彼はTX‐522DC君

 

 彼はTX‐522DC君。2GHz超のクロック数のデュアルコアを持つ高性能の部類のパソコンである。といって彼の名がTX‐522DCというのではない。それは単なる型番だ。だがこの作品では便宜上TX‐522DC君と呼ぶことにする。
 繰り返しになるが、同じ型番を持つ同じ性能の彼の兄弟たちがごまんといる。いや、ゴマンといる、ゴマンといてほしいというのはメーカー側の切なる願いであろうが、残念なことにゴマンとはいない。せいぜいサンマンというところだ。といって彼氏が散漫というわけではない。コンピュータらしく緻密で几帳面、人間ならば典型的なA型。一度決めたことは確実にやり遂げるか、フリーズしてテンパってしまうかというところまで正しくA型であって、ちゃらんぽらんのくせにでかいことだけはやりたがるO型や、目先の楽しいことに終始し手のひら返しまくりのB型とは違っている。しかしO型気質やB型気質のパソコンってどんなんだろうね。
 それはいい。ともあれTX‐522DCサンマンの兄弟のうちの一台であるこのTX‐522DC君は、同一メーカーから同時に発表されたTX‐521meやTX‐522DONという一族に対して優越感を抱いていた。なんせTX‐521meなんて廉価版で、二線級のCPUを積んでいるのだし、TX‐522DONはCPUこそ同型であったがメモリとHDが、これでどうやって実用するんだと疑問に思うくらいに少ない。
 要は本命のTX‐522DC君を際立たせるための見せ球なのである。
 かく言うわけで、TX‐522DC君は親の愛情をたっぷり注がれて作られたパソコンであった。そして兄弟たちは西へ東へ赴き、このTX‐522DC君も店頭で販売されることに相成ったと思ったらすぐに買われた。どうもそこそこ人気の商品となったのか、店員の売り方が上手いのか、ちょうどいいカモが見つかったのか、どういう理由かはわからない。
 買ったのは、人が良さそうでお金に困っている様子などない老夫婦だった。ハイネックのセーターの上にジャケットをダンディに着こなすじいさまが、TX‐522DC君の梱包されたダンボールを小脇に抱えようとしてふらつき、店員を慌てさせ彼の細君を微笑ませた。TX‐522DC君はダンボール越しに、右に左に揺れ動く感触が伝わってきて気分が悪く、頼むからじいさん床に落としてくれるなよと念じながらも、売られていく自分の境遇をこんなものかと飲み込もうとしてもいた。
 運びこまれたじいさんとばあさんの家は、だだっ広い印象があった。豪邸、というよりも、純和風の間取りの開放感のせいと、共に暮らす子供や孫といったものがいないせいだろう。
 案の定和室に運び込まれ、書見机の上にセットされる。TX‐522DC君は無事に組み立ててくれるかがちと不安だったが、それは販売店の店員がサービスでやってくれた。
 サービスというとどうも結構なようだが、とTX‐522DC君は内心でこっそり皮肉そうに笑った。店員、パソコンについては詳しくなさそうなじいさんとばあさんに、どうせかうならば性能の良いものをとお勧めして、大枚を余分に抜き取らせた後ろめたさが多少はあったんだろう。どう考えてもこのじいさんとばあさんがTX‐522DC君をガシガシハードに使っていくとは思えない。そんなことをしたらTX‐522DC君がテンパる前に、じいさんが卒倒しかねない。じいさん、明日をも知れぬよぼよぼというわけではないのだが、年相応に動作はスローモーであり、そのうえ日向ぼっこをして微笑んでいる実にいい温顔の好々爺なのだ。ばあさんにしても似たもの夫婦で、白髪頭を丁寧に整えて、いつも目を細めて微笑んでいる。
 悪い人間じゃない。だもんだからつい、店員のお勧めに真正面から乗ってしまった。店員もそのことがわかるもんだからついつい仏心を出して、店には報告しないでセットアップをサービスしてやった。ADSLやプロバイダの登録といった雑務も暇を見つけてはやってしまったのだから、店員も良心的な人間の部類なのだろう。
 大体、老夫婦はそういう親切をちゃんとわかっている。いちいち、
「ありがとう。ありがとう」とうれしそうに頭を下げ笑顔を見せる。ばあさんが、粗末なものですけどとはにかみながら台所で作って出してきた香の物と握り飯とを振舞われて、店員は故郷を思い出してちょっとだけ言葉に詰まった。
 そんなじいさんとばあさんだ。TX‐522DC君は自分の境遇にそれなりに納得することにした。それは、自分の能力を最大限に発揮してもらいたいとは思う。思うが、こんなのもまたいいんじゃないかと思いもする。おっかなびっくり、おぼつかない指でキーボードに触れ、不器用にマウスをいじってはディスプレイに表示されるほんの小さな変動に一喜一憂する。やれやれと思いつつも、じいさんとばあさんの人柄なのか腹もたたない。
 風の噂に、TX‐522DC君の兄弟のTX‐522DCの何号機の話が伝わってきた。
(ウソに決まっているだろうと思うかもしれないが、人々が寝静まると、パソコン君たちはネット定額なのをいいことに、こっそり兄弟同士でチャットを始める。昼夜逆転どころかぐちゃぐちゃで入り乱れてしまっているヘビーユーザーのパソコン君は、こっそりチャットをなかなかやれないものだから、大抵グレて、よく変なウィルスをもらってくるのだ)
 TX‐522DC君の兄弟機は、どうしようもないすけべなおっさんに買われていって、やることはえろサイトの巡回とえろ動画の再生のくりかえしだそうだ。それでもって、どうにもこうにもあやしいアングラなえろえろサイトでウィルスをもらってしまったそうで、兄弟君はアワ食ってセキュリティソフトでウィルスを駆除したが、それをレポートするとおっさん、
「いやあ、やっぱり危ないところにいくと、パソコンだって病気をもらうもんだなあ。がっはっは」
 と、聞いているほうが情けなくなるくらいの高笑いを響かせた。
 それに比べたら、ウチのじいさんとばあさんのほうがギガまし。TX‐522DC君はしみじみそう思った。
 といって、ほのぼのとしているのは結構なのだが、それがいいことばかりではないこともTX‐522DC君は知っている。
 それこそ兄弟君のように自分もまたウィルスの脅威にさらされるかもしれない。
もちろん駆除ソフトは常駐している。だが、万が一ということもある。もし自分が危険にさらされた時、あのじいさんやばあさんは勇猛果敢に立ち上がって、果断実行で適切な処置を行ってくれるだろうか。
 疑問だ。
 いや、じいさんもばあさんもいい人間だ。好きか嫌いかといわれれば好きに決まっている。だが人間の善意を上回る悪意というものがネットには氾濫している。じいさんやばあさんのような人間には知ってほしくない人の醜さだ。
 そして、悲しいかな、美しいものと醜いものが争えば、美しきは儚く、醜きは猛々しい。
 じいさんとばあさんは、きっと敗北する。いや、敗北という問題でさえない。自分の状況がわからぬまま、じいさんとばあさんにとってはちんぷんかんぷんな魔法の小箱であるTX‐522DC君を失ってしまうことになるだろう。そしてTX‐522DC君の骸の上に、じいさんやばあさんは現代のバーチャルな世界の病巣を見出し、人間というものに失望したままくらい余生を送ることになるのかもしれない。
 オレは闘う。闘い続ける。この生命、尽き果てるまで。TX‐522DC君は演算処理上で高らかと誓った。ただし実際戦うのはウィルス駆除ソフトである。
 だが、その日は、意外に早くやってきた。
 トロイの木馬。
 木馬である。
 木馬か。TX‐522DC君はシャアのようにつぶやき、しかし、やられなければどうということはないと決然と言い放って手下のウィルス駆除ソフトを展開し、戦わせた。
 激闘。
 しかし、見事にウィルス駆除ソフトは木馬を撃退した。きっと左舷の弾幕が薄いのを巧みに突いたに違いない。
 ふっ。手下に闘わせたくせに、TX‐522DC君はいい気になってご満悦の内心を、チャールズ・ブロンソンのマンダムのポーズで示した。無論、TX‐522DC君はパソコンだから、そのポーズはアスキーアートである。
 さあ凱旋報告だ。TX‐522DC君はディスプレイ上にウィルス駆除のレポートを上げた。
 いつものようにパソコンの前に座ったじいさんが、それを見つけた。
「おい、ばあさん。ばあさん。大変だ。大変だよ。ウチのパソコン君がウィルスだってさあ」
 いや、違うぜじいさん。ウィルスがやってきたんじゃなくて、ちゃんと駆除したんだよ。勝ったんだ。勝利だよ。あえて言おう、こんなウィルスなんぞカスであると。優良機種であるオレが負けるわけはないんだ。
 どたどた。
 ばたばた。
 ばたん。
 ばたん?
 おい、じいさん。おい、ばあさん。どっか出かけちまったのか?
 ……。
 ……。
 ……。
 ……。
 ……。
 あ、戻ってきたぞ。
 う、い、いやな予感がする。TX‐522DC君は焦った。
 ばあさんが近くのドラッグストアのビニール袋を小脇に抱えている。
 よ、よもや。おい、じいさん。ばあさん。か、勘弁してくれ。
「ほれ、あーん」
 そういいながらじいさんは、コンボドライブをイジェクトしてトレイを出した。
 じいさんばあさん、コンボドライブのトレイの奥にある部分が、TX‐522DC君の人間で言うところののどちんこかなにかだと思っているのだろうか。しげしげと観察し、やっぱり機械だから、腫れているわけじゃないのだよなあとしみじみとばあさんに話しかけている。
 ば、ばあさん。TX‐522DC君は焦った。おいおいおい、おいらは精密機械なんだぞ。ホコリ水物は厳禁だぜ。そ、それあんた、葛根湯じゃないかよ。そんなもんそそぐ気なんじゃないだろうな。
 ウィルスってことで、なんてわかりやすいオチなんだ。これじゃあ読者様だって興ざめだぜ。おいこら、ばあさん。じいさん。やめてくれ。寸止め。寸止めしてくれ。
 TX‐522DC君はパニくって、突然意味も脈絡もなく、自分のHDをスキャンし始めた。これは人間でいうところの、今際に記憶が走馬灯のように蘇ってくるというやつらしい。といって彼は買われてきたばかりだから、これといった記録領域もない。あっという間にスキャンは終わった。待ってくれ、せめて死に際は綺麗に、せめて綺麗に死にたいから、デフラグはさせてもらえんだろうか。TX‐522DC君は往生際悪く、そんなことを叫んだ。
 しげしげとTX‐522DC君を見つめるばあさんの肩に、じいさんがそっとしわだらけの手を置いた。
「ばあさん……」
 穏やかだが、幾多の歳月の年輪を経てきたものだけが持つ、抗えぬ何かを宿した声だった。もうだめだ、TX‐522DC君は目をつぶった。HDのアクセス状況を示すランプが、鼓動が乱れるように不規則に点滅している。
「感冒にはな、これが一番なんだ」
 じいさんは、そう言うと、手に何かを持ってTX‐522DC君に近づいた。そして、
「感冒はな、あったかくして寝るのが一番いいんだ。おやすみパソコン君、元気になったらまた遊ぼうな」
 手に持っていたパソコン用の防塵シートを、そっとTX‐522DC君にかぶせたのである。
 ばあさんは、熱さまシートをTX‐522DC君の本体側面に何枚か貼った。



 TX‐522DC君は、ちょっとだけ涙ぐんだ。