絵師永春

 

 

 絵師永春と問われ、知らぬと答えるがやぼであると、そんな頃も都にはあったという。

 本朝大和絵の金雲たなびくみやびな金碧画を良くすると思えば、唐の手法に堪能たるをいかんなく発揮した水墨画を障壁に、あるいは一双の屏風に描き切る。「永春の実力、その尽き果てる極みも見えず」などと持てはやされたのも、無理ないことであったろう。

 ともかくも、永春の精進と熱情とが声望を生み、その声望が永春を押し包んでますます絵師の高みに至らしめるという順風満帆、その門に絵画制作の依頼する者は絶えざるなしとまでに喝采を集めたのである。

 その永春の名を揺るがざる不動のものとしたのが、沙羅寺の塔頭(たっちゅう)西鹿院の障壁画「雲龍図」である。水墨画、黒白の濃淡ただそれだけの世界が緩急自在に画面に展開されるこの特殊な芸術にあっても、永春の「雲龍図」はひときわ人の目を瞠目せずにはいられぬ出来栄えであった。群雲の黒雲は、風もないのに大風を感じさせ、稲光もないのに雷鳴の戦鼓のように轟くを思わせ、果たしてこれが平坦な世界に描かれた絵に過ぎぬのかと、見る者をして戦慄と共に戸惑わせるのだった。

 濃淡の鮮やかさの中に、人々は風神雷神を見出さずにはいられなかった。そして、その群雲の中に長い体をうねらせる大龍は、画面の四隅を埋め尽くすような勢い、まさに天上全てを覆い尽くすようなほとばしりながら、なまずの髭がひょろりと縮れたその顔にはどこか愛敬が宿り、畏怖に泣き出しそうであった童も龍顔にはくしゃくしゃの顔をほころばせるのが常であるのだった。

 雲龍図は絵師永春を強烈に洛中に印象づけ、我が屋敷我が城にもその筆をとその門を叩く、寺社、公家はもとより、将軍家、果ては禁裏の奥におわします方も人を介してそうなされたとか。

 何はともあれ、絵師たる栄耀の極みに永春があった事に間違いはない。が永春は、別に人間として未熟であるわけでもなく、それに有頂天となって身を持ち崩す愚者には程遠く、そのきらびやかな名声は己が天下一の自負ただそれだけに止め、後は他人にも自分にも自分の絵にも誠実でありつづけんとした。自負は肥大して永春を鈍磨させるでなく、加速して永春を追いつめるでなく、永春を良い意味で弛緩させる事のない厳しさの鞭となって、向かう作品に挑ませる力となった。それがまた評判を生み、名声を生み、富を生んで、失うものはただ己の時間のみ。それも絵師たる充実を手放して取り戻そうなどとは夢想もせぬ満足あっての供物。永春は絶頂にあった。

 だが絶頂などというものは、過ぎてしまえば夢幻のように薄弱であるものなのだろうか。永春は衰えた。衰えたのだとしか我が絵に相対して思う事ができないようになった。いつより? 決定的な節目などは永春がいかに思いわずらっても見えてはこない。とにかく、気づいたときには、永春は己の絵にまるで美を感じる事ができぬようになっていたのである。

 それもまた人の世の常。斜陽という摂理。ならばそれもまたやむなし。心境も枯淡に至り、ごく自然にそう思えるようになるならば永春も納得できたであろう。しかしそれは、己の腕前の衰えとは永春には思えないのだった。所以は他律にある。高弟たる一華、その永春に絵筆を学び永春の様式で育った俊才が、徐々に永春を脱却し大輪の花を咲かせはじめた頃、いつのまにか永春は弟子の絵を前にした自らの筆に絶望を感じてしまっていたのである。

 一華とは、永春の与えた名であった。武家の子弟で何事かの事情で禅林にあずけられていたのを、いくつかの仲介と偶然で永春の門下に入り、長ずるに従って門下第一の高弟となり、永春に一華の名を授けられた。

 それと共に、永春は一華に別のものを与えた。愛娘の風(ふう)である。評判の美人であった。永春は幾人か娘のおる中で不思議とこの風を一等溺愛していた。そのためか、縁組みといっても無理強いする事なく、それとなく先回りをして娘に一華との縁組みの是非を正したところ、満更でもなさそうな雰囲気であったために、あの一華にしてこの娘ならばそれもよしと、さっさと心決めた事を実行したのである。これを以って、一華は永春一門の筆頭となる事が名実共に確定した。

 だがそれは、一華がなお永春の手のひらの中にとどまりし頃の話である。わずか前の事、だがあまりの変転に、永春は呆然とする。画力弟子に及ばぬと心ひそかにうなだれ脅え憤怒している今の永春が、あの時の永春であったとき、ああも潔く、やすやすと、娘を手放せただろうか? 鬱する永春自身もまた、そのような埒もない煩悶に襲われ、時として頭を抱えるのであった。

 永春、そのように鬱々として筆も容易に進まぬある新春、一門の勢揃いの中、永春は上座にて一門を統べる一華の初春の挨拶を受けた。その傍らには嫁いでふたとせもたたぬというに、すっかり一華の妻として落ち着き艶やかなる娘の風が並んで座っていた。永春の娘、一華の妻なればこそ、この場に姿を現す事も何ら不自然ではなかったのだし、当の風本人は久方ぶりに父親にその姿を見せてやりたい孝行心もあっての事だったのだろうが、その時の永春にしてみれば、それは残酷でなくもなかった。絵師天下一と持て囃された己を凌駕する男の側に、愛してやまぬ娘がにこやかに微笑んでいる。一華の丁重にして師への敬慕あふれた挨拶、風の幸せそうな笑顔を真向いに受け、永春は虚ろであった。

 その永春の内心の動きを、誰一人として知るはなかった。娘の風、娘婿の一華ですら、永春がそのようなどす黒い思いに憑かれているとは毛ほども感づいていなかった。彼らにとって絵師永春とは、傑出した画才と、その己の才に溺れぬ気高い精神を持った立派な人物であったのだ。そして永春自身もまた、これまでずっと、自分をそういう存在たるよう練磨し、また事実その尽力ゆえそういう存在たりつづけてきたのである。が不惑を経たというに、永春は己の真の姿を嫌というほど見せ付けられ、心は流浪にあった。

「お父様?」

 永春ははっとした。一華と風とが笑っている。気を取り直してそれとなく聞き漏らしていた話の様子を探れば、どうも一華が近作を披露したいということのようであった。永春はからくり人形のように肯いた。

 一華は鼓を打ち鳴らすように手を叩いて、一門の若い者たちに一隻の屏風を持ってこさせた。

「師よ。我が筆による花鳥図でございます」

 ああ、永春は長嘆した。哀が胸から突き上げ、それでも一華の美から目が離せなかった。永春は薄く薄く落涙した。顔の皺に紛れて、それは誰にも知られはしなかった

「一華よ。お前はやはり門下第一である」

 そう言って永春は席を立った。一華は永春の言葉に深く平伏し、全身で恐縮と感動を表していた。隣にある風は、二人を微笑ましく眺めたが、去り行く父の背中が変に寂しそうなのだけが気にかかった。お前はやはり門下第一である、永春は心の中でその言葉を繰り返していた。門下第一、そう、わしも含め、門下の第一……。

 その日より数日を経ずして、永春は洛中から消えた。娘の風には手紙をしたため、しばらく寺詣ででもするとだけ報せておいた。それに安堵があったか、一門の者たちは永春の自由を妨げぬよう、取りたてて騒ぎ立てる事もしなかった。

 こうして孤影は、行く手の寺社を目指しながらも、心には当て所もなく、ひたすらに都に背を向け続けた。

 

 

 長延寺に長逗留して幾許、都の淡雪もこの辺りに至れば足首が埋まるほどだが、それも幾分かはゆるびて来た頃、永春は住職と向かい合って、だが取りたててものを話すでなく、障子戸の向こうの風の音を聞いていた。障子の白さが一際透き通る、表の好日である。

「この頃は、雪の照り返しも眩しいてな」

 住職は白眉白髭の奥から笑った。はは、永春は曖昧な笑みで応じようとしたが、顔の暗がりを完全に消す事はできなかったと、自分ですら自覚していた。

「絵筆は進んでおりますかな?」

 はっと永春は視線を上げて住職の好々爺の笑みを見、すぐに膝元に落とした。この寺に長逗留を申し出ていらい、住職は取りたてて永春にそれを聞く事もなく、つまりは放っておいた。それが永春にとっては心地よいものであったのだが、しかし永春としては住職が我が心内の何ごとかを察し、黙して語りかけてこぬ事ばかりを思い込んでいたために、突然の住職の問いに驚きながらも存外俗な問いを発せられると勝手な苛立ちを覚えもした。

「いかがかな、永春殿の最近の絵の具合は」

 だが住職は、絵の話題をやり過ごそうとする永春の腹積もりにとどまらぬ執着で、再び問いを発した。永春は渋面を隠し通す事もできなくなった。

「洛中の喧騒から逃れ、絵筆を取れという叫びから逃れして、ここに伺ったのです」

 住職は笑った。「永春殿は鳥をご存知か?」

「鳥、でございますか?」

 いぶかしげな顔の永春に、住職はにこやかな笑みを向ける。

「左様。鳥でござる」

「お戯れを。鳥を知らぬなどという者が、この世におりましょうや」

「ならば試みに問わん。鳥とは何ぞ?」

「…………鳥、とは」

「他の獣と、鳥と、どこが違うのでござるか」

「翼を持ち、空を舞う事ができる、それが鳥ですな」

「その通り。鳥とは、勿論飛べない鳥もおるがの、翼を持ち、空を飛ぶ、羽毛のはえた生物の事じゃ。翼もなく、飛ぶ事もできず、羽毛もない、そんなものを鳥とは呼ばん。絵筆を握らぬ絵師を絵師と呼ばぬのと同じくの」

 永春は息を呑んだ。眼光が自然と鋭くなる。だが、住職の笑顔はどこまでも無垢で、嘲笑の意図も、憐憫の眼差しもなかった。それを見つめているうちに、永春は赤子帰りしたような気分になってきて、そのうち、自分でも柔弱よと呆れ果てつつもやるせなく、泣きたい心地をこらえつつうめいた。「……描けぬのです」

「でも描きたいのじゃろう。描く事を死ぬほど恋うておるのじゃろう」

「はい。はい。おっしゃる通りなのです」

「だと思ったわい。永春殿、おぬしの目には執着の色が濃い。悲しみを湛えた濃さじゃ」

「しかし、描けぬのです」

「描けぬということがあろうか。おぬしは五体まだまだ満足、これまで酒もろくにやってこなんだゆえ、手先が震える事もなかろう。拙僧などよりもよほど禁欲生活をなされていらっしゃるお方じゃ」

 愉快そうに住職は笑い、つられ永春もかすかな笑みを浮かべた。

「それで描けぬのか?」

「描けぬのです」

 永春は低くつぶやいた。目を閉じる。心に浮かぶは一華の絵。あの偉才の、一皮が向けた四方への伸びやかさ、さらにまだ伸びんとする若木の予兆、あれを前にして、その美に感動する片手間で我は何を思ったか。師としての面目、嫉妬、怒り、負け犬の自分への慟哭、天下一の誇りの崩壊、ついには、洛中を捨て逃げる事しかできなかった……。

「描けぬのです」

 いつのまにか、永春は住職に、己の心内の一切を打ち明けていた。ぽつり、ぽつりと口からこぼれ出たそれは、やがてせせらぎが奔流へと至るよう、永春の口を伝って赤裸々に尽きせず外に飛び出した。呆れ果てた事に、永春は娘の風の事まで口走った。掌中の珠が閨の一華に戯れられるとは何とも口惜しい……、其処まで言い放って永春ははっとし、口をあんぐりと開けて自らの窺い知らなかった心底の吐露に呆然とした。

「描けぬのも、当然ですな」

 永春は黙りこくった住職を前にし、そう言って自らを嘲った。美。それへと至るための画。ただそれだけのために幼少はじめて絵筆を握りしめてより一途に歩み続けてきた自分、それをずっと正しく、我が人生よと肯定しつづけてきたが、余念を抱かぬようにと自戒しつづけてきたところで、醜は結局己の心に汚泥のように沈み、自分はずっとそれに気付かず生きていたのだ。

 永春は席を立とうとした。もはやこの寺に逗留するのも切なかった。また何処へか。それともいっそ、いっそのこと、儚くなってみもしようか……。

「またれい」

 住職は短く太い声を発し、腰を浮かしかけた永春を制した。

「なんぞ、大仰な。もっと大層な憂悶かと思えば、少々虚を衝かれた」

「……些事、些事であると? 私の憂いが」

「左様」

「ご住職……」

「なるほど、永春殿は確かに仏でも聖人でもないわい。しかしなぜそれを恥じる? あたりまえであろう。わしに言わせれば、仏法を習得せんと己を練磨する修行僧でもないおぬしが凡夫たるは至極当然、いやそうでなければわしらの立場がないというものよ」

「しかし、私の心はよどんでおります」

「赤子でもあるまいに。よどんでいてあたりまえじゃとゆうておる」

「しかしよどみは、この通り、私から絵筆を奪いました」

「なんの、おぬしは弟子の才気に目眩んで、今は目を閉ざしているだけなのじゃ」

「ご住職、我が心の目を見開かせるには、どうすればよろしいのでしょう。御坊方のように座禅でも組めばよろしいか?」

 永春の言葉に住職は高笑った。

「座禅で悟って絵を描いて、それのどこが面白かろうか。凡夫が執着を燃やし、それを刻印する事こそが美であらんや」

「しかしわたくしには醜い心の執着がございます。やはりそれを消してみない事には、どうにも絵筆が握れそうにありませぬ」

「それを消してしまえば、お主自身もまた消えるのじゃ。執着を捨てるのではなく、背負ったままで何事かを探すが、美を求めるお主らの仕事であろう」

 永春は住職に向けて肯きはした。が、多少気持ちが楽になったというほどで、心が完全に晴れたというわけでもない。絵を思えば、たちまちに一華の画布が頭に浮かぶ。それを執着といい、それを抱えて描き続けて行かねばならぬとしたら、いかにして自分は頭に浮かぶそれを打ち消せばいいのだろうか……。

 住職は、そんな永春の顔を覗き込むように腰を半ば浮かし、それから言った。

「まだ、吹っ切れぬか」

「……はい」

「ならば今宵、面白いものをお目にかけよう。今は半月の頃、月が地平に没し、光明が失せた真夜中に起こしに行くゆえ、寝入らずまどろんでおるがいい」

 

 その夜、宵からずっと、永春はまどろめずに外の月光の具合を察していた。閉め切った雨戸は光と永春とを完全に遮蔽する。永春は月光に取り残され、凍てついた隙間風が寝床内まで忍び寄るのに体を縮め震える。寺の小姓がくれた行火が温みを支えてくれはするが、布団綿の芯は氷板のように固く冷たい。

 少しは寝よう。住職が起こしてくれるだろう。だがそう思ってもなかなか寝られるものではなかった。いったい住職は何を見せてくれるというのか? あるいはこの寺伝来のもの、秘仏なり、あるいは仏画であろうか。永春は絵師だが仏画にはほとんどこれまで興味が持てず、そういったたぐいのものを描いた事もなかった。なるほど、永春は我が身に苦笑する。わしは座禅を組んで絵が描ける男ではない。そういうことなのだ。なまじ今ごろになって発心を起こしたところで、仏は相手にすまい。悪鬼羅刹といい、あるいは修羅などともいう悪霊に魂を売った事もないが、さりとて寺院の奥座で瞑想する我という図もまた、所詮は住職の言う翼のない鳥の醜態なのだ。

 描く、描くしかない。

 如何ほどか時は過ぎたか、永春の鼻頭が凍り付くように冷え、耳たぶもちぎれそうになるのを時折寝床から手を出しさすってやっていた頃、ようやく住職が襖の向こうから、低く声を発して永春を促した。永春は小声で返事をし、綿入れを羽織って寝床を蹴った。

 住職は最初永春に声をかけただけで、後はひたすら無言のまま、唐渡りのもののような燭をともしながら廊下を長らく歩いた。永春も重職の無口につられ、ただひたすらに老爺の背を追った。仏具を収める倉にでも行くのかと思ったが、住職はやがて中庭の方に向かい、雪駄に履き替えて庭に下り、雪を踏んで敷石の上を歩いた。永春も付き従った。住職は庭の片隅の唐のを模したものに入って、それから永春の方に振り返って語りかけた。

「永春殿よ。おぬしは其処で、まず天と地の雪模様でも眺めるがいい」

 永春は従い、まず天を仰いだ。

 月は既に失せていた。凍星、その冷ややかさが、聞こえぬ音を発しながら永春めがけ降り注いでくる。

 永春は追い立てられたように足元を見た。先から痛みを伴う冷たさと水気の気色の悪さで訴えかけてきていた雪は、粉雪が淡く世界を覆った可憐さの時期をとうに忘れ果て、砂利のようにざらついて固まり、その春を来させんとする意固地さを我が白さで現していた。そのこびりついた冬が、だが地上の一切を無垢に隠蔽するのである。

「真昼の光が失せると、かくも奇怪で神秘な世界が訪れる。……いや、あらゆる事物の中に元来存在する一面としてのそれは、真昼には見えず、こうした寄る辺のない闇の中で露になるといったところかの」

「……まさに。まさに」

「わしのような生臭坊主は、万物の千様にして一なるそれを仏として知ろうとする。が、わしとても凡夫、万物どころか、ただ一物の真なる仏など見えてはこぬわい。だからこそ修行するのじゃ」

「はい」

「ゆえに永春殿よ。おぬしが描けぬなどというは、わしにはやはり笑止。万物に真があり、その真がさまざまな角度に美を生み出させるとするならば、お主は真昼の美を見てこの暗澹たる闇の中の美を知らぬというだけじゃ。おぬしは真昼の美に目眩み、しかも自らが心に知らず描いた真昼の美に目眩みつづけているだけなのじゃ」

「……私には、醜い執着以外に、そもそも美そのものに対しても執着があると、そういうことですか?」

「然り。そして昼間にも申した通り、おぬしはその執着を執着と捨てるべきではない。己の思い描く美を、美全てと思い込む事なく、ただ我一人の執着と心し覚りて、執着の泥沼に溺れながら、ひたすらにその執着を追うが良い。そう拙僧は思う」

 此方へ、亭を出でて暗がりに立ち、住職は永春を手招きした。永春は従った。ざくざくと音を立て、雪を踏みしめ闇を歩いた。

 住職は燭をかざした。暗に呆然と立ち尽くした格好の石灯籠が其処にはあった。雪囲いされた庭の池を臨む格好で、今は愚直に雪に耐えている。住職はその雪を払った。少し離れたところから、永春はその黒い灯篭を見つめた。不思議な事に、その高さは、やや小柄な永春の背丈と実に似通っていた。つむりの形なども、そのつもりで眺めてみれば永春のそれと似ているかもしれない。それはあくまで闇の向こうにわずかな痕跡を示すだけの黒い影である。ただ住職が照らす光にかすかな存在の息吹を感じさせるものである。覗いてみるがいい、燭の灯火を灯篭に移し、か細い火種を燃え上がらせて、住職はその揺らめきが消えもせぬような小声で永春にそう言った。

「覗けばよろしいのですか?」

「ただのまじないじゃ。そう不安がる事もあるまい」

 憑かれたように永春は、灯篭の中の灯火を、亀のように首を突き出して見つめた。雪を払ったばかりの凍り付いた石、かび臭いにおい、その中に揺らめくひとすじの炎。

 炎が、永春の脳裏にこびりついたものを呼ぶ。

 一華、その画布。

 風、娘。

 我、永春、絵師、天下一の絵師。

 炎は揺らめきつづけ、その袖振る刹那に幻影を閃かせ、次には虚ろにも闇に失せて行く。

 段々と、その幻影も形を成さぬ危ういものへと変わっていくように永春には思えた。不思議だ。初めて炎の神秘に幻惑された子供の頃を思い出す。永春の思念が融けてゆく。執着が融けてゆく。それは失せるのではない。どろどろに融解しながら、大きな泡ぶくを緩慢に広げ、永春の深層にあるなにがしかの穴に、帰結するように、ゆっくりと流れ込んで行く。

「あっ!」

 あっ、あっ、あっ、永春は小刻みに叫んだ。か細い炎の中に花が見えた。いや、それはただの炎のつづら折りの気まぐれを永春が見間違えただけかも知れぬ。だが永春は炎の中に花を見て取った。あろうとなかろうと関係はなかった。其処に花はあったのである。

「花、花、花」

 一瞬だけ、頭をよぎった花の姿。華奢な首をわずかに傾けこちらを見つめる少女のあどけない口元のような綻びようの花弁。

「あああ」

 永春の臨む世界は、花に幻惑された直後、まったくの別物に一変していた。

 宇宙、星々、去り失せた月の軌跡、風、空気、そのにおい、寒さ、凍てつき、足元の雪、闇にぼんやり薄絹のように横たわる積雪、それら全て、永春の肉体の外に位置する全てが、それぞれの境界線、区別、差異を喪失し、渾然一体のただ唯一なる混沌として永春に迫り来た。触れれば砕けそうなほど強ばった闇の空気がどこまでも透き通り、宇宙の極みまでを永春に見せ付けんとする。北天の極星をめぐる北斗が凶々しく綺羅めきながら、じっと永春を見下ろしている。

 あらゆる、当たり前のものとして永春に排斥されつづけ、勝手に隔てられてきた事物が、この瞬間二度ある事ない結合を見せ、永春を押し包んだ。

 永春は腹の底から歓喜の叫び声を上げた。住職をその場に置き去りに与えられた一室に飛び込んで、荷のまま解きもしなかった絵具を狂ったように取り出し、けたたましく叫んで寺の小姓をたたき起こしありったけの燭台を持ってこさせて煌々と部屋を照らし、あとはもう誰も彼も我もなく、ただひたすらに描きはじめた。夜が明け鶏が関の扉開くるを告げても、小姓が朝食の膳を運んできても、髭が皮膚を破り堅く頭をもたげても、顔は油に濡れ髪乱し紅く目玉を腫らしても、日が昇り中空に達しても、そのままの朝食の膳に呆れながらも小姓が昼食を運んできても、寒気が少しばかりゆるびても、松ヶ枝の雪がどさりと音を立て落ちても、小鳥が梢の上で気の早すぎる春を謳っても、やがて日が傾き白銀から黄金、そして夕紅へと姿を変えながら膨らみ落ちても、ひたひたと次の闇が忍び寄ってきても、ただひたすらに絵筆を振るいつづけた。

「できた」

 新しい朝が顔を突き出した頃、そう言って永春は敷きっぱなしの寝床に倒れ込んだ。

 屏風、四曲一隻、墨跡と和様が混在した画風の「雪中梅図」である。大ぶりの、ふてぶてしいまでの強い生命力を感じさせる梅の幹と枝ぶりは、無垢の雪中にて、屏風の四隅に堂々と向かい、その枝々に咲き誇るは彼方は絢爛に花ひらき此方はすぼまったつぼみ綻びるを可憐に見せる梅花。そして枝に、花と見まがうよう軽やかに降り乗る雪。

 白梅、其処に落陽が訪れる。

 茜の光彩は、白梅を紅梅へと。光の加減、辺り具合によって、無垢なる白さをとどめる花、ただ素直に朱を受け止め、紅梅となるを楽しむ花、うつむき夕焼けの憂悶をすらを引き受けた格好の陰りある花、華やかさと物寂しさが調和する夕紅から、その闇の痕跡だけを引き受け暗く沈んでうなだれる花、そして枝にしがみつく残雪の微妙すぎる朱の吸い。落陽が白梅に紅のグラデーョンを与えるのだ。

 そこには永春があった。華やかさと寂寥と、絢爛と滅びと、色彩の鋭さとどす黒い闇の内包と、まさに永春があった。永春は忘我し、ひたすらに熱中して絵筆を取りながら、雪中梅図に知らず我を描いていたのだ。無意識は永春の我を洗い流しながら、その奥底の我を露呈させ、永春はそれを我が腕でひたすら描き続けた。

 それが住職の言う仏であったのか、永春は一瞬だけ仏となっていたのか、それは知らぬ。また永春自身にとってもどうでもいいことだろう。永春のエゴイズムはただひたすらに純化され、主観は水晶のように透き通った。その極みに雪中梅図があった。それだけなのである。

 永春は三日三晩、ほとんど昏睡し続けた。

 

 

 

 史伝から察する事ができるのはここまでである。その史伝というのも、長延寺の若い僧侶の日記に「絵師永春来訪し、石灯籠を眺みて描く」とあるだけ。永春の行方は、この後知れぬ。

 ただ一絵師の心情を雄弁に語るは、一隻の屏風。描かれた儚くも狂おしくも妖しい梅花。永春の肉体が朽ち崩れても、その執着を万世に伝えるもの。

<了>