はカノジョも連れてきてね、そう言ってラは背中を向けた。

 ゆっくりと降ろされた僕の手のひらからは、水滴がぽつん、ぽつんと落ちていた。待てよ、僕は叫んだ。ラはこっちを向かなかった。先走った春が消し去ってしまった雪、でもほんの僅か、あの瞬間だけ蘇った雪、地面を薄っすらと白く覆うその雪に、ラは足跡を刻みながら、僕に背を向けゆっくりと歩いていった。

 手をのばせ、心の中で僕は怒鳴った。奇麗にそろったその足跡を黒く踏み乱しながら慌てて追いかけ、ラの手を握った。

 ラが、振り向いた。

「……本当のココロの方を、大切にしないと、ダメじゃない」

 笑っていた。微笑んでいた。僕は手を離して、肩を抱き、すがるようにラにキスをした。ラは、むせ返る時に背を撫でてくれるかのように、僕の背中に手を置いた。

「サヨナラするコイビトの、ごっこ。また遊ぼうね」

 僕との距離を取り戻したラの唇は、ほころびながらその言葉を伝えた。そして、もう一度向けられたラの背中、もう手を伸ばすことができなくなったその姿がゆっくりと薄闇と粉雪の中に消えた時、それが最後だった。それからもう二度とラには会えなかった。

 

 

 真理は大学に行ってから二通の手紙を僕によこした。最後の一通は――僕が大学の仲間の前でびりきったやつだ――寂しい、あの時の思い出が頭に蘇ってくる、もう一度やり直せないかなって書いてあった。一通目は新歓コンパの時期に早々にやってきた。好きな人ができてあなたに対する気持ちはごまかしである事に気付いた、あなたの愛情を考えると辛いけれども忘れて欲しい、わたしより可愛いカノジョをみつけてというもので、これももう灰になってこの世にはない。

 

 ラの事を知ったのは、真理の手紙の一通目が届きと二通目がやってくるまでの間だ。

「フリーターの女性、自殺」という記事は、確かに新聞には掲載されはしたが、扱いはものすごく小さく、そして僕らはラの本名をまるで知らなかった。あっさりと見過ごすには十分すぎるぐらいだった。

 僕は、時々アパートを離れ、実家のある街にこっそり戻って、ラの姿を探していた。真理と切れたせいもあるし、例えつながったままでも探したはずだ。雪の日のまたね以来、あのゲーセンにラはちっとも姿を見せなかったし、思い切ってラの自宅まで行ってみると、ラとまるで似てもいないブルドックのようなオヤジが出てきて、娘は今ここにはおらんと吠えかかってくるように言った。どちらにいるか教えてもらえませんか? せめて電話番号ぐらい。ラのケータイの番号はとうにつながらなくなっていた。

「知らん。こっちが聞きたいぐらいだ。男と駆け落ちするのに親に住所を知らせるバカはおらんだろうし、あいつも愚かだがバカではなかったということだ。さあ、身内の恥を喋らせるのもこれぐらいにしてもらおうか。帰ってくれ」

 軽いめまいを感じながら、僕はラの家を去った。ラが死ぬ少し前の事だったと思う。このオヤジを敬遠して、何となくラの家に近寄り難くなってしまったが、それでも小さな偶然を逃さないように、機会があればそのゲーセンに足を運び、ラの笑顔を探した。僕がこのオヤジに気後れしていなければ、あるいはもっとラの死について早く知る事ができただろう。でも、考えてみれば、それもあまり意味はないんだ。ラをもう手の中から逃していたことに変わりはない。その時点ですら全ては手後れで、結局僕は自分の無力さに同じだけ傷ついただろう。

 アパートに妙な手紙が舞い込んできたのは、ちょうどラと別れてから一年たったころだ。この年は暖冬で、早々に雪は消えて埃っぽい青空があった。

 手紙は、淡いブルーの封筒の、同じ色の便箋だった。封筒を裏返すと、見た事もない聞きもしない知らない女の名前が書いてあり、住所は省かれている。開けてみると数年前の丸文字を改心したようなおそらく女の筆跡、それが丁寧に書きならべてあった。

 内容はこうだった。

 

 

  神谷美沙子といいます

  突然こんな手紙を差し出して驚いているでしょう

  私は森由紀子の友人で彼女が学校を中退するまでのクラスメートでした

  由紀子とはあなたがたがラと呼んでいた女の子の事です

  彼女に頼まれ わたしが彼女に代わってペンをとっています

  実は 由紀子は 死んだのです

  それも突然 自分で自分の命を絶ったそうです

  もう半年も前の事です

  あなたがたは驚くと共に きっと私の事を腹立たしく思うでしょう

  どうして早く知らせてくれなかったのかと

  

  半年の時間を隔てる事は彼女の遺志でした

  葬儀や何やらあわただしいものが全て落ち着いて

  全部が元どおりの静けさを取り戻した時

  これから教える名前の人のところに

  私が死んだ事を伝えて欲しい……

  彼女が死の直前に私に宛てた手紙にはそう書いてありました

  もちろん 私宛てに手紙を書いた時には 彼女は生きていたのですし

  半年前 彼女からの手紙を受け取ると 驚きつつも

  私はあなたがたが想像する通りの事をやりました

  でも 私のあがきも遅すぎたのです 彼女に届きませんでした

  葬儀の日 私はあなたがたに連絡を取るか 散々に悩みました

  でも 悩みながらも 薄化粧をして奇麗な姿のままに目を閉ざしていた由紀子の死顔を見て

  彼女の遺志をそのまま受け入れようと

  私は決断したのです

  それを望んだのは彼女ですが 判断したのは私です

  あなたがたの憤慨を受ける責任は私にもあります

  ごめんなさい

  でもせめて由紀子を許してやってください

 

  彼女とあなたがたの関係は 全体に重苦しい彼女からの手紙の中にあって

  とても生き生きと 踊るように書かれてありました 

  彼女はこう書いています

  「あの時が 生まれてから今までで一番楽しかった」

  きっとあなたがたにも 由紀子との いえラとの思い出は 彼女と

  同じぐらいに楽しかったものだったと思います

  そのあなたがたにこのような事を告げるのは本当に心苦しいのですが

  誤解を招かないためにも真実をはっきりとさせておかねばなりません

  彼女はある男性と同棲していました

  きっかけは何なのかその機微は分かりません

  どのような感情があったのかそれもはっきりとはしません

  ただ 自分の人生に絶望していた自分が その男性に絶望することによって蘇り

  悩んだ末 決意して 命を絶つ

  そう手紙に書いてから そして それを実行したのでした

  男の人も 死ぬほどに辛かったのでしょう 姿を消したと聞きました

  後のことは良く分かりません

 

  彼女はあなたがたに感謝しています

  自分が死を選ぶのは自分の弱さのせいで

  それを今まで思いとどまらせてきたのはあなたがたであった事

  それをあなたがたに感謝しています

  彼女はそれだけにあなたがたが誤解する事を恐れ またあなたがたの自責を恐れてもいました

  私の言葉ではなお彼女の真剣な思いを伝えきれないかもしれません

  でも 疑わないで下さい 彼女はあなたがたに深く感謝していたのです……

 

 それから手紙はいくつかの儀礼的な言葉を連ね、神谷美沙子の行き届いた配慮で彼女の家の墓の地図までもがその後に加えられていた。僕は慌てながら電話でイーヤに連絡を取り、やつの住処にも同じ差出人からの手紙が届いている事を確認させ、読めと怒鳴ってから電話を切り、恐ろしい徒労感を味わいながら同じ内容の電話をRにもかけた。Rは既に知っていた。ちょうどその時読み終えたところだったのだという。それだけを聞いて、ろくに話しもしないで、電話を切り、コートのポケットの中に財布を入れていなかったことも忘れ、それだけを引っつかんで車に飛び乗り、狂ったようなスピードでラの家に行き、気もとめなかった森という表札が確かに存在する事に気を遠くしながら、ぶしつけを承知で仏壇に挨拶する事を家人に頼み込んだ。あのブルドックオヤジはおらず、応対に出たラの母親ほどの年頃の人は、突然の血相を変えた訪問者である僕に疑いも見せず、奥に通してくれた。後で聞くとこの人はラの親戚だそうで、父一人娘一人で暮らしていたこの家の、娘が去り死にそれがショックで父親は倒れ、空き家になってしまった不用心さを危ぶんで、留守番役をやっているということだった。だが、そんな事はどうだってよかった。遺影を見せつけられて僕は愕然とし、徹底的に打ちのめされ、もう動かしようのない事実が目の前に横たわっている事を心底思い知らされた。

 親戚の人は、その人にとってほとんど唯一の、森由紀子と自分との小さい頃の思い出や、その他に伝え知っているいくつかの小さな頃のエピソードを話してくれ、僕はそれに肯いてはいたが、由紀子ちゃんと呼ばれるラに違和感を感じ続け、遺影の顔ただそれだけのためにひたすらに震え涙ぐむ自分を、それでも押さえようとうつむいていた。

 翌日には、どす黒い顔をしたRとイーヤが東京から飛んできた。二人をラの家に行かせて遺影に対面させ、僕は連日の訪問を遠慮して車の中でじっと長い時間を震えながら待ち続けていた。やがて何度もラの親戚の人に頭を下げて、イーヤとRが出てきた。イーヤは目を真っ赤に腫らし、Rは声に出さず泣き崩れていた。僕の運転する小さな車に乗って三人一緒に墓地に向かった。昨日、たった一人で行くのは怖くて仕方なかった墓地だ。

 三人がかりで対面した墓石は、冷酷でありすぎた。

 僕らは、まともな口が聞けるほどに落ち着いてから、三月のその日をラの命日にすることを相談して決めた。森由紀子が死んだのは九月だったが、僕らが最後にラを見て、そして僕らが彼女が死んだ事を知った三月は、森由紀子のものではなくラのものだと思ったからだ。それが非礼であるかどうか、常識のない僕らには分からない。でも世の中にどんな常識があろうと、僕ら三人の中ではどうだってよかったし、このことに関して他人の良識を中に入り込ませる気はまるでなかった。今でもそれは変わらない。あるいはその傲慢さは、森由紀子の遺族の方にとっては許し難いかもしれないけれど、僕たちはそれに対して頭を下げて許しを請い続けるしかない。僕らが手から離さないようにしている決意、ほとんどこれしかないというわがまま、どうか目をつぶってもらいたい。

 時はそれから何年かを容易に流し去ってしまった。

 今というものもまた同様に、怖いぐらいにあっという間に、後に追いやってしまうだろう。

 その時間の流れの中で、僕たちは、一瞬の何かをそれと知らぬままに見つけ、変化を見せ付けられてから、あの一瞬が全てであったことを思い知らされた。全てがゲームの中で、僕らはあの遊びの中だけ、リアルに生きていたんだ。ラと一緒に。

 それが真実、それが世の中なのだ、などと、したり顔で肯いて納得できる大人じゃない。そんなクソッタレになんてなりたくない。

 いっそのこと……。でもこれから先に僕らに再びリアルは訪れるのだろうか? 光り輝く暖かさの再現はありえなくとも、埋み火の温みぐらいの安堵はやってくるのだろうか? 一縷の望みも、死も、あまりに漠然としている中にあって、僕はそれでも生きることにしがみついている。

 車の中で僕は凍えた。そう、体は震え、鳥肌立ち、僕の心が執着するよりも格段に、生きようとしている。もうそれでもいいんじゃないか。僕の形をした僕の心の穴が、歩いている内に僕の形にめぐりあって塞がってしまうかどうかは分からないけど、でももうそれでもいいんじゃないか。そっぽを向いて歩き続けるのもきっとそれほど悪くもない。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 神谷美沙子は、カレンダーを見て溜息をついた。

 森由紀子のラとしての命日が三月にあることを彼女は知らない。知らないが、自分が書き、投函した三月のあの手紙、それが見知らぬ三人の男にどのような影響を与えたかを考えると、何年経っても虚心ではいられないのだ。

 自分のまぶした、ささやかな嘘と、決して口外しなかったラの手紙の文句、それに口を箝して、彼女は三人の男の前に姿を見せず息を殺している。

 ラの手紙は、もはや生きている人間に見せるものではない、そう考えて、神谷美沙子はそれを処分してしまっていた。誰かに話す気もない。そういう自分であればこそ、さほどに付き合いの深かったというわけでもない自分に、森由紀子は遺志を託したのだろうと思う。

 近親相姦、神谷美沙子は一人ぼっちの部屋の中でただ一度こらえきれぬようにその言葉をつぶやき、あわてて誰もいない辺りを見回し、それから、彼女と共にあった三人の男にその忌まわしい言葉が露呈しないことを心から願った。

 自分のそれは押し付けがましいものなのか。彼らが欺瞞よりも真実を求めたならば、それでも自分は彼らのためを思って欺瞞の側に立つべきなのか。そもそも自分は彼らの心を管制することができるような偉い人間なのか。

 神谷美沙子は首を振った。きっと、これすらも真実ではない。真実である必要はないのだ。見てきたような嘘の中でばかり生きているような自分たちの中で時折見え隠れする、宝石のように希有な真実、それにこんなものが当てはまる必要はない。

 

 

 

 

 

 <20003月末執筆  20015月一部修正>