「アサコ、大丈夫かい。いったいどうしたっていうの。何か私が悪いことを言ったかしらね。」
「・・・・・・・・・・・。」
何に驚いたのか、急に崩れるように床に座り込んで、自失の状態になってしまった麻子を見て、ジャネットは心配そうに声を掛けたが、麻子は空ろな目をしたまま動こうとしなかった。
「母さん、母さん、大丈夫・・・。」
スミレもさすがに心配になって声をかけるのだが、それでも麻子は蒼ざめた顔のまま動かなかった。
「アサコ。どうしたんだい。大丈夫かい・・・。」
そう言ってジャネットが麻子の顔を覗き込もうとした時、ミスター・ベンサソンがジャネットを制して二人の間に割って入り、床に跪くと、麻子に向かって語りかけた。
「ミズ・アサコ。実はいずれわかるだろうからと思い、これまで私の方からは何も言いませんでしたが、セーラは・・・。いえ、ベンタは、私もよおく知っている人なんです。レイがここに住み始めてからというもの、今ジャネットが言った3人は、本当に仲が良い友達でした。まァ、ケビンはアメリカ人ですから、それほど大きな不安やプレッシャーはなかったでしょうが、外国人のレイとベンタは、毎日それは大変なストレスを抱えながら頑張っていました。だから、何かあると必ず二人は励まし合いながら、あの頃の苦しい時代を乗り切ったんです。それから、ベンタがハリウッドに行くことになって、一番喜んでいたのはレイでした。ベンタは、最初に出た映画の評判がすこぶる良かったものですから、すぐに売れっ子の女優になってしましたが、その頃ですかね、レイがロスに行くと言い出したのは。勿論その時ロスでのレイの滞在を、ベンタは無理をして時間を割いてまで助けています。そして、あなた達のことは、ベンタはレイから全て聞かされたようです。・・・ミズ・アサコ。あなたにベンタが何も教えなかったのは、レイに口止めされていたからで、レイは、あなたの生活を壊すようなこ
とはしたくなかったんです。」
「・・・私がジムと結婚して暫くしてでした。どうしても私にやって貰いたい仕事があるから、お願いできないだろうか。― そう言ってセーラのマネジャーから連絡を受けました。いくら人気が出始めたばかりの新人だとはいえ、まさかハリウッド女優から仕事の依頼を、それも名指しで貰えるなんて思ってもいませんでしたが、私は大きなチャンスだと思いました。でも、誰から私のことを聞いたのか訪ねても、知り合いのアジア人があなたのことを褒めていたので、あなたに頼むことに決めたの。― セーラはそれ以上のことは何ひとつ話してはくれませんでした。・・・私はその仕事を切っ掛けに、ハリウッドの映画関係者とも沢山知り合えて、良い条件の仕事が入るようになりましたし、ちょうどやって来た日本ブームも重なって、順調にビジネスを広げることが出来たんです・・・。」
麻子はそこまで話すと咽び上げ始めた。泣きながら、それでも言葉を搾り出すようにして続けた。
「・・・私は、ずっと礼一のことを恨んでいたのに。なのに・・・、なのに礼一は、陰からずっと私のことを気にかけてくれていたなんて・・・。礼一がいたから、今の私があるなんて・・・。あァ、なんてことでしょう・・・。」
肩を落として咽び上げる麻子を見て、スミレも居た堪れない気持ちになっていた。スミレは麻子の側に跪くと、母さん、私思い違いをしてた。お父さんは本当に私達のことをずっと気にかけていてくれたんだね。― そう言って、麻子を後ろからそっと抱きしめるた。
「レイとアサコ。あんた達の間に、何があったか知らないけれど、私の知る限り、レイは決して人を裏切ったり、悲しませたりするような人間じゃなかったよ。レイはね、この街でも沢山の人間に慕われていたし、沢山の子供の面倒もみてきたんだ。私にとっては、出来すぎの息子と同じだったんらからね・・・。だけど、こんな可愛い娘がいるなんて一言も言ってくれなかった。それがわたしにゃ、ひとつだけ不満だね。」
ジャネットは薄っすらと涙を溜めていたが、手のひらでそれを拭うとにっこり笑い、麻子とスミレを立たせると、大きな体で二人を抱きしめた。
「できたら、わたしゃあんた達ともっと早く知り合いたかったよ。レイがここで幸せに暮らしている時に、現れて欲しかったね・・・。」
「ベンサソンさん、ひとつ聞いていいですか・・・。」
それから暫くの間、麻子とスミレはジャネットに抱かれたまま廊下で啜り上げていたが、少し落ち着いてくると、スミレは涙を拭い、ミスター・ベンサソンに向かってそう問いかけた。
「セーラおば様は、私の誕生日になると、毎年必ずプレゼントを二つ贈ってくれたんですが、もしかして、それってひとつは父からのものだったんですか。」
するとミスター・ベンサソンは、スミレの方を見てにっこりと微笑んだ・
「ええ、そうですよ。レイはあなたの誕生日には、必ずベンタに贈り物を託していました。あなたの誕生日は7月でしたよね。毎年その頃になると、レイはそわそわして、よくエリーにも、何を贈ればいいか相談していたもんです。」
それを聞いてスミレは、昔から気になっていたことが、やっと納得できた気持ちになっていた。というのも、何故だかセーラは、毎年必ずプレゼントを二つ用意してくれていたのだが、どうしていつもプレゼントが二つもあるのかわからなかった。確かにセーラは売れっ子の女優で、大きな家に住んで、女優らしく生活も華やかだったから、プレゼントの二つや三つは別段不自然ではないと思えば済むことだったが、自分の肉親へのプレゼントでもないのに、毎年二つというのは、スミレからしてみれば不自然に感じられたし、多少の遠慮もスミレにはあった。それに、たまに二つのプレゼントが両方とも高価なものだったりすると、スミレは驚いて、こんなものを貰っていいのか訊ねたこともあったが、その時のセーラの返事が、自分が贈ったものなのに、的を得ないことがあって、そのこともスミレには引っかかっていた。
スミレは左手首に着けているプラチナのブレスレットにそっと触った。このブレスレットはきっと父からのものだとスミレは思った。そして、それを今は素直に喜べる気持ちにもなっていた。
「さぁ、もう廊下での湿っぽい話はこれくらいにして、早く部屋を見てやっておくれ。レイの想い出が沢山詰まってる部屋だ。ここ2、3年は。・・・と言っても、二人はレイが目を悪くして、不自由な生活をしていたことは知っているのかねェ・・・。レイはそれでも頑張っていたよ。部屋を見れば、よおく片付いているもの。勿論私はレイができなかったことしか手伝ってないんだからね。」
そう言って、ジャネットが部屋のドアを開けようとした時、1階の入り口に勢いよく飛び込んで、そのまま足音を響かせて階段を駆け上がって来た黒人の男の子が、廊下にいるジャネットを見つけると、ばあちゃんただいま。― と声を掛けて抱きついたが、周りに知らない人間がいるのに気づいて驚いた顔をすると、そのまま急に大人しくなって、ジャネットの後ろに回りこんでしまった。
「おや、ボビー。今日はえらく静かになってしまったねェ。・・・そうか、この美れいなお姉さんに照れてるのかい。さァ、前に出て挨拶をおし。」
ジャネットは、背中にぴったりくっ付いているボビーという男の子の頭を、笑いながら撫でていたが、ボビーが照れてなかなか出ようとしないので、これは一緒に暮れしている孫だと紹介してくれた。
「ボビー。ばあちゃんもさっき聞いて驚いたんだけれどね。このお姉ちゃんは、レイの娘さんなんだってさ。」
ボビーはそれを聞くと、大きな眼をびっくりしたように見開いて、スミレの方を見上げていたが、ジャネットの腕を取り、耳を貸せという仕草をしてジャネットの姿勢を低くさせると、レイおじさんて誰も家族がいなかったんじゃないの。― そう耳元で囁いた。
「あァ、私もそう思っていたよ。でも、間違いなく娘さんだそうだ。」
ボビーは、スミレがレイの娘だということが、それでも暫く信じられないようで、不思議そうに何度もスミレの顔を見上げていたが、この子は元々明るく陽気で、人懐っこい性格なのか、すぐに周りの雰囲気を呑み込むと、スミレの側に行き、手を差し出した。
「お姉ちゃん、オレ、ボビーっていうんだ。よろしく。レイおじさんの一番の友達だったんだぜ。何か聞きたいことがあったら、何でも聞いてよ。レイおじさんのことなら、オレ、何でも知ってんだ。」
にっこり笑って、愛くるしく手を差し出したボビーにつられて、スミレも手を出すと、ボビーは嬉しそうにスミレの手を取り、部屋の中に入って行った。そして、部屋の左手にあるキッチン・カウンターの椅子をスミレに勧めると、この椅子はいつも僕が座っていた椅子だけど、今日はあんたに貸してあげる。― そう言ってスミレを座らせた。
礼一の暮らしていた部屋は、ドアを入ったところが少し広いダイニング・キッチンとリビングになっていて、その右手の道路側の部屋が、いつも礼一が絵を描いていたアトリエ。左手の奥の部屋が、ベッド・ルームになっているとミスター・ベンサソンが教えてくれた。
スミレはよく片付いた部屋を、一通り見回したが、内装に多少手が加えられた感じはあるが、それでも一人の人間が長年住み続けた部屋らしく、家具や調度品の痛みぐあいを見ても、全体的に古ぼけた感じだった。
すると、後から入って来た麻子も、暫くは部屋の真ん中に立って、部屋の様子を観察していたが、その内、思いついたように部屋の中を歩き出し、ひとつひとつ目に付いた物を手に取っては、感慨深げに見入っていたが、リビングにある古ぼけた机の所まで行くと、机の引き出しを開け、中から手書きのメモのようなものを見つけると、そこに書かれてある文字を懐かしそうに見入っていた。そして、今度は机の側にあるクローゼットの扉を開け、中に並んでいる洋服やズボン一枚一枚に触れて歩いていたが、何枚目かの洋服に触れようとした時、麻子が驚いたような素振りを見せ、一枚の洋服をクローゼットから取り出すと、クローゼットの扉に掛け、そのままその洋服と長い間向かい合っていた。
「母さん、どうかしたの・・・。」
スミレは、そんな麻子の様子が気になり声を掛けたが、麻子は向こうを向いたまま何も答えようとはしなかった。
母さんには、お父さんとの想い出が、何かの形でここに残っているんだ・・・。― スミレは麻子を見ながらそう思った。でも、私には、なにもない・・・。― たった半日の間に、自分は礼一の娘という立場を意識をせざるを得ない立場になってしまったが、やはり父との間に想い出がなにもないということは、スミレの気持ちをどこかで、まだ冷めたものにしていた。
「ねェ、おばさん。何がそんなに珍しいの。・・・あァ、このジャケットかい。これはレイおじさんが一番大事にしてたやつだよ。相当古そうなのに、何度も繕って着ていたもんね。」
部屋に入ってからは、迷惑にならないようにと、ジャネットが手を離そうとしないものだから、仕方なく黙って訪問者のすることを、好奇心いっぱいの目で見ていたボビーだったが、どうもこれまで訪ねて来た者とは違う雰囲気の二人に、ついに我慢できなくなったように口を挟んできた。
「レイおじさんはね、ずっとなんでも自分でしてきたんだよ。こんな繕い物なんて朝飯まえだったもの。それに、目が見えなくなってからも、それでもみんな自分でしようとするから、ばあちゃんや僕が、何でも言ってっていったんだけど、自分の態度を変えなかったんだ。だから僕は、いつも凄いなあと思っていたんだ。でも、目が見えなくなってからは、針に糸を通すことだけは、いつも僕がやってあげたんだ。僕がおじさんにしてあげた一番のお手伝いは、それだったんだ。勿論目が見えないで縫い物をすると、あまり出来栄えはよくなかったけど、僕はいつもおじさんのこと褒めてあげたんだよ。」
ボビーはそう言って嬉しそうに笑った。
「そう。ボビーは沢山おじさんのこと助けてくれたのね。いい子だこと。ありがとう。」
麻子はそう言うと、ボビーの肩に手を回し抱きしめた。
「この古い服はね、おじさんが昔、ロス・エンジェルスにいた頃、一緒にデパートに買いに行ったものなの。まさかこんなにも長く、大事に持っていたなんて思いもしなかったわ。それに3ヶ月前、礼一と最後に会った時に着ていた服も、ここに並んでいるもののように、大事に着てきたもののようだったわ。・・・こんなに有名になっていたなら、ここまですることはなかったでしょうに。スミレや恵まれない子供達には気を使って、自分のことには厳しかったのね・・・。」
麻子はそういうと、扉に掛けてある服を外し、その服を両手で確りと抱きしめた。
「いつだったか、レイはこんなことを言っていました。アメリカは本当に自由な国って言われるけれど、平等で自由っていうことは、男も女もわけ隔てなく、全員が同じ可能性や権利を持って、それを人も社会も実践しているから、自由だって言えるんだ。なのに僕の国では、建前では自由だ平等だと言っても、未だに固定観念に縛られたり、勝手な言い分がまかり通っている。それでは人も社会も進歩しない。僕はこの国に来てそれがよくわかった。だから僕は、自分に出来ることはなんでもしようと思う。男だから、女だからと言うような人間になろうとは思わない。自分が出来ることはなんでもするつもりだ。― 確かそんなことを言っていました。レイがそこまで自分に厳しかったのは、彼のそんなポリシーがあったからでしょう。それに、勿論これまでにお話したことでおわかりになったように、色んな理由も噛み合わさったこともあるでしょう。ですから私達は、ずっと本人の思う通りに任せてきました。富や名声を得ても、自惚れることもなく、それだけのことを実際に実行してきたんですから、私はただ敬意をはらうのみです。・・・さあ、それよりもスミレ。そろそろそこの、アトリエのド
アを開いてくれますか。」
ミスター・ベンサソンは、スミレの肩に手をやり、アトリエの方に行くように促した。
スミレは、ミスター・ベンサソンに促されて立ち上がると、アトリエに入るドアのところまで行き、ドアのノブをゆっくり回し、静かにドアを開いて中に入った。
その部屋は、30㎡ほどの大きさで、長年礼一が仕事部屋として使ったことを物語るように、画材があちこちに置かれ、床も相当汚れていたが、礼一が愛用してきたものと思われる道具類は、きちんとテーブルの上に整理されていた。
そして、ちょうど正面の道路側に面した窓の側に、上から白い布をすっぽり掛けたものがあり、下の方が少し見えていて、スミレにはそれがイーゼルの足だとすぐにわかった。
「スミレ。これがレイがあなたに残した贈り物です。今シーツを取りますから、ちょっと待ってください。」
ミスター・ベンサソンはイーゼルの前に立つと、ジャネットに声を掛けて呼び、二人でシーツをゆっくり巻き上げていった。
すると、イーゼルにはパネルに張った、25号サイズ位と思われる紙に、まだ製作途中と思われるような絵が描いてあった。
「この絵が、スミレ。あなたへの、レイからの贈り物です。見ての通り、この作品は、製作途中で止まってしまったものです。実は、レイがこの絵を描き始めたのは、彼の目の病気が急速に進行しだしてからのようでした。勿論、その時には、レイはすでに絵を描くことを諦めていました。ですから私達は、レイがこの絵をいつから描き始めたのか知りませんでした。それに、レイがこの絵に取り組めたのも極短い間でしたから、満足に描けたものとは、本人も思っていません。」
スミレは、ドアのところから暫くその絵を眺めていたが、その内、何かにふと気づいたような顔をして、その絵に近づいて行った。
パネルに張った、25号サイズと思われる縦置きにセットした紙には、小さな女の子を連れた夫婦が手前にいて、向こうの、長い海岸線に突き出た桟橋では、何か催し物をしているような様子が、色鉛筆だけで描かれていた。これはきっとサンタモノカだ。― スミレは、描かれている場所をそう直感した。
海岸に沿ったメイン・ロード沿いに立ち並ぶ椰子の木や、カラフルな屋台。ローラースケートを履いて行き交う人々。上空を飛ぶ飛行機やバルーンなどは荒描きの状態で、着色もされてなかった。
それなのに、手前にいる女の子を連れた夫婦だけは、確り描かれていて、着色もされていた。その女の子に何か語りかけているような父親と、父親を見上げる女の子。それから二人を見つめる母親の姿は、微笑ましく、印象的に映った。
「母さん。この女の子が被ってる帽子、覚えてる。」
スミレは、後ろに立っている麻子を呼んで、そう聞いた。
「ほら、真ん中に立っている女の子が被ってる、この黄色いちょうちょの形をしたリボンがついた麦わら帽子。何歳の時だったかなァ。5歳か6歳の頃だったと思うけど、金沢で買い物に出かけた時見つけて、どうしても欲しくて、金沢のおばあちゃんにねだって買ってもらったのを覚えてる。こんなに可愛い、黄色いちょうちょの形をしたリボンが付いた麦藁帽子なんて、めったにないから、これはきっとあの時の帽子だよ。」
スミレはそう言って、嬉しそうに絵に顔を近づけた。
「お父さんは、あの帽子を被った私を、どこからか見ていてくれたんだ・・・。全然気が付かなかったけれど、本当にいつも近くから見ていてくれたんだね・・・。」
そのままスミレは絵の前に座り込むと、絵を見上げた。父の自分に対する優しさが、その絵からじゅうぶん伝わってきて、スミレの心は震えた。
「アメリカの色んな街のフェスティバルをモチーフにした、レイの作品群は、毎年夏場から秋にかけて集中して製作されました。それがどうしてだかわかりますか、スミレ・・・。あなたの誕生日にロスに行った後には、必ずレイは良い作品を残しているんです。僕は絵の中でスミレと遊んでいた。― レイはそう言っていましたが、その意味がわかったのも、この絵を見てからです。レイが描いたフェスティバルの絵の中には、必ず女の子を連れたカップルが描き込まれていたんです。目立たないように小さくですが、どの絵にも描いてありました。今朝わたしのギャラリーで言いましたように、私のギャラリーには、レイの作品の殆どの原画がコレクションしてあります。どうしてもこの絵を先に見ていただきたかったのは、そんな理由があったからです。・・・そして、この絵を見て、もっと驚いたことがあります。」
そう言うと、ミスター・ベンサソンはスミレの側に立ち、子供連れのカップルの足元を指差した。
「この三人の足元に、目立たないように小さくですが、イニシャルが書き込まれているのがわかりますか。父親の足元には(R)。母親の足元には(A)。子供の足元には(S)。これは、レイイチの(R)、アサコの(A)、スミレの(S)だと、私はこのサインに気づいた時、すぐそう思いました。そして、この3つのイニシャルを繋ぐと、(RAS)という名前になるんです。」
それを聞いて、麻子が驚いた顔をして絵に近づくと、スミレと並んで、そこに描かれている親子の足元を覗き込んだ。
「これを見てやっと、何故あの時レイが名前をラスに変えたのか、理解できました。全ては・・・。そうそれは、自分が持ちたかった家族への想いを、この名前に託していたんだと思います。」
「あァ、礼一・・・。」
麻子は、手を絵に伸ばすと、そこに描かれている家族にそっと触れた。その手は感動で震えていた。
「ごめんなさい。ごめんなさい・・・。」
何度もそう繰り返しながら泣き崩れる麻子を、スミレは確りと抱きかかえた。
それから長い間、麻子とスミレはその絵の前に肩を寄せ合って座り込み、絵を見つめたまま動こうとはしなかった。
スミレには、自分にはいないものだと思っていた実の父親であり、麻子には、自分を裏切ったと思い続けていた男が、まったく想像を超えた形で二人の前に現れ、こうして変わらぬ愛を示してくれたことで、二人には、新たな家族と言う気持ちが生まれていた。
「母さん、私を生んでくれてありがとう。」
スミレはそう言って麻子の手を握った。
そして、ゆっくり立ち上がると窓辺に行き、バックから携帯電話を取り出すと、恋人のジェミーの番号を押して、受話器を耳に当てた。
「・・・あッ、ジェミー、私だけど・・・。・・・そう、今ニューヨーク。・・・勿論何も変わりはないわ。・・・実はね、ジェミーにもう一度お願いがあるの。あなたのお友達に、悪いけれど急いでもう一度、日本までの飛行機のチケットを準備できないか聞いてほしいの。・・・そう、できれば3日後の便がいいわ。・・・それと、前回と同じように、ハギ・イワミクウコウまでの予約も入れておいてほしいの。・・・そう、またツワノに行くの。・・・いいえ、遊びじゃないわ。今回はお父さんに会いに行くのよ。・・・ジェミー、私には、日本人の本当のお父さんがいるの。そのことはそっちに帰ってから話すから、とにかく急いで飛行機のチケットの手配をお願い。」
そこまで話して、スミレは麻子の方を振り返った。
すると、麻子はそれに気づいて、スミレの目を見て頷いた。
「ジェミー。勿論マミーのチケットも一緒にお願いね。明日の夕方までにはそっちに帰れると思うわ。」
恋人のジェミーにとっては、まったく理解できない電話だろう。― と、スミレは思ったが、それでも一方的にスミレは電話を切って、電話をバッグに仕舞おうとした時、不意に後ろから声を掛けられた。
「ツワノに行くのですか、スミレ。」
いつの間にか、ミスター・ベンサソンが部屋の入り口に立っていた。
二人が絵の前から動こうとしないのを見て、気を利かせてくれたのか、他の3人はいつのまにか部屋から出ていたが、スミレが電話をしている声を聞いて、ミスター・ベンサソンは戻って来たようだった。
「えェ、行こうと思います。自分には不必要だと思い続けていた人でしたが、父は陰からずっと私達を支え、愛し続けてくれていたことがわかったんですから、そのお礼をどうしても言いたいと思います。」
「そうですか、そうしてくれますか。ツワノに行けば、すぐにレイのことはわかるでしょう。ツワノに帰って、ラスという作家が自分のことだということを、レイは自分の作品を町に寄贈して教えたと言っていましたから、もう皆がレイのことを知っているかもしれませんね。」
「えッ、そうなんですか。じゃあ、この前ツワノに行った時、地元の人に父のことを尋ねていたら、もしかしたらすぐにわかったということですか。」
ミスター・ベンサソンは、おそらく・・・。― そう言って笑った。
「それよりも、スミレ。あなたは、もうレイのことを恨んだり憎んだりしていませんか。」
「勿論です、ベンサソンさん。これまでの私は、恨む気持ちも憎む気持ちも持っていませんでした。それよりもむしろ、実の父の存在を意識しないようにしてきました。でもこれからは、父のことを誇りに思って生きていこうと思います。」
「スミレ。これからは、私のことはピーターと呼んでください。あなたはすでに私の最高の友達の一人だ。・・・ところで、あれはいつ頃のことだったでしょう。ラスの絵が売れるようになって、お金を孤児院に寄付できるようになってからですが、レイは私に、あなたのことを心配して、一度だけ洩らしたことがあります。・・・確かこんなことを言っていました。アメリカの孤児院の小さな子供達を見ていると、小さなうちから、本当に驚くほど現実を受け止めている。ほんの3歳や4歳の小さな子供なのに、自分の出生や、境遇の事実を教えられ、自分達がたまたま他人と違った境遇に置かれていても、あの子達は、自分の方からそれを話してくれたりもする。欧米人達は、早くから子供を一人の独立した人格として考えるようにしているようだが、それは時として、何と厳しいことだろうと思ったりもした。私はこれまで、日本人の感覚でそのな子供達を見て、スミレのことも考えていた。だから、実はスミレがどんな風に育つか心配でしかたがなかった。しかし、それは思い違いだとわかった。子供達は・・・。いや、人間は、どんな境遇に置かれても、周りで支える大人が確りしていれば、ちゃん
と立派に育っていくものだ。愛してくれる人間が一人でも側にいれば、それが他人だろうと誰だろうと、その愛に応えるものだ。― そんなことを言っていました。施設の子供達の中には、抜け出してギャングの仲間になる者もいます。ですが、多くの子供達の目の輝きが、失われずにいることが、レイには一番嬉しく、驚きでもあったのだと思います。」
ピーターはそれからスミレの両肩に手を伸ばし、真っ直ぐにスミレを見つめて続けた。
「スミレ。あなたはツワノで、横断歩道を渡るほんの短い間でしたが、まったく躊躇うこともなく、レイの手を引いてくれたでしょ。レイは、それを物凄く喜んでいましたよ。私の娘は、優しく、真っ直ぐに伸びてくれた。こんな嬉しいことはない。― ってね。」
スミレはその言葉が、礼一の口をついて出たと聞いて、涙ぐみそうになった。
そして、その顔をピーターに見られるのも嫌で、窓辺の方に向き直った。
すると、目の前の窓の、取っ手の側のガラス面に、黄色い絵の具と一緒についている、指の跡があるのに気づいた。
たぶんそれは、礼一が指についた絵の具に気づかずに、窓を開けた時についたものだろう。
「マイ ダードゥ(お父さん)」
スミレはそう呟くと、その指の跡に、嬉しそうな顔をして、自分の指を重ね合わせた。
夏の光で、その指の跡は、まるで父の温もりのようにあたたかかった。
-完-
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