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そう言って菊はやけに暗く重い面持ちで深々と頭を下げた。国として生まれた 以上は昨日まで友であった者が敵となり、不意の別れを告げられることもある だろうことはとっくに覚悟が出来ている。だが国自体が滅ばぬ限り悠久にも近い 生を送る俺たちなら再び友になることだってあるだろうに、菊の言い方はまるで 今生の別れのようだった。世界地図の片隅に存在する小さな小さな島国。一体 どんな野蛮な未開人の国かと思いきや初めはその出で立ちや立ち振る舞いが 多少奇妙に映ったものの、深く付き合ってみれば人々は善良そのもので好感が 持てた。菊個人に対しても同様で、幼い子供のような好奇心旺盛な一面と老成 された落ち着きや意味ありげな表情を併せ持ち、捉えどころが難しいながらも 移り変わる季節や草花を愛でる穏やかで優しい人柄は一緒にいるだけで長い 航海の疲れが癒えるような気がした。持ち込んだ教義が思ったほど容易には 浸透していかず歯痒くはあったけれど、安易に力による支配と従属という関係 にはなりたないなあ、と密かに思っていた矢先だった。俺たちや俺たちの神が 菊の上司に疎まれていることは薄々感づいていたが、こんな風に完全に排除 されるとは思いもしなかった。 「大丈夫、そないな顔せんでもまた会えるで!きっとや!」 神様でもない俺に先のことがわかるはずもない。この時点では単なる気休めに 過ぎなかった。あるいは願望だったのかもしれない。そうだといいですね、と菊は 諦めを滲ませながらも笑った。俺はその朝露を含んだ花のような笑顔をしっかり 目に焼きつけて帰途に着き、そのときが来るのをずっとずっと待っていた。願いが 叶えられたのはあれから二百年以上も経ったあとのことだ。短いようで長い長い 年月を経てやっと再会した菊は維新やら何やらで昔と随分変わってしまったが、 それでも根っこの部分は何も変わっていない、俺にとっては特別な思いを持ち 続ける相手だった。もし誰かがそれを恋だと呼ぶならば俺は否定しなかったに 違いない。さらに時は流れて激動の時代が終わり、世界は不完全な平和を取り 戻した。寝ぼけ眼でほとんど集中していなかった会議のさなかに自分の意見を 言え!と怒号が響いた。当たり前のように賛同を強いる勝者、感情を失った顔で 頷く敗者。俺はそこに新たな時代の支配と従属の形を見た。立ち向かう牙と爪を 抜かれた菊は現在の力の構図に適応しただけなのだろう。そうと理解しても俺は 無性に苛立ちを覚えた。同時にあのとき別れを甘んじて受け入れた自分と、今 アルフレッドと同じ立場に立とうとしてもその力もない自分に腹が立った。言葉を 封じ込められ悔しそうにくちびるを噛む菊を見るたびに俺の中で何かがざわめく。 太陽の沈まない国であったあの頃に力で支配していたら、菊はどんな風に俺を 見ただろうか。畏怖と侮蔑、憎しみが込められた黒い瞳を想像すると腹の奥底に どす黒く粘ついた形のないものが蓄積していくのがわかる。手段を持たぬ相手を 力で屈服させる快感、かつて俺たちは当然のようにそれを味わい尽くす権利が あると信じていた。菊を見ると思い出してしまう、あの悦びを。温かく柔らかで ほわほわとした淡い感情が何かに塗り替えられていく。同じ形をしたまま、別の 色に。俺にはもう止められない。 今年も大小不揃いながら真っ赤に熟したいいトマトが実った。俺は収穫を迎える たび箱いっぱいのトマトを両手に抱えて日本を訪ねることにしている。菊はいつも ありがとうございますとにっこり微笑んで箱を重たそうに受け取る。料理の上手な 菊のことだから今頃トマトを使った夕食のレシピを考えているのだろう。 「料理する前に生で食べてえな、それがイチバンうまいんやで?」 指でつまめるほどの小ぶりのトマトを選び、不意打ちで菊の口に押しつけると 困ったような表情をしながら薄いくちびるの下から白い歯を覗かせて実の半分を かじり、どろりとした粘液に守られた種を零さないようじゅると音を立てて吸い、 咀嚼する。そのさまは妙に淫靡だ。残りの半分も甘い甘いと嬉しそうに給餌を 受けた雛鳥のように平らげてごくりと飲み込んだ。俺は誘われるように自然な 動きでくちづけて舌を口の中に滑り込ませる。するとトマトの甘みと酸味と特有の 青臭みがしてもっと味わいたくなった。菊は手を突っ張ってほんのわずか抵抗を 見せたが完全に引き剥がすことはない。ずっと昔に刀を捨てた細腕をギリギリと 力を込めて握り潰そうとしていたからだ。俺は腕を掴んだまま菊の家の奥へ奥へ 引きずり込んでいく。北向きの狭い一室は年中締め切られていて暗くじめじめと していた。いつか菊は言っていた。『たまに、どうしても日に当たりたくないときが あるんです』俺にも少しわかる。片や日の出ずる国、片や太陽の沈まない国。 お笑い種だ。今や菊の腹の底にも似たような重い闇が巣食っているのだと俺は どこかほっとしていびつに笑う。畳の床に痩躯を引き倒して簡単に暴いてしまえる 無防備な着物を力で左右に開き、思いつきで持ってきたトマトのひとつを頭上で 握ってみた。菊の顔や髪や首筋や胸元をトマトの果肉や汁や種が指の隙間から 零れてびちゃびちゃと汚していく。そうして完成した料理を味わうかのように圧し 掛かって肌に舌を這わせるとさっきのキスと同じ味がした。俺は菊を支配して いないし、菊は俺に従属していない。しかし羞恥や苦痛に歪む顔を見下ろすと 選択を誤って得られなかったものを今になって取り戻しているような錯覚がある。 「…これはもう、恋とちゃうよなあ?」 自嘲を込めて誰に問うでもなく呟くと、じゃあ何なんです?と聞かれた。俺にも よくわからないのだ。ただ荒い息で懸命に縋ってくる菊の爪が背に食い込んで 痛み、それが心地良かった。この執着が恋でも恋でなくてもどちらでもいい。底が ないなら堕ちるところまで堕ちたかった。 |