WITHIN
君たちは言う「暗い」と。そしてまさしく、ぼくが君たちに対して、太陽の前に雲を置いてやったのだ。しかし、雲の緑辺がすでに燃え、明るみ始めているのを、君たちは見ないか。
Friedrich Nietzsche
明かりを消した部屋の中は不自然に生暖かい空気が闇と一緒になって充満していた。
ファンヒーターのグリーンのランプ。抑揚のない作動音。
分厚いカーテンの向こうの窓ガラスは結露で濡れているのだろう。その窓の外の、時折の風の音の重みと厳しさだけが、ありのままの冬。
僕は朋と素肌を重ねていた。落ち着かない、居心地の悪い生暖かさだった。蕩けるような悦楽の中で、後味の悪い、口にできない言葉を飲み込み、僕は疲労の向こうの虚無を感じとっていた。
徒労にコーティングされた愉悦と、目を閉ざしたい胸の苦しさの溜め息。朋の顔にかかる。朋が目を開ける。僕の顔から視線を背け、何もない虚空を見つめる。
時折の食事。
時折の盛り上がりもしない会話。
本当に快楽を共有しているのかすらまったく分からないてんでばらばらのセックス。
やがて僕らは、どちらが先というわけでもなく、まるで子供が遊び飽きた玩具を放り投げるようにお互いの躰を離した。
不毛だな、いつもこの時そう思った。朋の心は、僕にはない。
朋と出会ったのは、いくつかの失笑すべき偶然が重なっただけ。ぱっとしないバーのカウンターで痛飲していた時だ。今の僕は、かつてのその姿を冷笑するのだけれど、あの時、失恋し、その痛手を紛らわすには酒しかなかった。自分一人が飲むのでは追いつかなかった。泥酔する自分を見下し哀れむ赤の他人を求めていた。だからやみくもにそのバーを選んだ。
そこに朋が来たというだけだ。
飲んでいたのはウィスキーだった。水割りではなく、ストレートを、舌の上に乗せるのではなく喉奥にぶつける、そういうピッチで。焼け付いた感触が喉から食道、胃へと降りていって、胃の中で燃焼していた。後にはごく不自然で奇怪な濁りが取り残され、それを誤魔化すために僕はまた別の一口に喉を鳴らした。
そんな僕の隣の席に、いつのまにか朋がいた。どうでもいいことだった。僕が朋に声をかけたのかもしれない。朋が僕を見かねて隣に座ったのかもしれない。
一緒に飲んで、寝ていた。そこまでの間に、朋は僕の失恋の話をうんざりするほど聞かされたんだろうか? まるで編集された映画のフィルムのようにその部分が欠落している。
夜明け近くに二日酔いの不愉快さに引きずられ目覚めると、隣に朋がいて、薄闇の向こうで目を開け僕を見つめていた。こういう失策は初めてだったから、僕はひどくうろたえた。その気配を察したのかどうか、朋は言った。「わたし、不倫してるんだ」
それが救いなのかどうか、僕には良くわからなかった。
朋とはそれ以来だった。寂しくなると電話した。向こうからかかってくることもあった。不毛なセックスがあって、目覚めると大抵朋は消えていた。もうこれで終わりなんだな、抜け殻の寝床にそう思い、またもうこれで終わりにしよう、抜け殻の寝床にそう思ったが、ぽつん、ぽつんと朋から電話があり、また僕も朋を呼び、浅い後悔に似たものを感じながらも寝た。
便利なのよ、寂しい時に簡単に会えるから。朋は言った。表情は読み取れなかった。僕もそういうことにしておいた。僕もそう思うと言った時、鈍磨した苦さと痛さを感じなくもなかったが、僕はそういうことにしておいた。
朋とのセックスが、ただ純粋に快楽だけであったならばどんなにいいことか、そう思ったけれど、僕はそういうことにしておいた。
朋との関係は、まるでループだった。
どこにも進まない。
どこにも帰結しない。
それを朋が拒絶する。
それを僕も拒絶しているのかもしれない。
わからない。
だらしがないのだろう。多分。
夢を見る。
そこにはもやもやとした木漏れ日のような、輪郭のはっきりとしないやわらかい光のかたまりが投影される。
佑子だ、そう思うとそれは佑子となった。冷静に見つめ、疑うことをやめていた。ショートの髪、大きな瞳、いつも朗らかに笑みを浮かべている口元、佑子の顔が当たり前のようにそこにあった。それが夢の中だった。
目覚めると不愉快になった。どうして今更佑子の事なんか思い出すのだろう。自分を嘲笑した。やがて、その夢を見る時、明け方に近くなって僕が夢の中の僕と意識を持った醒めた僕とを共存させる頃、僕はそれが夢だという自覚を持ちつつ、その夢の光景を眺めるようになった。これは夢だ、さっさと目覚めてしまえ、そう思いながらも、一分一秒でも長くこの夢の中に在りたいという自分の気持ちも同時に存在し、そちらの方を無視することはいつもできなかった。
目覚めて、自分の心にある種の温い幸福感のようなものが漂っていることを感じて、僕は自分を嫌悪した。それでも佑子の夢は見た。佑子の夢を見ていると、不思議と朋のことはきれいさっぱり頭の中から消えていた。そもそも、僕の夢の中に朋はほとんど登場しなかった。夢の中にまで朋に思い煩う事がなく、またその必要もないということなんだろうか? 要するに、僕自身も心の底で朋のことなんてどうでもいいと思っている、その証拠なのかもしれなかった。
そう思うと、心がある程度楽になった。朋の心は僕にない。そして僕の心もまたよその方に向いている。お互い、都合のいい時だけ会っている。
それで、いいじゃないか。冷酷だとかなんとか、言われたって、僕もそうだし朋もそうなのだから。
朋の不倫相手のことは漠然と知っていた。
皆川弘雄というのだ。
別に、興信所に泣き付いて朋の調査をしてもらったわけじゃない。ある時僕の部屋に朋がバッグを忘れていって、その中に入っていたポーチに、皆川弘雄の名刺がぽつんと一枚入っていた。それだけだ。学生で、それも就職活動にはまだ縁遠い朋(僕もそうだが)にとって、その名刺はひどく違和感を感じさせるもので、僕はああそうかと理解した。
これは、朋が僕に見せるために、わざと忘れ、わざと入れておいたものなのだろう。そう言えば、名刺を見つけるきっかけになったのは、バッグの中のケータイが鳴り響いたからだった。朋がバッグを忘れたことに気付き電話をかけてきたのかもしれないとその時は思って、バッグの中を探し、ようやくポーチの中に入っていたケータイを取り出したのだけれど、僕が何かを言い出す前にそれはぷつんと途切れた。そして僕はそれを元の場所にしまう時に、名刺を見つけてしまった。途切れた電話も、朋からだったのかもしれない。
ああ、別れようって事なんだな。その時はそう思った。でも、そのうちいつものように電話がかかってきて、僕と朋はいつものように会い、いつものように寝た。名刺を見つけたとは僕はひとことも言わず、名刺を見たでしょうと朋はひとことも聞いてこなかった。
皆川弘雄の自宅には、セールスを装って何度か電話をかけた。名刺は偽者ではなく、皆川弘雄という人間は確実に存在し、彼を夫と呼び父と慕う家族がいることも分かった。
ねえ、僕に裸の背を向け横になっていた朋が、不意に話し出した。
「サケってさ、いいと思わない?」
「……なんだよ、そりゃあ」
「セックスすると、その場で、たくさん子供を残して死んじゃうの。後は何にも知らない、全部ほったらかしで」
僕は何も答えなかった。朋はおかしそうに笑った。ひどく白々しい、違和感ばかりの笑い声だった。
佑子の時は、悶え苦しんだ覚えがある。
それまで佑子は僕の中で、完全な調和を保った愛情の対象だった。僕は佑子が好きだったし、佑子もまた僕が好きだという自信を持っていた。佑子の笑顔が、吐息が、髪の毛の匂いが、唇の感触が、僕の自信を疑いなく支えていた。
もちろん、四六時中佑子のことをいとおしく思っていたわけでもない。例えば待ち合わせの時間にまともにやって来たことのない佑子の悪癖、待たされている時は恋も愛もへったくれもなく僕は不機嫌だった。が、それは単なる振幅で、すぐにもとに戻ることを僕は信じていた。
完全な調和は、佑子の切り出した突然の別れ話で崩された。喫茶店に呼び出され、注文したコーヒーにまだ口をつけてもいない時だ。佑子は、悠然とコーヒーを口に運んだ後で、カップを持ったまま、もう一度、別れましょうと言った。
何度言われても僕は佑子を理解できなかった。まるで予期していないことだった。もちろん、生涯添い遂げるとか、そういう気の長いことを僕は考えていたわけではないけれど、佑子と別れることなんて夢想もしていなかった。
目を閉じれば、微笑む佑子の像が完璧に僕の心の中に在る。
見開けば、その佑子が、好きな人ができた、別れましょうと言っている。
好きな人、好きな人だって?
ひどく混乱したことだけ覚えている。佑子に向かって何を口走ったかは、良く覚えていない。混乱して叫んだことは、罵倒か、哀願か。
その日が終わってからも、僕は佑子に何度も電話をかけた。そのうち佑子は僕に対する申し訳なさや憐憫を越えて、僕に舌打ちし、僕を嫌悪し、僕を完全に忌避するようになったようだった。僕はようやく、自分がもはや佑子の恋愛を妨げる邪魔物としか見られていないことを悟った。それでも、何とかしてもう一度だけ会いたい、そう思って電話をかけたが、思いは佑子に伝わらなかった。佑子は僕を最後にストーカーと呼んだ。僕は電話を切り、うめきながら一つ息を呑んだ。
その後は酒しかなかった。学校にもいかず、仲間とも会わず、酒を前にして、自分の中に築き上げられた佑子との恋愛物語の陳腐さを大いに笑い、それがいかに脆いかを侮蔑した。人を好きになるなんてくだらないと心底思った。セックスしたいがためのエクスキューズに過ぎないと思った。そんなものに惑わされている自分は相当まぬけに違いないと思った。間抜けの僕に、僕は酒をそそいだ。
あらゆる恋愛物語の陳腐さを笑った。
美しく装飾された偽りに憤った。
佑子が今別の男と寝ている姿を想像し、笑い、苦しんだ。
陶酔から、僕は抜け出したつもりになり、シニカルに醒めて、あらゆる馬鹿な男とあらゆる馬鹿な女を笑った。
僕は自分の中のマヤカシを叩き壊すことによって、その束縛から自由になろうとした。何の根拠も存在しなかった恋愛の物語を、台座ごと自ら破壊しようとした。
朋と出会った。不毛を目論んだ不毛な付き合いがはじまって、一歩も前進しない今がある。
朋に感じる愛おしさのようなものは、マボロシだと思い続けている。最初からその気持ちはニセモノだと思っていれば楽だ。それは僕が自分の心にかけた保険のようなものだ。常の擦過傷のような寂しさを我慢するだけで、裏切られたとか裏切ったとか、そういう事を思わずにすむ。
それでも朋への愛おしさが湧きあがってくる。
朋もそれに気付いていたんだろう。
だから皆川弘雄の名刺は、多分僕への警告だった。深入りするな、わたしの心はここにはないことを忘れるな、そういうことを。
朋に溺れるのは、だから馬鹿らしかった。まるで演歌だ。つれないあなたにすがり付き、行ってはいやだと泣きわめく、そういう世界とまったく同じだと思って、馬鹿らしかった。佑子との恋愛のエンドレスじゃないか。
そう、僕はもう二度と惑わされない。もう二度とありもしないものにふりまわされたりしない。
心をなくしてしまえばいい。ただ快楽を、朋から抽出するだけでいい。朋もそれを望んでいる。
そのくせ、佑子の夢を見た。目覚めてひどく心が癒されていること、僕は認めざるを得ないようになった。朋の夢は見なかった。
朋の誕生日は知っていた。どういうきっかけだったか? 朋が学校で友達の誰かに話しているのを聞いたからだっただろうか? キャンパスという奇怪な空間の中で、朋はさほどに目立たない、ごく平凡な学生だった。おかげで僕は、学部は違えど朋と同じ大学で同じ年次であることを、朋と寝た後で知ったわけだった。
必然的にキャンパスのどこかで会えば二言三言話ぐらいはしたけれど、それは顔見知りといっていい程度のそっけない挨拶だった。朋のさして多くもない友達は、だから僕の事を朋の男とも何とも思っていなかったのだろう。そもそも、朋の周囲の人間で朋が不倫をしていることに気付いている者からしていなかった。
とにかく、そういう淡すぎるつながりの中から、僕は朋の誕生日を耳にした。聞いた日付の記憶は鮮明ではないが、朋の誕生日から数日と離れていない頃だったと思う。(だからこそ話題になったのかもしれない)
その頃僕は妙だった。ついふらりと、朋へプレゼントを買った。何のことはない。安物のピアスだ。
朋の誕生日に渡そうと思った。電話をかけた。四度目までが留守電で、五度目にようやく朋が出た。プレゼントや誕生日のことは言わず、ただ会えないかとだけ切り出した。冷たくはねつけるというわけでもなく、だからといって未練がましさなど微塵も感じさせず、朋は淡々とそれを断った。
ああ、そうか。僕は納得し、電話を切った。会えるわけがないじゃないか。大切な日に本命をほったらかして当て馬と会うまぬけがどこの世界にいるっていうんだ。馬鹿だ。つくづく馬鹿だ。
連休の中日だったその日、僕は実家に帰省して、チャチなピアスを姉貴にやった。姉貴は怪訝そうな顔付きをしていたが、黙ってそれを受け取ってくれた。
その日、ケータイに電話があった。朋からだった。
「これから、……会えない?」
随分悲しそうな声のトーンだったが、僕は今更そんな電話をかけてきた朋に腹立たしさを感じるだけで、朋の気持ちを理解してやる余裕がまるでなかった。僕は、今実家にいるんだとだけ、そっけなく答えた。……そう、そのひとことだけをつぶやいてから、朋は電話を切った。
アパートに戻って、学校やら何やらで数日が過ぎた後、またいつものように倦怠の中朋が電話をかけてきて、僕もまたやるせない孤独を感じて電話をかける。
夜中、暗闇の向こう、朋のすすり泣く声が聞こえて僕は目覚めた。こちらに背中を向け、心持ち体を丸めて、胎児のような格好でかすかに鳴き声を漏らす。朋……、僕はむき出しの肩に手をかけた。
「触らないで」
朋はそう言った。慌てて僕は手を離した。重苦しい沈黙が、重苦しい闇の中に満ちた。やがて、闇の向こう側から、ゴメンとだけつぶやく朋のかすれ声が聞こえた。
「人のココロって不便だね。狂いたくもないのに狂ってしまったと思えば、いくら狂え狂えって念じても狂わないんだから」
「今、記憶喪失か何かでなにもかも分からなくなったら、きっとわたし、シアワセだろうな」
「一番ステキな死に方ってなんだと思う? わたしはね、心中だと思うな」
「そうかみさまが全部悪いんだよ。セックスしなきゃ子供が産まれないなんて。きっとかみさまは、人間のことなんてこれっぽっちも信頼していなかったんだね」
朋と一緒にいるのが、会えば会うだけ苦しくなる。その分だけ、佑子の夢を見る。佑子の夢は不思議だった。真昼、冷静な時、今の佑子には別の男が寄り添っていることを僕ははっきりと理解しているというのに、夢の中でその現実はぼやける。夢の中の佑子はたえず微笑みかけてくれる。僕に愛情を示してくれる。僕を支えてくれる。現実の佑子は、僕の心の中ではものの見事に削り落とされている。はじめはそれを逃避だと思ったが、僕はだんだん夢の中でそうやって遊ぶ楽しさを覚えた。夢の中の佑子は裏切らない。絶対に裏切らない。思うままに動いてくれる。予期しないことを口走らない。
豊かな草原を、僕は心の中に持って、慎重に外から鍵をかける。
朋は上機嫌だった。安物の白ワインをビールのようなピッチで飲み続けた。
「何かいいことでもあったの?」
「まあ、ね」
そう、僕を取り残し、会話はそこまで。それ以上のことを告げることも、告げられることもない。嫌われているというよりも、信用されていないということよりも、朋は自分の心を誰かにさらけ出すような真似を好まない。それだけだ。そして朋のそういう性格は、僕にも似た部分があるから良く理解できた。
「いいことがあって酒を飲むのはいいんだ」
そう言うと朋は笑い出した。きっと、僕のあのときの泥酔ぶりを思い出したんだろう。
僕たちは飲んだ。特に僕は朋に見せ付けるようにして飲んだ。ぐてんぐてんに酔っ払って、セックスする必要をなくすまで。
氷雨の頃だった。不意に朋が僕の部屋にやって来た。手が真っ赤に腫れ上がり、耳たぶが切り取られるような痛みを感じる寒さの中、氷雨に濡れ、僕のアパートにやって来た。電話をしないで来るのは、ひょっとしたらこれがはじめてだったかもしれない。別に電話することが僕らにとっての明確なルールというわけでもなかったのだけれど、意外であり、異例であることに変わりはなかった。
僕は少しばかりの戸惑いを顔にのせたが、見てみると、戸惑っているのは僕ばかりではなく朋もそのようだった。うつむき、髪の先から雫を滴らせ、ごめんなさいとつぶやいていた。
僕は答える代わりに一度部屋の奥に引っ込んでタオルをつかみ引き返して、足の踏み場もろくにないような玄関に立ち尽くす朋に差し出した。朋のショートボブの髪は海藻のように濡れそぼり、頬や唇からは赤みがすっかり失せていた。朋が受け取ろうとしないので、僕は朋の頭を覆うようにしてタオルをかぶせ、二三度、ぐしゃぐしゃとその髪の毛を拭いた。痛い、小さくそう言うと、朋はやがて緩慢に、自分で自分の髪の毛を拭きはじめた。
「上がれよ」
「……すぐ帰るから。今日は」
「上がれよ」
僕の声は不機嫌そのもののようなトーンだった。朋は一つ溜め息を吐くと、のろのろとブーツを脱ぎはじめた。
朋はストーブの前にちょこんと座った。それを見てから僕は小さなキッチンでほんのわずかお湯を沸かし、紅茶を入れ、少し砂糖を多め、ワイルドターキーを混ぜた。湯気と一緒に、蒸留酒独特の芳香が漂った。朋に出した。こくんとうなずいて朋は口をつけた。
「あたたかい」
うっとりするように、朋はそう言った。
「ごめん、……これ飲んだら、帰るね」
僕は軽い溜め息を漏らすと、何度か頷いた。
「少し、それ、飲んでろよ」
「どこか行くの?」
「車を出す。室内を暖めておく。送るよ」
「ありがとう、優しいんだね」
ありがとう、優しいんだね、か。
僕は駐車場から車を路上に出し、アイドリングさせながら、運転席で朋がいった言葉を反芻していた。
そう言われることには、言い様のない痛みを感じもする。同じ事を佑子にも言われたことがあるからだ。
優しいね、ありがとう。
それは僕が他人にリスペクトしてもらえる、僕の存在意義のようなものかもしれないとその時は思った。だから、もっと人に優しくして、もっと人からそのように思われたかった。ささやかな、つまらない、でもそれは僕にとっては大事な支えだった。
だが、佑子との後味の悪い別離において、僕の優しさはしつこさ、未練がましさ、くどさ、そういうものになってしまった。そういうものだと佑子に見なされたようだった。僕をストーカーと呼んだ最後のひとこと、まるでカードが裏返り、ジョーカーが舌を出しているようなものだった。僕は自分を支える柱の一つを斧で切断された心地がした。自分というものを信頼することができず、自分というものにうんざりした。優しさが恐くなった。自分の思うままに振る舞うことが恐い。
今、朋が同じ事を言う。恐い。
僕は、何を怖がっているんだろう?
朋とは、長続きしない、不毛、分かりきっているじゃないか。
いいか? 朋の心は僕にはないんだ。
皆川弘雄って、妻子持ちのオヤジのところにしかないんだ。
僕は朋の寂しさを都合よく埋めるパテ。
朋もまた、僕の寂しさを紛らわす何か。
だから、お互い必要がなくなったら、当然のように別れる。
雑踏の中、西と東、背を向けて歩く。そうなればもう二度と出会わない。
分かりきっているんだ。僕は。
だから脅える必要なんてどこにもない。それは必然の果てに必然として待ち受けている僕と朋の未来図なのだから。
ケータイは三日も鳴らなかった。僕は寂しさに押しつぶされそうになる。
朋に電話をかけた。出なかった。
卒業アルバムを取り出して佑子の顔を見た。
記憶の中の佑子の顔と、どことなく違っていた。
同じ高校を卒業して三年、別れて二年、面立ちはもっと変わっただろう。
記憶の中の光景と僕自身は、時間の中でずっと静止したまま。きっと、アルバムの中の押し花のようなものだ。干からびて。
僕は干からびたんじゃない。
利口になったんだ。
朋に電話をかけた。めずらしく電話に出た。声が軽率なほどに元気を強調していた。いつもより随分早口で、多弁で、まるで黙ってしまうのを恐れているようだった。
「何か、あったのか?」
僕は聞いた。沈黙が訪れた。何かを言い出す前に、朋は電話を切った。
もう一度かけ直すと留守電だった。
別に悲しくはない。
別に何ともない。
部屋のドアを開けると朋がいた。
切羽詰まった顔をしていた。
寒い風が朋がさえぎる入り口の隙間から滑り込んできた。マフラーをしていない朋のむき出しの首が、見るのが痛々しいほど華奢だった。
「頼みがあるの。何も言わず、一日、ううん夜までの数時間、あなたの身体を貸して」
わけも分からないままに僕は機械的にうなずいた。気が付けば朋に身支度を急かされ、朋に腕を引っ張られ、朋に車の運転席に押し込まれ、朋に行く先を告げられ走り出していた。テナントがいくつも入ったビルのフロア、ひっきりなしに人が行き来するありきたりな待ち合わせの場所、そこの名を朋はつぶやく。僕は無言のまま、近くの駐車場を頭に描く。
街中の立体駐車場に車を預けたのは、早い時刻の夕暮れが終わりかけていた頃だった。豆粒のように小柄で無精ひげに白いものが混ざった立体駐車場の管理人が、車から降りた僕と朋の姿をじろじろと詮索するように見た。何かを勝手に裁こうとしているような、好きになれない視線だ。大きなお世話だ。こんな時、いつもそう思う。朋といる時、こういう視線を気にしていつも苛立ってしまう。朋が一緒に歩いて恥ずかしくなるような女の子だということではない。朋が悪いのではない。僕が悪いわけでもない。僕と朋の関係性の何かを、その視線が脅かすのだ。僕は冷え冷えとした風に向かって胸を轟然と反らし、それに抗うしかない。
朋と並んで、宵闇を街灯の下の喧騒と車のライトが縦横に切り裂く街を歩いた。既に冬が来ていた。既に雪が降りていた。雪は詩的な美しさを既に喪失していた。車道のそれはひっきりなしに進む車のスタッドレスタイヤに、まず轍の跡をくっきり刻印した後で、霧散していた。歩道のそれは意固地に凍り付き、人の足型が複雑に踏みつけられた痕を残しつつ、車道から巻き上がる砂塵を含んで、薄汚れていた。
僕と朋は、凍り付いた足元をじっと見つめ、転ばぬよう気をつけて一歩一歩歩いた。それでも靴底はしばしば滑った。爪先から踏み出すのでは自ら滑ろうとしているようなもので、かかとから先に凍った地面についた。それでも滑った。歩くことが二重にも三重にも徒労を背負っていた。吐き出す息がもうもうと白かった。
ビルのフロアに辿り着いた。ガラスによって隔てられたフロアの中に、朋と二人入ると、そこはコートを着ていては汗ばむ空気が充満していた。街はどこからどこまでも、僕の部屋からこのテナントのつまったビルまで、堂々巡りが連鎖しているようだった。僕は隣の朋を見た。だらだらとした、どうしようもない、まっとうで少々古風な価値観から見れば唾棄したいような男と女という堂々巡りのサンプルがここにある。笑え。
朋は僕の半歩前を歩いていた。どこかのテナントにでも行くのかと思い、僕はその半歩後ろに付き従ったが、不意に朋は振りかえって、それから僕にキスをした。高校生ぐらいの集団がたむろし、何組ものカップルが手をつないで歩き、主婦の一団が着飾ったコートを振りかざし下品な笑い声を張り上げ、くたびれた背広の疲れたサラリーマンがぼんやりと突っ立っているフロアのど真ん中でキスをした。長い長いキスだった。唇と舌が僕の何かを求めていた。緩慢に不器用に応じながら、僕はゆっくりと朋の躰を離した。朋はすぐに、僕の腕からすり抜けていた。もう僕を見ていなかった。肩越しにあらぬ方を見ていた。様々な人がすれ違うフロアの中のただ一人を見つめていた。背の高い中年の男だった。見栄えのしないねずみ色のコートを着ていた。地味な顔立ち。襟元にわずかだけのぞく地味なネクタイ。何処となく疲労しきったような輪郭。強張った顔には皺。中年の男だった。皆川弘雄、朋の浮気相手だ。僕は咄嗟に悟った。本人に会うのはこれが初めてだったが、一目でわかった。疑いもしなかった。だが男はつかつかと歩いてきて、僕が声を絞り出すよりも先に朋の頬を平手打していた。
不思議な光景だった。突然、フィルムのネガを見るように視野の中のあらゆる色彩が変化し、濁り、写真の中の固定した硬直した表情をその場に居合わせる誰もが見せていた。喧騒はまるで誰もいない非常階段を駆け下りる靴音のように僕の耳に届き、ひどく遠くなる。
目の前で、スローモーションを見ているように朋がその場に崩れ落ちた。長くもない髪の毛の房がゆっくりと宙を舞い、秋の海風にススキがゆれるように乱れ、朋のからだが半回転するのにあわせて緩慢に渦を巻く。朋が僕の足元に転げ、手を付いてあごを床からわずかに浮かせながら、じっと僕の足首を見ていた。
次には僕の視線は転じて床に程近く、間近で僕の足首を凝視していた。見上げればその足首から足が伸び、腰があって上半身があって胸から肩を登って首があり頭が乗っていた。僕の顔だった。僕は緩慢に自分を見上げる視界を動かした。そこには朋をぶった中年の皆川弘雄が立っていた。僕を見下ろしていた。ぎょっとした。皆川弘雄の顔もまた僕だった。
はっとすると、僕の視線は僕に戻っていた。朋が相変わらず床の上に転げていた。皆川弘雄が肩で息をしながらそれを見下ろしていた。裏切り者、淫乱、そんな下衆な言葉で朋を罵っていた。だが僕は驚いた。その横顔は紛れもなく僕だった。一瞬の幻影、だが視点が僕に戻っても、中年の男の顔からは僕の顔が失せていなかった。
僕の顔をした皆川弘雄は朋を罵る。爪先で床に転げる小柄な朋の身体を小突く。裏切られたと悲鳴を上げる。力で共にその復讐を行い、暴力で朋を屈服させようとしていた。何に? 自分を裏切ろうとしない偶像の女という鋳型にだろう! 僕は見た。僕の顔をした皆川弘雄のその苦慮し渋面の表情の一端に、明らかな喜悦があることを。嘔吐しそうになった。震えるほど嫌な顔だった。
何かが僕の中で千切れた。
次には、僕は拳を握り締め朋を打った中年の男を殴っていた。顎を狙ったが耳の近辺の即頭部に当たり、無我夢中で突っ込んだ額は男の鼻梁を潰した。どんと男の広くもない胸板を押してから、僕は短く一歩を踏み出し、今度こそと、男の顎をしたたかに殴った。手応えがあった。拳が痛かった。
悲鳴が聞こえた。皆川弘雄の悲鳴だった。僕は荒く息を吐きながらも必死になって、合わぬ焦点を皆川弘雄の顔に合わせようとした。凝視した。僕の顔はそこにはもうなかった。鼻血を流し、にかわのようにくたびれた感じの日焼けした肌をした哀れっぽい中年男の、皆川弘雄の顔だった。
警察、警察、皆川弘雄はうめきながら叫んだ。だがざわざわとしながら周りを取り囲んだ野次馬たちは、先に手を出し、しかも女を殴ったこの中年の男に、積極的な同情を示そうとはしなかった。僕はそれをぼんやりと見つめていたが、不意に朋と視線が合った時、皆川弘雄が叫んだ警察という言葉の重みが脳裏に蘇ってきて焦った。僕は朋の手をつかんで床から引き起こし、人垣を縫って走り出した。
走った。走るほどに鼓動が早くなり、気が高ぶり、何かがぐるぐると頭の中を駆け巡った。朋の腕を馬鹿みたいに強く握り締めて僕は駆けた。乱れた拍動がひと鳴りするたびに僕は冷静さを失っていった。
立体駐車場に駆け込んだ。相変わらずそこの初老の管理人は僕らを何かの価値観で裁くような視線で見つめながら、もう車を出すのかいと聞いてきた。僕は半ば叫ぶようにして、早く出してくれと頼んだ。
中古のクーペが姿を現した。僕はほとんど飛び乗った。朋がグズグズせずに僕に続いて助手席に乗ったのに安堵した。海へ、僕はそう言うと、料金を払うのにも焦れ、車道に躍り出るとアクセルを踏みしめた。
欲しかった。
足跡のない雪の平原が。
そんなものはどこにもない。雪が舞い下りてきた直後からそれはもう汚されてしまっている。
ただ、冬の海岸だけは別だった。海風がその表面を刃物のように抉り取り、強情に冷え強ばらせるだけで、白亜の砂浜は無垢の白い草原に包まれていた。
夜。
誰もいない。
ヘッドライトを海に向け、僕らは雪に覆われた砂浜を歩いた。
この日、海は凪いでいた。恐ろしいぐらいに静まり返っていた。音もなく粉雪が舞い下りる夜にふさわしい静寂さだったが、陰鬱な雪雲は空に消えていた。暗夜は宇宙に向けてその口をぽっかりと開き、虚無の空間とつながっていた。空気が澄み渡っているせいか、星がぎらついていた。だがそれは、なんの豊穣さも安らぎも感じさせない。いたずらに鋭く、漆黒の闇に抗おうとする痛ましいものだった。
潮騒は凍り付いていた。風に舞う白い砂にささやく夏の軽快さはどこかへか失せ、声を押し殺す慟哭のように静かに響いていた。
意外な海だった。
僕は意外だと共に向かってつぶやいた。朋は雪の上にもかかわらず、その場にぺたんと腰を下ろし、膝を抱き寄せてヘッドライトの照らす黒々とした海を見つめた。海はまるで死んだようだった。
意外だった。僕は荒れ狂う北の海を思った。渡り鳥を追い払う北風が無慈悲に暴れる北の海。巨大な握りこぶしを石の壁に叩き付け、手が血まみれになるような、そんな波の飛沫。見慣れたその荒々しさは、ただ凪いで目の前にあるだけだった。
海があり、雪があった。波打ち際がその境界線になるはずだった。雪が融け、波が寄せつつも引き、黒々とした砂の帯がのびる波打ち際。だがそれは見えなかった。ヘッドライトの加減のせいなのか、波打ち際の辺りは暗がりで良く分からなかった。雪が水となり、波の寄せが弱まるそこは見えない。
朋、僕はつぶやいた。
朋はなにも答えなかった。ただ黙って、座った側の、雪を素手でがりがりと引っかいていた。数日前の雪は粗目に凍っていた。地面にこびりついているようだった。無垢と引き換えの強情さなのかもしれない。素肌を隠し、本音を覆い、隠蔽する、そんな雪。
僕は海を見た。この凪はニセモノなのかどうか、それを思った。あるいは冬というものに似つかわしくないのではないかとも。
僕の望んだ海ではない。静まり返った静寂さは慈愛でなく、死を思う。この中に沈み、無音のまま、再び浮かんでは来ぬと思う消失を思う。
荒れ狂ってみろ。そう思った。不意に頭に、僕の顔をした皆川弘雄が朋に乱暴する姿が蘇ってきた。平手で打った後、爪先で蹴り、罵り、踏みつけようとしたあの姿。そうだ、僕は朋に、大丈夫だったか、痛いところはないか、そう聞いた。
「平手で頬をぶたれただけだったから、大丈夫だよ」
僕は黙りこくった。
それだけ、だったのか?
「……驚いたよ。叩かれた後、あなた、突然あの人に殴りかかっていくんだから」
まぼろしを、見ていたのか?
まぼろしならば、僕は僕として朋を罵り、乱暴したわけなのか? あれは僕だったのか? それを僕は自ら殴ったのか?
「あの人、わたしの、浮気相手だよ」
ああ、僕は機械のようにうなずいた。
「今になってね、別れたいって、女房が感づき始めたって。それで悔しいから、わたし、あなた引っ張り出してキス見せ付けてやったのよ。そしたら裏切り者だって。……笑っちゃうよね。何が裏切り者なんだろう。最初から、そういう壊れた形のものなのに」
そうつぶやいて朋は泣き出した。苦しそうに鳴咽した。
僕は呆然として立ち尽くしていた。
「わたしは、男にとって、都合のいい偶像なんかじゃないの」
切れ切れの朋の言葉。僕はそうでないとしても僕に向けられ僕を突き刺した言葉だと思った。倒れ込むように、僕は朋の隣に座った。朋を抱き寄せる。守り、なだめ、支えようとしたのではない。僕は朋にすがり付いた。
傲慢な自分が痛打された。
凍えるように寒かった。それでも僕は血まみれで、凍り付いた雪を掘り起こさなければならない。誰かの中を犯すのではない。僕の中の誰かへの思い、その凍てついた外皮をはがすため。
そんなことが、ずっとわからなかった。
泣いた。何度もすまないと朋に謝った。泣いた。
朋がきょとんとする。「どうして泣くの?」
朋……。
朋は僕に手をさしのばさないかも知れない。わからない。それでも僕は手をのばしたい。それを願う僕の傲慢さを見つけて、それに脅えながらも、それでも素手で雪を掘って爪から血をにじませつつ、手を。
朋……。
足跡のない雪原などはない。
そう、ここに僕らが足を踏み入れたというだけで、僕らの後には僕らの足跡ができている。僕が思ったのは、求めたのは、全てキレイなまぼろしだ。何よりもまず僕が知らないうちにそれを損なっている。
僕だ。
ここで立ちどまって、僕らの上を雪が覆うほど降る時を待つことは、できるかもしれないけれど……、
歩き出そうか。足跡に踏み乱れた道を。
朋……。
たとえ欺瞞の産物だとしても、車の中にはヒーターがきく。少し走れば、熱いコーヒーを転げ出す自販機があるだろう。
「行こう」
「どこへ?」
「どこかにさ」
アクセルを踏めば、景色は矢になる。
ごめんなさい。
何が?
あなたを利用したこと。あの人に見せ付けるために。
僕は壊れた恋愛に憤り、最初から壊れていた朋との関係を丸呑みして喜んだつもりになっていた。わかったつもりになっていた。僕は何もわかっちゃいない。わからない。ごめん朋。
佑子さんのこと、まだ好き?
覚えていた。
忘れないよ。あれだけからまれれば。
僕は佑子の事を好きだったのかな? 僕が思い描いた佑子の像にこだわっていただけだったんじゃないかな? 僕は佑子じゃなくて、僕が好きだったんだ。……佑子は、逃げて当然だね。
……あのひとも、多分そう。
浮気相手?
うん。
似てるよ。僕と。
そうなの?
似てるから、多分、かっとなってぶん殴った。
変なの。
そう、変だね。自分でもおかしいと思う。
話すことは山ほどある。話さなければならないことは山ほどある。そう倦怠なんて、している暇はない。そんなに人は単純じゃない。僕はちっとも朋のことをわかろうとしていなかった。自分の子供っぽい虚無が朋にも有ると思い、その鋳型に押し込んでいた。朋は朋であって僕じゃない。結局僕は、佑子を嘲笑って佑子の時と同じことを繰り返した。
僕の姿は醜いけれど、少しずつ、それを直視した、さらけ出した、その先に、ようやく僕ではない他の人の姿が見えてくる。朋が見えてくる。違うだろうか?
朋。