モルタヴァの騎士

 

 

 

 

 

 

 少年は、麦畑の中で溺れもがくようにしながら刈り取りを行いつつ、腰を曲げせわしなく動く大人の目を盗んで草丈の隙間から顔を突き出した。

 草間からのぞく空はどこまでも高い。

 夏の熱気に地面からかげろう立つ季節はとうに終わって、その空を支える地平の境界線は、ささやかな丘陵のやわらかい曲線となって浮き立っている。

 そのうちの、いっとう小高い丘。

 少年の目は自然とそこに向かい、もう余所へ千鳥足で動くような事はない。

 口からは、自然と感嘆と満足の溜息が漏れ聞こえる。

 雨露を吸いしっとりと濡れ輝くような青草の丘の上には、実り穂と同じ色をした石の小さな砦が毅然と、まるであの空に向かって伸び上がるように建っている。

 少年と、そしてこの村の多くの少年達の憧憬を一身に集める姿。今日もまた少年は心を奪われる。

 後ろからの怒鳴り声。

 少年は飛び上がらん勢いで振り返ると首を縮めた。父親の折檻がやってくる。

 頭を押さえる少年を前にしての父親の言う事はお決まりで、一々聞かずとも分かるいつものことだ。草の中に身を屈めてそこかしこで作業していた隣家の者達が、太陽と土とを相手に生きる者らしく無遠慮に思った通りを笑った。

 父親の説教はすぐ終わる事だけが救いだ。叱るわずかかの暇すらを浪費したと言いたげな勢いでどっかとまた草の中に我が身を埋める。少年も慌ててそれに続こうとし、だが一抹の未練が父親の背中を確認し終えてからそっと、少年に肩越しに振り向かせた……。

 

 

 砦は、いつごろに作られたのか誰も知らない。

 少年は気難しい村長にそれを聞きに行った事があった。

 村長は邪険にはしなかったが熱意もなく、知らんと答えるばかりだった。

 少年は単純だった。村長が知らぬほどの大昔からあるのだと思い、それがよりいっそう少年の夢の中に膨らんだ。

 少年にとって、村長が知らぬ事というのはよほど希有の事と規定されていた。村の誰それが誰それを娶りまた嫁し誰それの子供がまた誰それかと子供を産むといった村の家々の事情について本人達よりも詳しい長老は、この田舎くさい村のまず一等の知識人であったから、少年はその言葉に重きを置き、そこから想像の翼を広げたのである。

 人在れどもなお国の生まれないいにしえに、重苦しい鎧に身を固めた騎士達が集う砦、和やかな談笑と華やかな酒宴、そして自らの誇りのために命を賭し戦う姿。おとぎばなしの光景がありありと少年の頭の中に浮かぶ。

 少年は、少年達の輪の中で熱っぽく自らの想像を語る。

 粗末な衣の破れた穴も気にならない年月。車座に座って語るのに我慢ならなくなって、少年達は大人の手の中から笑いさざめき逃げ出して、山野を駆け、川で泳ぎし、心の中に住む騎士達の活躍を山や川に投影する。

 敵を追いかけて獣道を馬で疾走する姿。

 水を跳ね飛ばしながら浅瀬を渡る光景。

 少年達は走り、叫び、そして笑う。日も暮れこっそりと家に帰ると父親の折檻と母親の小言とが待ち受けているのだけれど、それでも少年達は自分達を改めようとは思わない。また同じ事を繰り返し、同じように叱られる。それでも少年達は駆けるのをやめない。その目には騎士達の後姿がはっきりと映っている。

 だが巡る日々がやがて一年となり、また次の一年を迎え、そうやって年月が過ぎ去っていく。

 身の丈進んだ少年達は次第に目に見える力見えない力を与えられる代わりに、訣別を強いられる事にななる。

 ありもしないものに胸焦がす事よりも、一枚でも多くの土地を穿つ事を強いられる。どこそこの物持ちの家は娘ばかりで婿を欲しがっているといった話に耳を傾けるようになってくる。

 そうやって去っていったかつての少年達は、なお訣別し得ぬ少年のままの少年達を嘲笑し、気付かぬままにかつての自分をも無意識に嘲って、自分の子供を打ち消して、大人の姿にしっかりとしがみつく。

 晩生の少年達はそんなかつての仲間の豹変に驚き途惑い、そして自分も背押されてその後を追いかけ始める。少年だった者達は、それでもたまに年少の子供たちにせがまれて山野に兎取りの罠を仕掛けに出向き、川に膝まで漬かって魚を追いかけはしたが、そんな時に一隅に追いやった少年が息づいてくる事はあっても、ふと我に返り急に無口になって、内心でそんな自らの幼稚さや脆弱を叱咤するのだった。

 ヘンはそんな少年から抜け出しかかっている年月の少年である。

 

※   ※   ※   ※

 ……父さんも母さんも子供じゃないんだから、いいかげんにしっかりしろって口やかましく言う。

 でも、大人ってそんなにしっかりとしているものなのかなあ?

 隣のおじさんなんかとお酒を持ちよって大騒ぎしながら飲んでいる姿なんかを見ると、とてもそうだとは思えないよな。

 だらしない、かえってこっちの方がそう思ったりする。

 大人はしっかりとしているものだっていうんなら、どうしてあんな大騒ぎをするんだろう。いつもまじめに働いているからたまにはいいんだなんて言っているけど、僕だってちゃんと朝の鶏の世話から昼間の畑仕事だってやっているじゃないか。それだってのにお前は子供のまんまだとか、もっと大人にならなければだめだとか。分からないな。そういう事っていうのは良く分からない。

 そんな僕を見て父さんや母さんはすぐに周りをみろって言う。

 隣のフィオは立派になったとか、モルゼン爺さんのとこのマッパは一生懸命働いているとか。

 いつも他人と自分を比べて他人の持っている物を自分も欲しがるような事をしちゃ駄目だなんて言っているのにね。

 近頃は妹も父さんや母さんの真似をしてからかってくる。子供、子供ってさ。

 

 

 

 

 昨日、母さんからハイアさんの倅さんが帰ってくるよと聞かされて、僕はとても嬉しくなった。レキ兄さんと会えるんだ。

 レキ兄さんは、勿論本当の兄さんじゃない。年はちょっと離れていたけど僕らと一緒になって遊んでくれて、釣りのこつや野苺の場所なんかを良く教えてくれた。罠をうまく作れない子に、作ってあげるんじゃなくて、一緒になって手を動かしていたのを、僕はまだはっきりと覚えている。

兄さんがいなくなった時は、本当に寂しかった。良く分からないけど、兄さんはこの村を離れてずっと先の領主様のところにいったらしい。なんだか相当に大変な仕事をしているようで、一年にいっぺんも帰ってこない時だってあった。僕なんか生まれてから一度も村の外に出た事なんてないから、ぜんぜん想像が付かないな。どうして兄さんはそんなところに行ったんだろうと僕は父さんや母さんに聞いたことがあったけど、ハイアさんのような家の四男坊だったら仕方がないからなあと良く分からない答えが返ってきて、その後でそれに比べたらお前は幸せなんだから感謝して心を入れ替えろと説教されて、うんざりしたな。

次の日の朝、僕は飛び起きて兄さんのところに行こうとしたんだけど、母さんにこんな朝早くに出かけるものじゃないと怒られてしまった。どうせ早起きしたなら鶏に餌でもやってこいと父さんに言われ、今日はまだぐっすりと寝ている妹の番だからと口答えすると、つべこべいわずにさっさといけと怒鳴られてしまった。これが妹とあべこべだったら、父さんは確実に僕を叩き起こすところなんだよな。いつまで寝ているんだって。

鶏小屋を駆け回って、掃除をし餌と水をやり卵を取って籠に入れて家に戻る頃にはだいぶ時間がたっていた。要領が悪いからだとこんな事でも怒られる。もう食事の準備はあらかた終わっていた。卵を母親に差し出してから、手を洗ってテーブルに付き、焼き立てのパンやソーセージや豆なんかを食べ始めた。父さんと母さんは食事をしながら何かを話している。租税がどうのこうのと言っていたから、僕はレキ兄さんに頼んで領主さまに安くなるようお願いしてもらえばというと、父さんも母さんも呆れ顔をして僕を見た。そんな事が出来るわけないだろうと父さんが言うから、僕はだって兄さんは領主様のところで働いているんでしょうと抗議するみたいに言ったんだ。父さんは母さんと顔を見合わせて、それから母さんが、レキさんはそうじゃないんだって言った。そうじゃないて何の事だろう?やっぱり僕には分からない。父さんも母さんも僕に大人になれというくせに、僕に分かるようにはっきりと説明してはくれない。僕は兄さんは領主様のところにいないのと聞き、母さんは違うよ領主様のところにいるんだよと答えた。

「でもね、領主さまにお願いするような事は出来ないの」

「そんなこと、兄さんに聞いてみなければ分からないじゃないか」

いいかげんにしろと父さんが怒鳴って、そこまでになった。僕は押し込むように食べ物を飲み込むと、そそくさと席を立った。母さんが僕を呼び止めてハイアさんに渡しておくれと酢漬けやジャムの瓶を僕に持たせた。

レキ兄さんの家は家が寄り集まった村の中心から少し離れたところにある。そのことをああだこうだと大人達は何だか嫌な笑顔を浮かべてさざめくけど、僕にはそれが良く分からない。それの何が悪いっていうんだろうか。でも僕らの仲間の中にもこっそりとレキ兄さんの家は小さいと言うやつがいた。僕はそんなことちっとも気にならないけど、確かにちょっと立ち止まって周りを見比べてみれば、兄さんの家は大きくはないし新しくもないだろう。

兄さんがいなくなってから足を向ける事が少なくなった辺りの光景を、兄さんと一緒に歩いた思い出をたどるように見渡しながら僕は畑に挟まれた道を歩き、やがて懐かしい兄さんの家が見えてきた。茅葺き、壁石はいぶされたかのように色くすんでいる。やっぱり、兄さんの家族が全員で生活するには小さい。兄さんのところより頭数の少ない僕の家の方がまだ広いかもしれない。父さんや母さんがハイアさんのところは苦しいとか何とか小声でささやきあっていたのは、こういうことなんだと、僕だって頭で分かってはいたけれど、久々にこの家を見ると、何と無く父さんや母さんが何を言いたかったのかが実感として分かってくるような気分になった。僕は立ち止まった。兄さんの家の戸口を前にして、入っていけなくなった。中からはひっきりなしに赤ん坊の泣き声が聞こえてきた。裏手からは薪を割る音と機を織る音が漏れてくる。そんなものにちょっとぼんやりしていると横合いからふいに声をかけられた。ハイアのおじさんだった。久しぶりに見たおじさんの顔は、煎り豆のように良く日焼けしまた煎り豆のように皺だらけになっていた。僕は少し慌てながら、母さんからですと胸に抱え込んでいた色とりどりの中身をした瓶を少し腕の中で広げるようにしておじさんに見せた。おじさんは帽子を取って丁寧に僕にお礼を言った。「ああなるほど、両手一杯にそれを抱えているから扉を開けられなかったのか」おじさんは都合のいい解釈をしてくれて、扉を開けて僕を家の中に招き入れた。瓶を持ったまま僕は中に入って、家の中の様子を見て驚いた。赤ん坊が3人とその何倍の数かのおむつの布がそこかしこにあって、台所仕事をしていた女の人のお腹には泣き声の元がもうじきまた一つ増える事を見せ付けていた。奥からおばさんが出てきて僕の抱える瓶を見て喜んだ表情を浮かべ、それから困ったようにお返しが大変だと呟いた。「遠慮なさらずに食べてくださいって母さんが言ってました」というと、おじさんもおばさんも何度も礼を言って瓶を受け取った。僕はちらっと周りを見渡したけど、レキ兄さんの姿はなかった。レキ兄さんはどこに行ったか聞きたかったけど、おじさんもおばさんも僕が久しぶりに顔を出したから喜んで、あれこれといろんな事を話したり聞いたりしてきたからなかなか聞け出す事ができなかった。「一番上のこの嫁が二人目を生んでな、中の嫁がまたうまい具合に同じ頃生んだんだが、これが双子で、しかも今三人目の嫁のお腹にも赤ん坊が入っているんだ。家中が赤ん坊だらけで、寝る場所もない。貧乏人の子沢山とはよく言ったもんだよ」

おじさんはそうやって本心から笑っているのか分からない表情で、ただ声だけは赤ん坊の泣き声に負けないように大きく笑い出した。

一通りの事、僕の背が伸びたとか、僕の父さんや母さんは元気かとか、そういった事が終わってから、僕はようやくレキ兄さんの事を口に出した。

「ああ、そうか。ヘンはレキと仲が良かったからね」

僕はうんと肯いて、兄さんは帰ってきたんでしょうと尋ねた。おじさんはうなずいた。朝早く、出かけてくるといってふらっと出ていったきりだよとおばさんが教えてくれた。「多分、森の奥の川とかじゃないのかね。あの子、懐かしがって」

「うん、僕もそう思う」

「あの子はここが好きだったから……」

おばさんはそう言って口を閉ざし、おじさんも少しうつむいてなんだか疲れたような顔をしていた。僕は、思い切って聞いてみた。「おじさん、おばさん、どうして兄さんはなかなかここに帰ってこれないの?兄さんは領主様のところで何をしているの?」

おじさんとおばさんは顔を見合わせた。それからおばさんの方が口を開き、目を伏せ悲しそうに、あの子はね、うちが貧乏だから仕方がなかったの、仕方がないと自分でも諦めて領主様のところで傭兵になったのとぼそぼそと言った。それから二三はなしをして、僕はさよならを言っておじさんとおばさんに見送られてこの家を去った。

教えてもらった通り森の方を目指しレキ兄さんを捜しながら、僕はさっきおばさんが言った事を頭の中で考えていた。傭兵、って何だろう。何の事だろう。どうしてあんなに悲しそうな顔をするんだろう。兄さんも、ここが嫌いになったんじゃなくて好きなままなら、どうしてそんなよそに行ってしまうんだろう。おばさんにあんなに悲しそうな顔をさせているのに、どうして戻ってこないんだろう。

そんなことを考えしぼんやりしていると、森から出てくる人影を見つけ、遠目からもそのひょろっとした背格好で兄さんと分かった僕はもう手を振りながら走り出していた。

「おう、元気だったかい」

兄さんは、穏やかで優しい中にどこか寂しそうな微笑みで、走り来た僕を出迎えてくれた。背が伸びたな、ぽんと僕の頭に手を乗せて兄さんはそう言ったが、それでも背の高い兄さんの肩を頭の先が届くかどうかというぐらいで、僕は兄さんと比べてだけではなく同じ年頃の仲間のなかでもちびだったから、もっと背がほしいんだと兄さんに頼み込むように言った。兄さんは淡く笑いながら、ヘンは贅沢だとつぶやいた。

それから僕たちは何も喋らずにてくてく歩いた。兄さんが何も話さなかったわけは分からない。僕は、いろんな事を兄さんに教えてやりたい――セッテの飼い犬が可愛い子供を産んだとか、山鳥が良く来るいい場所を見つけたとか――そういった、兄さんが村を留守にしていた間に起こったいろんな事を喋ろうと思って兄さんの顔を見上げたのだけれど、何だかその表情を見て喋りかける事ができずに黙ってしまった。

兄さんは家の方に向かってはいない。川に行こうとは一言もいってなかったけど、兄さんがどこを見てどこに向かっているか、昔のままのように見えたから簡単に僕には分かった。僕は昔そのままに兄さんの後にくっついて歩いた。やがて、さらさらと音を立てる小川が見えてきて、兄さんは手触りのよい雑草が覆う小さな土手に腰を下ろした。僕は当然のようにその隣に座った。兄さんの顔をうかがいながら僕が何から話そうか頭の中であれこれ考えていると、兄さんはふいに何かをつぶやいた。僕にはそれが、モルタヴァと微かに聞こえてきたように思えた。川の水がやわらかい日の光をすって、きらきらとひかり輝いていたけれど、つぶやいた後の兄さんの表情は、川の照り返しを顔に受けていても、川面のようには光り輝きはしなかった。

僕は、我慢できなくなって、兄さんの横顔を見つめながら聞いてみた。

「ねえ、兄さんはここが好きなの」

「好き?さあどうだろう。好きなのかな」

「好きに決まっている。そうだよね」

「好きか、そうかもしれないな」

「だったらもう戻ってきなよ」

僕がそういうと、兄さんは困ったような笑みを浮かべてからおじさんそっくりに大声で笑った。僕はどうして兄さんがそこで笑ったか分からなかったから、もう一度その言葉を繰り返した。何だか飴をせがむ子供みたいだなと自分でもちょっと思った。兄さんは首を振った。そしてはっきりと答えた。「もうここには、住む事はないだろう。たまにやってくる事はできても」

兄さんは手探りで地面の小石を探しつかむと、手首をひねって小川に投げた。ぽとん、と音がひびきすぐに消えた。川向こうからだろうか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。あいかわらず、川はさらさらという以外に音をひそめている。兄さんは黙って、それにじっと聞き入っていた。僕はなんだか言うべき言葉をみつけられずに、苦しく苦しく、黙っていた。兄さんに声がかけられなかった。

やがて兄さんが、僕は傭兵なんだとつぶやいた。傭兵、というのはさっきおじさんがぼそっと言った言葉だ。僕は覚えている。でもそれがどういった物なのか、僕は全く知らなかった。

「戦うんだよ」

兄さんがせせらぎの音にとけこんでしまうような小声で言う。その時、僕の頭にはあの古めかしい砦に立て篭もって活躍する騎士の姿がはっきりと浮かんできた。鎧兜に身をかためたその騎士の見えなかった顔が、兄さんの優しそうな顔と重なった。思わず僕は、すごいと叫んで立ち上がっていた。

兄さんはそんな僕をゆっくりと見上げた。それから叱られた犬のように目を伏せ、僕の興奮した顔から視線をそらした。

「ちっともすごくない。僕は騎士じゃないよ。傭兵なんだ」

「だって戦うんでしょ。悪いやつを相手にさ」

「僕はね、そうじゃない。お金で雇われている兵隊なのさ。それも正規軍が嫌がるような苦しい場所、功績の薄いところに決まって投入される貧乏部隊だ」

「だって剣を持って鎧をつけて……」

「なまくらの剣だ。斬れやしない。鉄の棒と同じだし、すぐに折れる。鎧も素晴らしい物を全員分そろえるお金なんてないからね、胸回りの他はほとんどむき出しの、ひどいものさ。もちろん馬もなく、泥まみれで走っているだけだ」

僕は言葉を続けたいが兄さんの顔に喉元まで出かかっているそれを押さえられ、もどかしさで座っていられなくなって、石のように腰をつけたまま動かない兄さんの周りをうろうろしながら、あわて頭の中を捜して言うべき言葉をさらった。頭のなかにいろいろな物が駆け回った。騎士、勇敢、誠実、まるで兄さんの事じゃないか。分け隔てなく優しく、僕みたいな年下にも口先だけで喋らずにしっかりと向かい合う。――ふいに僕は正義という言葉を連想した。正義、そう兄さんがやっている傭兵というものは、ぜったいに、兄さんらしい正義にしたがっているはずだ、僕はそう思い、言うべき言葉をようやく探し当てて春の日差しを吸い込んだ寝藁のように心が温かくなった。「ねえ、兄さんは正しい事をやっているんだよね」

僕はその時の兄さんの顔をきっと死ぬまで忘れないだろう。兄さんの顔形、見知ったあの穏やかな輪郭が、あそこまで切なそうにゆがむ事があるなんて……。

「お金のためなのだよ。ヘン」

「うそだ」

兄さんはゆっくりと首を振った。「僕の家は貧しい。お金がないだけじゃない。作物を実らせてくれる土地がまるっきり少ないんだ。だから僕のような末っ子は外に出て自力で生きていかないといけない」

「でも、でも、働くんだったらそんなことをしなくたって……」

「ああヘンはまだ何も分からないんだな。僕のように芸もなければ手に職もない貧農の倅には、雨風でも平気なこの体を生かす以外、何の食う術もないんだよ。それが世の中なんだ」

僕はそれを言う兄さんの顔を見て、ものすごく寂しかった。兄さんの悲しそうな瞳は僕の周りの大人達と同じだった。子供の僕をどこかで持て余し、子供の世界に座りっぱなしの僕を見つめるせつなそうな目。裏切られた、とは思わなかった。でもしばらく離れていただけでぜんぜん別の僕の知らないところに去っていってしまった兄さんを見て、もう僕の仲間でない事を見せつけられたことは辛かった。兄さんはもうこの話はやめようとか細く言った。僕の表情の下の気持ちに気付いたからかもしれない。兄さんは立ち上がって河原から逃げるように歩き出した。僕は慌てて後を追いかけた。どこに向かうか、住み慣れた村の中だというのに僕は兄さんの見ている場所がちっとも見えてこなかった。兄さんは僕に話し掛けてこようとはしなかった。

ぐるっと遠回りしてからさっきの河原の下流にかかる木の橋を兄さんは渡り、僕はその後ろをうなだれて付いていく。一度だけ兄さんが、「生きるために人殺しをする」とつぶやいたのを、僕は耳にし何も言えなかった。

息づくような緑の丘の草を足に踏んで、ようやく僕は兄さんがどこに向かっているか分かった。砦に行こうとしているんだ。目の前の上り坂の先に、少しいびつな砦のてっぺんが見え隠れしてきた。僕たちは歩いた。へさきのようだった砦は僕らが歩くたびにゆっくりと筒状のそびえる姿を見せはじめた。その姿も半ばがはっきりと見えるようになった頃、兄さんは坂道で立ち止まってゆっくりと砦を見上げた。僕はその横顔を見つめた。やはり悲しそうな、でもさっきの僕の子供を諭す顔ではない。胸の内側につまった憧れをどうすることも出来ず悲しそうに見つめている、そんな僕らと同じような顔をしていた。「行こう、兄さん」僕はいたたまれなくなって先に歩き出した。兄さんが歩き始めるのが後ろから音で知れた。

砦は、年に何回か兄さんが使えている領主様のところのお役人が見回りに来るほかは、ほったらかしにされて僕らの仲間が出入り自由になっている。関も柵もなくて、丘の雑草を割ってのびる石階段を登っていくとところどころが崩れてしまっている城壁にぶつかって、そこにぽっかりとほらあなのように開いた門、そこをくぐってしまえばもう砦のなかだ。そこまでを一気に僕は早足でのぼった。振り向けば、兄さんは一歩一歩噛み締めるように登ってくる。僕は筒の形をした砦の中をなかば駆け、背の届かない高さにある小さな窓空の明かり以外は薄暗いその中を進んで靴底の音を響かせた。がらんどうのその中には、砦に芯が通っているかのように天井を突きぬける柱がある。僕らが数人手をつないでも輪にならないぐらいの太さなのだから、柱じゃないのかもしれないけれど、そこにはへびが枝に巻きついたような螺旋階段がある。そこを登っていけば、中二階の「隠し部屋」と僕らが呼んでいる屈んでいかなければ進めない階、その上の僕らが木箱や布切れなんかを持ちよって騎士ごっこをやりそれが置きっぱなしになっている二階、それでも階段はとぎれなくてもっと上がると屋上に出る。屋上は風が強いし、壁は半分は崩れてしまって危ないから、小さい子は絶対に連れていかないのだけれど、晴れた日の見晴らしはすごい。僕はその階段を駆け上がりながら、「兄さん早く」と叫んだ。音が石壁の部屋の中でこもり、共鳴する。低く響く兄さんの足音が返事をするようにそれに続いた。

「ヘン。二階だよ」

兄さんの声が聞こえてきた。僕は少し階段を降り戻って二階の入り口に飛び込んだ。「僕は屋上には行きたくない」

「恐いの?」

僕は昔兄さんにそうやったようにからかったつもりだった。だから、そうなのかもしれないと兄さんが返事するのが何となく悲しかった。

二階はほこりだらけだった。砂が風に乗って窓から入ってくるようだった。入り口から見て奥に、床が一段高くなった場所があった。僕らはそこを主の場所と呼んだ。この砦の主が立派な椅子を置き、そこに座っていたんだろうとささやき合った。その場所には、くぎがどこか抜けてしまって座るときしむ木箱が置いてある。その上には誰かがどこかからか持ってきたボロボロの布がかけてある。それが僕らの椅子だった。兄さんはまだやってこなかった。僕はその椅子に腰かけて兄さんを待つことにした。ふんぞり返るようにして座ると、木箱がゆれてひっくり返りそうになった。

兄さんがゆっくりと階段の向こうの影の中から姿をあらわした。偉そうに座る僕を見て兄さんは少しだけ笑ってくれた。

それから兄さんはゆっくりと僕の方に歩いてきた。僕の座る側に寄ってきて、それから僕の右手の、日差しのささない始終暗いままの壁に向かって、手探りで何かを始める。座ったまま僕はそれを横を向いて見上げていた。おいでと兄さんが言った。僕は立ち上がって兄さんの隣で薄暗い石壁を見つめた。

「ここを見てごらん」

兄さんが指差したところを、僕は背伸びをして見た。これまでちっとも気付かなかった、ただの壁であったところに、何かの文字が刻んである。僕は指先で確認するようにそれをなぞった。石は擦り減ってしまって読みにくいし、そうでなくとも字は苦手なのだけど、なぞる指がとまると兄さんが声を出して添えるように読んでくれた。……モルタヴァ?

「そう、モルタヴァだ」

兄さんが言った。僕が見上げるその顔は、ほんの少しだけ誇らしく輝いていたように見えた。僕はそれを見つめながら、川原でのことを思い出しもしながら、モルタヴァって何と聞いた。兄さんは首を振った。「分からない。人の名前なのか、この砦の名前なのか、それとも僕らの村の昔の呼び名なのか。だから僕は全部モルタヴァにした。モルタヴァの騎士、モルタヴァの砦、モルタヴァの村。これはね、ヘン。僕がほんの小さなころに見つけて、ずっと一人で秘密にしてきたんだ。ここで騎士ごっこをする時、皆には内緒でたった一人だけ、僕は自分をモルタヴァの村のモルタヴァの砦に住むモルタヴァの騎士と心の中で呼んでいた。そうすると全ては輝きだしたよ。変哲のない森の木々もその奥の湖沼も、せせらぎもはねる魚も丘も畑もすべてみんな、この砦を中心にして光り輝いて見えた。……秘密の呪文なんだね、モルタヴァというのは。でももう僕にはどうやらその呪文がきかなくなったようだ。帰ってきてよく分かった。もう僕の目には、モルタヴァという言葉に胸をときめかせた頃に見えていた美しい物が、何も見えはしなくなった。僕はもうこの言葉を使うことが出来なくなったんだね。だから君だけに教えるよ。ヘン、今日から君だけがモルタヴァの騎士なんだ」