ジャポニズムの倫理と資本主義の精神

 

 

 世の中、四角四面というばかりではない。時折とんでもない、あっけに取られるような神秘に出くわすこともある。ネス湖のネッシーとか、長野のヤッシーとか。
 田村はその日、職場のトイレに篭っていた。四方を遮蔽された中の洋式トイレの側にたたずみ、鼻炎か何か、鼻をぐしゅぐしゅとさせている。用足しのためではなく、鼻をかむためだった。ずるずると音を立てて鼻をかむのは静まり返った職場では少しばかりはばかられたのだ。
 トイレットペーパーで鼻をかむ。
 職場の庶務はケチで、トイレットペーパーの紙質は粗悪の安物しか購入しない。鼻をかむと、まるでやすりをかけられたかのような感触が残る。田村は、そういえばこの前河野課長がやたらと庶務担当を叱責していたことを思い出した。そのときは庶務担当に同情したのだが、今ではなるほどと思い至る。ひそかにヅラ説と痔患者説を兼備する課長は、やすりトイレットペーパーに我慢がならなかったのではないだろうか。

 やすりで痔こすり。まさしく暴挙である。田村はそれを想像して身震いした。
 どいつもこいつもやれやれだ。田村は何度か首を振って、それから洋式トイレの満たされた水の中に丸まったトイレットペーパーを投げ入れ、同時にレバーを「大」の方に向かって勢いよく引いた。
 それが彼の運のつきだった。
 奔流となり、トイレの水が消えていく。

 それと同時だった。胸ポケットに入れてあった彼のアイボリーホワイトの携帯電話がトイレの中に落ち、ものの見事に吸い込まれていったのは。
 突然の別離、田村は愛する携帯と最後の別れのことばを交わすこともできなかったし、窓辺に寂しげな顔をのぞかせる彼にハンカチを振ってやることもできなかった。それどころか彼は、自分の携帯を失って初めて、その喪失を理解したのである。

 君去りてはじめて、その穿たれし穴の深さを知る。

 自分の罪深さに、田村は頭を抱え慟哭した。
 そのときである。
 流したはずのトイレの水の、ちょうど中心に、小さな渦ができた。それは昔懐かしいクラシックなラーメンには必ず乗せられていたナルト程度の大きさだったのが、たちまち鳴門の大渦ほどの勢いになった。冷静に考えればトイレのサイズは鳴門の大渦よりはるかに小さいはずだが、そこは白髪三千丈、修辞、勢いというものである。
 田村はそれを見てあっけに取られたが、次の瞬間さらにあっけに取られることになった。
 渦の中心から、人が現れたのである。
 柔らかげな白いローブをまとい、黄金色の髪をくゆらせる、碧眼の女神だった。ウソくさいかもしれないが、長い人生、一度くらいはこんなことがある。
 女神はありとあらゆる美白対策を施したような完璧なスキンケアのひちぴちお肌で、田村はどことなく竹内結子に似ているなあと思ったが、それは田村が竹内結子のファンだからであり、他の男であれば別の解釈もあったろう。
 女神は語りかけた。
「あなたがこの池に落としたのは、この金の携帯ですか。それともこちらの銀の携帯ですか」
 むむむむと田村はうなった。果たしてトイレは池なのかと思いつつも、抜け目なく、女神の右と左の手にそれぞれ握られた携帯を見比べるに、金の携帯も銀の携帯も、単に表面を金色と銀色に塗っているだけのようだ。大体実際金や銀でできた携帯なんて、重すぎて使い物にならないだろう。
 田村は、いやちょっとどっちもオレのじゃないっすねと答えようとしたが、女神は決定的なことを言いやがった。いや、言った。
「あなたがこの池に落としたのは、この若い人妻のナンバーがいっぱい登録された金の携帯ですか。それともこちらのじょしこーせーのナンバーがいっぱい登録された銀の携帯ですか」
 田村は絶句して立ち尽くした。
 それを見て、女神は悲しそうな表情をいっそう強めた。
「そうですか。やはり以前の携帯の方がいいのですか」
 ち、違う! 田村は叫んだ。別離したアイボリーホワイトの携帯に登録されているのは、田村をこき使う悪女の番号ばかりで、デリートすると後が怖いものばかりだ。これは救済だと田村は思った。
「ええとですね。それじゃあ金の携帯を」
「金の携帯ですね」
「はい、金の携帯です。銀は銀で惜しいけど、やっぱり金でしょ。そりゃあ」
「わかりました。そうおっしゃられるならば、この金の携帯をあなたにさしあげましょう。さあどうぞ」

 女神は金の携帯を田村に差し出した。金メッキのその表面はひやりと冷たかったが、やはりさほどに重くない。

「ではさようなら」
 急に女神の姿がおぼろげになり、次には消えていた。
 田村の手の中には金色の携帯が残された。田村は登録されているアドレスを確認したが、確かにおねえちゃんの名前と番号がやたらめったら登録されている。
 こいつはパラダイス、田村は電話をかけまくった。




 



 そんな田村の元に、出会い系サイトから莫大な額の料金の請求があったのは、無論言うまでもないことだ。