橋は落ちなかった |
小噺のような、半信半疑の話がある。 中国からの旅客が日本海を臨み、そこに浮かぶ佐渡島を見つめた時である。 佐渡というのは不思議といつも見えるものではない。さほどに高くない山々の稜線が水平線と接する空に明瞭な陰影をのこしながら刻みつける時もあれば、ほんの僅かなその痕跡だけが茫洋とした空気の中に見え隠れしているだけの時もあるし、影も形もないことさえある。ともあれ、そのときは見えたのだろう。 中国人は感嘆した口ぶりでつぶやいたとのことだ。 「日本にも、大きな河があるのですなあ」 与太ではあろうが、大陸の間尺とはさもありなんというスケールの大きさが伝わってくるような心地がする。 そんな気宇からすれば、その日本海に注ぐ信濃川などは小川に成り下がってしまうのだろう。だけれども、それでも我々にすれば十分に大河である。 河口は港として現在も埠頭を保ち、大きなもので2万トンのフェリーが就航している。国際港として開かれたのも幕末の日米和親条約からであるから、その成り立ちも随分古い。それだけの港をごく自然に形成する大きな川である。 川は、かつては国境でさえあった。 江戸時代、東岸より先が新発田藩領で、以西は長岡藩の領有であることが長かった。それだけにそれぞれに住む人間の気質も異なってくるし、互いが互いをあまり好ましく思わないということも生じてくる。 川向こうから、さざなみに似た、川の水の揺れるような音が聞こえてくるのは、あれは向こう岸の連中が水気ばかりの粥をすすっているからだなどという悪口があり、川向こうの人間は、何、向こう側から何も音が聞こえてこないのは、すする粥すらない証拠だと嘲る。そんな、子供じみた反発や対立という心根も、川が隔て、ために生じたものでもあった。川は向こう岸を、全く別の世界に追いやっていた。定めし往時、薄や蒲が茂り雲霞たなびいて、彼方の対岸は全くぼやけて見えただろう。この川を飼いならすことができず、水利を田畑に生かしきることもできず、人が活用できぬほったらかしの湿地がころがってばかりでもあったろう。 そのくせ人は、そのぼやけた向こう側の世界に行くことを、一方でためらいつつ、しかし一方で強く求める。それは向こう側の世界の物品が招き寄せることもある。人がそうすることもある。だから、川を渡り、川を越えてゆこうとする。 川を渡る。そこに向こう岸がある限り、人はその渇望を必ず抱く。 川を渡るそのために、人は渡し舟を使った。 舟といっても海峡を力強く渡る連絡船などではない筈だ。小さな舟での行き来。不自由に決まっている。流れの強いときは容赦なくもてあそばれただろう。事に急かされ焦れながら、粗末な波止場に舟のやってくるのを足踏みして待ち続けた者もいただろう。雨風にさらされた者、雪の降るに凍え、しもやけだらけの赤い手に息を吹きつけ我慢した者もいた筈だ。そして、戯言という自覚を持ちつつも、そこに橋があるという幻影を胸中思い浮かべずにはいられなかった者も一人や二人ではなかったに違いない。 そこに橋は、長らく存在しなかった。 理由は単純だ。架橋するには向こう岸は遠すぎた。それを為すには、気の遠くなるような時間と、何千何万という木材と、腕利きで勇敢な大工、そして莫大な資金が費やされねばならなかった。ましてや互いにいがみ合う藩と藩との国境である。到底無理だった。時代が移り変わって明治の御世になっても、国家さえそれを容易に為しえなかった。 だが、人の願いは通じた。 明治の中程、漸くここに一本の橋が架けられた。 長さはおよそ八百メートル。総木造。予想通りの長大さで、当時の日本で一番長い橋となった。 公の建造物ではない。第四銀行頭取の八木朋直という民間人が中心となって建造した私設橋であった。橋は、よろずよ(萬代)までこの土地を潤す橋、よろずよばしと名づけられた。そう命名したのは八木だという説がある。 八木は篤志家である。私財まで投じて橋を架けた。儲けのためではなかったに違いない。だが橋は民営である。その後の維持管理、補修といった手当ても独力でやらねばならない。それを考えると、通行は有料にせざるを得なかった。 だが、往来が有料というのは殺生な話だ。活発な行き来の妨げにもなる。 完成より十四年を経て、ついに橋は県に買い取られた。これによって誰がいつ何時橋を渡ろうと、往来は無料となった。人々は喜び、眼下に滔々と流れる大河の水の行方を目で追いつつ、自分の足で向こう岸へ赴いただろう。渡し舟の頃に比べ格段に便利になったことに驚きもしただろう。そしてその都度、この橋に親愛の情を抱いただろう。 いつしか橋は、よろずよと訓で読まれるのではなく、ばんだいと音読されるようになった。萬代橋である。だが呼び名が変化しても、その名の持つ意味への願いは、決して損なわれなかったに違いない。 だが、願いもむなしく、この橋が万人が何の忖度なく通行できるようになってから十年もたたぬ頃だった。大火があった。大火のもらい火を受け、橋杭を残し橋は炎上した。 橋は川の上に、焼け半落した無残な姿をさらした。 直ちに橋は架け替えられた。最早この橋を失うわけにはいかなかった。多額の工費が投じられた。焼け残った川中の杭も大いに利用された。なりふりかまわぬ勢いであったろう。橋は生まれ変わり蘇った。寸法は、長さも幅も、初代のものと大差がなかった。人々の生活は、いくらかの不自由な期間を経て、歓声を幕開けに再び元に戻った。 人々は、歓呼の声を上げただろう。 待つまでもなく、端は不可欠な存在になる。特にこの時期、後に新潟島と呼ばれることになる市内中心部の開発は概ね終了し、次なる用地を川向こうに求める段階に移行していた。このため信濃川以東の沼垂町が以西の新潟市に編入合併されるまでになったのである。渡し舟の頃には考えられもしなかったことが、橋が架かることによって生み出された。ふたつの土地は一つに結びつき、車の両輪となって加速度を上げた。これによりこの街は飛躍的に発展を遂げるようになるのである。 しかしながら、この二代目の橋も二十数年で再び己の萬代の名を全うすることができず、姿を消すことになった。 今度は焼け落ちたのではない。随分老朽化が進んでしまっていた。更に先々の、活発さを増して行くばかりと思われる交通、特に自動車という未知の乗物の発展が著しいことを考えれば、幅も狭く総木造であるこの橋の未来は乏しかった。 先をにらめば、新たな橋を架けねばならない。 二代目の橋は、それを静かに甘受した。 今度こそ、その名のとおり萬代に永世に続く永久橋を。その使命を背負って再度橋は生まれ変わろうとした。既に時節は昭和に入ろうとしていた。
内務省復興局は、大正十二年の関東大震災により壊滅的な打撃を受けた隅田川橋梁の再建を多く担った部署である。 未曾有の震災は関東一円の多くの建造物に甚大な被害を与え、それは橋梁を初めとする交通系統も全く同様であった。このため、この震災からの復興には、根底に災害に耐えうる頑丈さを備えた建造物の研究が不可欠であった。 それら研究と実際の再建のため、欧米の当時の先端技術が大いに検討され、導入された。この災害という負の要素を乗り越え、日本の近代架橋の歴史が花開いてゆくのである。 この復興局に対し、橋の設計が県から委託された。 萬代橋の三代目は、それら技術が外国人によってもたらされ、日本人技術者という土壌に確実に芽吹き始めた頃に設計がスタートする。僥倖といえばそうであるかもしれない。 めぐり合わせが良かったといえば、信濃川の川幅の問題も機を得ていた。 大正十一年に、万代橋より五十キロほど上流に大河津分水が建造された。これにより下流域に流れ込むはずの水量の多くは分水により蛇行し、先んじて海へと落ちるようになった。 これは、信濃川という大河相手に人工の水路を築き上げるという極めて困難な大工事であり、基礎的な計画は江戸時代から提唱されていながらも、長らく現実を前にうなだれてばかりいる問題だった。紆余曲折の末工事に着手したのが明治の末であり、その完成には十有余年が費やされている。 この工事がもっと遅れていれば、或いは橋は生まれ変わる機会を失ってしまっていたかもしれない。もっと別の方法で、不本意な形で生まれ変わったかもしれない。しかし、分水は完成し、下流域に洪水の心配が大減少したと共に川幅も半分に減った。 川幅が現状すれば、当然橋の長さも短くて済む。橋が短ければ当然建造も容易であり、費用も抑える事ができる。 先端技術の蓄積、そして川幅の減少に伴う技術的、建造費用的な困難さの低下、このふたつが最終的に新萬代橋架橋の決め手となった。 といって、それは安直な決断であったはずはない。当時の県予算が大体一千百万円。それに対しこの橋一本の架橋に二百四十万の予算がつぎ込まれた。県の予算の五分の一に相当する額が、ただ橋の一本に投入されたのである。 それは言うまでもなく、この橋にかかる多くの人の想いの強さゆえであった。 橋の設計を委託された復興局としても、なまなかな仕事、なまなかな人材ではそれに対処することができなかった。設計課長の田中豊は、その担当として、やがて一人の部下を選出する。 部下の名は福田武雄といった。このとき若干二十四歳。帝大の工学部を卒業していかほどでもない、新進中の新進だった。 福田の胸中、いかばかりか。 いかに秀才で意気天を突くばかりであったとはいえ、ただの二十四の男である。社会という大洋に出るだけでも面食らい、惑い、しくじって痛い目も見る。そんなものだ。才ある者はある者なりに、ない者はないなりに、あれこれと試行錯誤するものだし、またそんな悠長さが許される年頃だ。 そんな青年に、重大すぎる仕事がぽんと投げ与えられた。 福田の私人としてのこの時の心情は俄かには窺い知れないことをここで白状するしかない。わかるのは、福田が作り上げた設計を一瞥して、課長の田中がただ一言を断じたということだけなのである。 「君の設計はあれでよい。そのまま実施に移す」 福田はその設計を為したことに対する報酬として、当時の金で2千円という大金を支給され、それをドイツ留学の資金にしたという。 それほどまでをして出来上がった設計。それは、震災とその後の復興建設の教訓を徹底して生かし、なおかつ荘厳な優美さを兼ね備えたものであった。即ち、六連のアーチ連なる永久橋。アーチの大きさは、その中央に配置されたものが最大で、端に行くにしたがってゆっくりとそれを小さくしてゆく。アーチの一つ一つは四十メートル前後と巨大であり、であるがためにその数を少なく抑えることができた。これが橋の美観に対し、軽快ですっきりとした調和をもたらすのである。そしてこのアーチの連なりによって橋はごく僅かに放物線を描く格好となり、そのため更に強度を増す設計となっていた。 材質は鉄筋コンクリートである。だが無愛想に打ち据えられただけのコンクリートの断面がむき出しの、野暮で無骨な外観ではない。河口に程近い性質上、塩害は避けられぬとして、その表面を御影石の化粧板で覆ったのである。 水上に姿を現す部分でさえ先代とはまるで別種の、モダンで堅牢なたたずまいであったが、更に神経が払われたのは川底に穿たれた基礎工事だった。川底は十五メートル、ビルの四五階分に匹敵する深さを掘り込まれて築かれた。 この難工事にはニューマチックケーソン工法という最新鋭の方法が、はじめて日本人の手のみにかかり行われた。 この工法は、要は川底の、更に土中深く潜っての作業であるため、ビルのサイズに相当する巨大な箱を川に沈め掘削するという方式である。そして地下水や土砂が箱の中に流入してくるのを防ぐため、意図的に箱の中に強い気圧をかけておくのに特徴がある。 この工法を実施するために、関東大震災後の復興において、直接アメリカの技術者から指導を受け活躍した第一人者の技師正子重三という人物が招聘された。これだけを見ても、設計委託を受けた復興局がいかにこの事業を重視し、設計担当の福田がいかに見込まれていたかがわかる。若い斬新な技術者から生じた図面を具現化するために、最高の人材と最新の工法が惜しげもなくつぎ込まれたのは疑いようのない事実であった。 そして県は、この雄大な設計案を受け、予算集めに奔走する。 潤沢とはいえない県予算の中からの捻出が収まりきれなくなれば、川を埋め立てた用地を買収し、更に県債を発行し国の補助金を求めた。 無論求められる側の国とて税が余っているわけではない。橋の重要性に理解を示しつつも、その表面を覆う御影石や堂々たる高欄といった修景に十万円という巨額の予算を費やすことに難色を示した。 だが、それでも県側はとうとうそれを押し切った。堅牢で、不落でありながら、重厚さと物堅い美とが調和する市民の心の拠り所となるべき橋を架けることを望み、それを選択したのである。 六連アーチのそのたたずまいも川の流れや沿岸の風景に美しく調和するものであったが、それと同様に調和したのは、県や、復興局の福田、田中といった面々を初めとする、この橋の建造に関わり持った者たちの全てがそうだった。彼らは殊更に声に出すまでもなく、同じ目的に折り重なった。そしてそれは、この橋の先代、先々代がその架橋にかかる大勢の人々と共にした想いの重なり合わせでもあったろう。 強靭で、美しい橋を架けよう。
大工事である。難渋も多かった。 その初期段階であるニューマチックケーソン工法による基礎工事では、気圧をかけて行う作業現場であるため、労働者の健康診断が欠かさず、執拗に繰り返された。その管理は驚くほどに徹底されていて、お陰でこの異様な作業中に特有の症状を出した病人の類は、軽症者がほんの数名に留まった。 潜函夫は、それゆえ仕事が終わる都度、人力車で病院に運ばれて検査を受けた。 市民はそれを遠巻きに眺めていた。それは作業員の健康状態を最大限に尊重する配慮であったのだが、事情がわからない市民は全く逆のことを連想した。それほどに危険な、命に関わるような工事であると。 たちまちに風説が起こった。一度足を踏み入れると二度と戻ることができない工事が為されているというものである。 技師の正子はこの風雪に面食らっただろう。だがすかさず手を打ち、工事現場を公開して新聞記者にその実態を取材してもらうようにした。このことによって安全を重視する工事の基本方針が広く伝達され、程なく風説は沈静化した。現場の人間には、こんな苦労もあった。 かくて歳月、漸く橋はできあがった。 昭和の四年のことである。 橋長三百メートル余、橋幅二十二メートル。長さは後の東京タワーを横倒しにしたに近しく、幅は後に片道二車線の計四車線を保持しうるものであった。 この橋幅についてはそれほどまでにした所以がある。 当初この上に路面電車を通交させる計画があった。それがための余裕を持たせた破格の幅の設計だった。ところが、費用等の問題でこれはとうとう実現しなかった。戦後もトロリーバスを通す計画があったが、これもうまくいかなかった。 結局、取り残されるように、がらんとした広い橋が置き去りにされた。 それゆえに橋はその巨大さが愛されもしたが、揶揄の対象ともなった。新潟という街には分不相応な大きな橋という批判も生じた。 橋は、そこにただ静かにたたずむばかりであった。 時代も、徐々に不穏な方向に流れる頃だった。出征兵士がその上を通り、彼らの背中を見送ることも次第に増えていったし、戦争の末期には原子爆弾の標的都市となったとして、数多くの市民が郊外に疎開するために通過していったこともあった。
戦後、日本は復興を目指した。 焼け野原となった都市が次々に再建された。 その中にあって新潟という街は、戦災こそ浅手であったものの、太平洋側の目覚しい発展からすれば、後回しにされ、時代の動きに背を向けられるようになった。新潟ばかりでなく、日本海沿岸の諸都市は、裏日本なるありがたくもない異名を頂戴して逼塞するばかりであった。敗戦により大陸との連絡が寸断され、その方面への地理的な優位性も消し飛んだ。後年の田中角栄を生んだのは、例えばこういった風景である。 その上新潟に限ってみれば、それでも静かに発展のおこぼれを待っていることができるほど平穏ではなかった。 昭和三十年、所謂新潟大火により市街中心部が焼き払われた。消失戸数は千に僅かに届かなかった程度だった。そのときの炎がいかに激しかったかは、火の手が市役所にまで届き、戸籍原本を初めとする公文書が消失してしまったことでもわかる。そのうち戸籍に関していえば、現在進行中であるものについては早急に再生作業が為され、その欠損なく終えられたものの、除籍という使用されていない昔の戸籍の一部は消失したまま、ついに復元されることはなかった。復元しようにも何の手がかりもなくなったのだった。 厳重に保管されていた書面からしてその有様である。街は大きな打撃を受けた。 だがそれも、今現在から振り返ってみれば、更なる大災害の前段でしかないものだった。更なる受難が折り重なった。 昭和三十九年六月十六日。 大火より九年を経て街は復興しつつある或る一日であった。 このほんの数日前まで、新潟国体が開催されていた。国体の実施は街の復興を宣言する大事業だった。この国体のために競技スタンドが新設され、信濃川にも昭和大橋という新しい橋がかかった。その二年前には八千代橋という別の橋も架けられている。古参の萬代橋、六連アーチの古風な姿の橋は、なお現役であったが、近代的でスリムである八千代、昭和大橋のふたつの姿から見れば、その様子は鈍重でさえあった。 昭和のさきがけの頃に作られた古い橋だから仕方がない。そんな嘲笑や蔑視を向けた者もいただろう。 街は、大火の痛手を緩やかに癒しつつ、近代的に生まれ変わろうとしていた。 午後一時二分頃のことである。 市民の多くは、突然起こった事態が何のことであるか、さっぱりわからなかった。 何の前触れもなく、何かがおかしい。体が揺さぶられている。それも圧倒的に。立っていられない。慌ててはいつくばりながら家を飛び出し表に出る。愕然とする。すぐ目の前を、コンクリートで舗装された地面が割れる。それもその地割れが猛烈な速度で足元から向こうへと走っていって、見る見る地面が割れていく光景がそこにあるのだ。 それが、粟島沖を震源とする新潟地震であった。 痛ましいことが目を覆っても覆っても反復された。 川岸町の県営アパートは、根元から崩れ全く横倒しになった。 それだけではなかった。昭和石油の石油備蓄タンクが地震により破壊され、大火災を発生された。石油コンビナート火災の、わが国における最大で最悪の炎上が始まった。炎は付近の民家を延焼すると共に、天に向かって黒煙を無尽蔵に吐き出した。見る見るうちに空は煙で占められた。昼下がりだというのに、街は夕方のように日差しを失った。このコンビナート火災は地震発生より十二日を経て、漸く鎮火した。それほどのどうにもならない、どうにも手のつけようのない炎だった。 大火によって漸く復興し始めたばかりの新しい街は、再び容赦なく薙ぎ払われた。 さらに悪いことが重なった。 津波が、やってきた。 市内東部は全く水浸しになり、その後一月も水が引かない場所も出た。 新潟空港滑走路は冠水により一面水で溢れかえり、コントロールタワーが浮きすである湖沼に等しくなった。津波と水道管破裂による冠水や液状化現象により、街は全く水浸しとなり、道路は幾重にもわたって寸断された。 地震による道路の断絶、冠水、火災。市内の交通は麻痺し、多くの市民の身動きは取れなくなった。そして、追い討ちをかけるような事態が続いた。 橋が、落ちたのである。 八千代橋は即座に復旧不可能な打撃を受け、車両通行などもってのほかだった。完成して数ヶ月たつばかりの最新鋭の昭和大橋に至っては、完全に崩落し、橋桁を川中に沈めていた。 新しい橋も落ちたのだ。萬代橋も例外ではないに違いない。多くがそう思った。何せこの段階で十分に古橋であった。 いや、橋は落ちた。萬代橋は落ちた。落ちてしまった。実際にそんな風説さえ飛び交った。 人々は、河岸に達した。そして見た。 橋は、落ちなかった。 昭和の初年に建設された古橋は、多年の風雪を経て表面老朽化しながらも、それはそのたたずまいを荘厳に見せるだけで、ほんの僅か、橋梁部はただ十センチだけが沈降するのみの被害で苛烈な振動に耐え抜いた。 恐る恐る、最初の車の一台がその背を通過する。 何の問題もない。微動だにしない。 当時最新鋭の工法を惜しげもなく用い、深く穿たれた基礎部。関東大震災の教訓を生かし最上の強度が得られると確信して導き出された鉄筋コンクリートの六連アーチ構造。そしてそういったものを作る人々の合致した、不落の、美しい橋を生み出すという志。それらが時を経、事有る時に正しさを証明した。運不運もある。結果だけを見て全てを判定するのは構成ではないだろう。だが、ただひたすらに最新鋭であるものばかりが尊ばれるべきではない。新しい橋は落ち、三十年以上も前の一途な、もしかしたら愚直かもしれなかった誠意が苦境で天に通じ、古橋を守った。 直ちに、罹災市民救援のために、多数の車両が萬代橋を通過した。 続々と罹災市民が、その上を通った。彼らの惨状に心痛める肉親や友人らが、背に飲料水や食料を背負って、その上を渡った。 瓦礫の街。黒鉛を上げ続けることを止めぬ石油タンク群。未曾有の災害の只中にあって、萬代橋は涙をにじませたくなるほどに堅牢で頼もしかった。他の橋は全て使用不可能となったが、ただ一本萬代橋が全く健在であったことにより、人の往来や物資の搬入は滞りなく継続された。この時橋は全く我が一手で、市民の生命と生活とを支えた。 市民は、この古い橋に救われたことを悟った。それはただ単に交通の狂いを生じさせなかったという実利ばかりではなかった。苦境にあって、なお気高く健在である姿に勇気付けられもしたし、苦境に遭遇してなお健在でいられる堅牢さがどういったものによって生まれそのように結実したのか、ものの本当に芯の、大切な部分を目の当たりにすることにもなった。 心の支えでもあった。 偉い橋だ。市民は橋を敬慕した。
萬代橋は落ちなかった、ということを、例えば私などはことあるごとに教えられた。大人たちのその口調には十分な敬意が込められていた。 毎年六月十六日は、避難訓練に充てられていた。その席上、子供たちに向けて先生が地震の恐ろしさ、迅速に乱れなく非難することの大切さを語ると共に、橋が落ちなかったことを語り伝えてくれた。 この橋は、他の橋とは全く違っていた。同列に並べていいものではなかった。そんな雰囲気さえ、大人たちは教えてくれた。 橋はその後、幾度も補修された。地震に耐え抜きながらも細部には打撃が存在しないはずもなく、その後も老朽化によって痛んだ箇所の修繕が行われた。それでいて、もうこの橋に先々の展望は存在しない、という声は、今なおどこからも聞こえてこない。橋それ自体の根幹の部分はこれほどに時代が変遷しようと、何ら損なわれることはない。 かつて、路面電車の構想がありながら実現化せず、新潟には似つかわしくないと揶揄されたその幅広の格好は、片側二車線計四車線の交通の大動脈として、現代の道路事情をまるで見越して建造されたかのように適合している。現在その下流域に更に橋が増え、交通量の分散が図られているが、それでもなお最も交通量の多い橋であることに変わりはない。 市民の敬慕も、失せたわけではない。むしろそれは、派手さはないものの着実に浸透している。 初代架橋から数えて百年目に当たる一九八五年、橋をライトアップする計画が提唱され、その費用は市民、県民の募金により賄われた。二〇〇三年の改修では欄干の高さが国の定めた基準を満たさないことが問題になったが、いたずらに欄干を高くしては橋の景観が損なわれ、慣れ親しんだ橋の姿とは全く別ものになってしまうと市民は大いに心配し、国と折衝した上で、欄干について現状維持が決められた。 敬慕はやまない。 市民グループの活動が原動力となり、機運が盛り上がった結果だった。二〇〇四年の事である。橋は、重要文化財の指定を受けた。一般国道における橋梁としては、この指定は日本橋に次ぐ第二例である。 その碑は、橋の袂にひっそりと建っている。橋は殊更に栄誉を誇示するでなく、今日も黙々と向こう岸とこちらとを渡し、大勢の人や車をそれぞれに送り出す、自分の勤めを果たしている。矍鑠、なお微塵も衰えを見せぬ七十七歳の健在ぶりである。 |