タカハシ君ねえ
鎧戸は、深い闇に向け開け放たれていた。秋に夜気が冷ややかさをたたえ、満月の冷酷色の月光と共に、窓から忍んで部屋の中に入る。
燭台の炎が、かすかな風に揺らめいた。合わせ、部屋の四隅に届かぬ弱々しい光と、光の纏う幾重にも重ね合わせた闇の衣とが、微妙に蠢く。炎(ほむら)は、右に左に乱れ、蜜蝋を音もなく熱く蕩けさせながら、灯心のじりじりと燃える音を微細に響かせる。褐色の火の根にある台座のような青い炎が、深い闇に今にも吸い込まれそうになりながらも、狼星が青白く輝くに似、乱れつつ、己が姿を堅持し続ける。
だが男は、炎とは風に弄られれば吹き消されるものだと考え疑わない男だった。
唇が触れるに、陶器のような感触、肉の暖かみが失せたもののような心地の、女の背中から一度離れ、無粋すぎる荒い一息で、体を立て直した炎を吹き消す。炎は震え、そして消えた。白い煙が恐ろしいほど緩慢に立ち昇り、やがて闇に押しつぶされた。
朱の濁った光は失せた。ただ月光だけが白夜のような白すぎる光を、寝所に差し挟みはじめる。
女は其処に、うつ伏せになっている。物も言わぬ。
男はむき出しの胸を月光に曝し、隆起した己の肉体の上に光と闇とが入り交ざるのを、心持ち顎を引いてしげしげと眺めた。月光は男の体の巌を幻のように照らし、筋と筋との合間の峡谷には埋め込まれるようにように闇が入り、益荒男の体躯を見せ付けるように浮き上がらせていた。男は自らの肉体を誇示し確認し、何かを回復し終えてから、また女に挑む。
男は、月光を含んだ女の体に手を伸ばした。長い髪が、夜露を吸ったような手触りを残しながら、肩を伝って、ゆっくりと露の背中の半ばを覆う。男はそれを手で梳いた。節くれ立った指と指の間から、泉からすくった水が零れるように、冷ややかさを指に預けながら女の髪が流れ落ちる。男はその一房に口付けた。女は顔を背け続ける。
男は、女の隆起に沿って、胼胝(たこ)の盛り上がった掌を蠢かした。女の体を滑る陰影はあくまで柔らかい線だった。だが、掌は、何処まで進んでも夜気を引き付ける女の肌の冷たさを手探るばかりで、行き場のない男の火照りだけが掌の中に残るだけ、冷たさが男を拒み続けていた。肌の冷淡、男はそれに抗うように、女の曲線に固い異物の胼胝をはわせ続けた。
男は月光下、女の耳を探し出し、その中に睦言を囁き入れる。女は、何も語らない。男の腕は、深い沼の底を探っているかのように、肘から先は闇の中に没入し、女の体を追いかけている。温みを捜し求めている。女は、何も語らない。
やがて男は、断念するような荒い息を吐き、固い胸板と無骨な腕とで、女の背中から覆いかぶさった。そのまま、女を岩の牢に閉じ込める。
女は何かつぶやいた。
それが男と違う名前であったこと、女以外は誰も知らない。男は耳にしない。耳を澄ましてもいない。
きっと聞こうともしないだろう。
女は、別の虚空にある。
満月が、白々しい光を部屋の中に押し込むように、冷淡に輝く。まるで、闇の中の罪科を一手に知り握るは我なりと酷薄の嘲笑を浮かべるように。
「…………これで、終わり?」
「はあ、そうなんですが」
「…………タカハシ君ねえ、うん、あのさあ、要するにさあ」
「はあ」
「下世話な内容に、カッコつけた、ぶった文章だよねえ」
「はあ、そうですかねえ」
「…………うん、まあ、いいや。ご苦労さん。でも君も、もうちょっと考えた方がいいと思うよ」
「はあ、そうですかねえ」
「うん、そうじゃないかと俺は思うね」