「 酔いどれ笑い月 」



 そのときの僕は軽く酔っていた。本当に軽く、だ。自分を保てないほど酔ってしまえばたとえ魔物が
跋扈する街の外でなくとも危険だということぐらい、ちゃんと弁えているつもりだ。だから本当に軽く。
あとちょっとだけ、という欲がまったく湧かなかったわけではないけれども、そもそもアルコールによる
心地よい酩酊を味わえる機会自体、本当に珍しいのだ。これ以上の贅沢は望むまい。ひとり寂しく
寝酒を一杯、そんないつもの夜とは違うこの幸運にこそ酔うべきだと、僕は同程度酔っているユーリ
と共に下町の、彼が長らくツケていた宿賃をまとめて支払い、部屋を引き払ったあとも気軽に帰って
これるよう、厚意で以前のままに保たれている部屋を目指していた。そこは靴を脱いだらすぐに横に
なれるベッドがある。成人した男二人じゃ狭いだろうけれどなんとかなる、だってほんの数年前まで
そうして寒い夜を凌いできたのだから。誰の目も気にしないで、明日のことも気にしないで、大いびき
かいて眠ってしまって構わないのだ。なんて幸福な夜なんだろう。星だっていつもより多めに瞬いて
いるんじゃないだろうか…などと大袈裟に感激してしまってるあたり、僕はやっぱり酔っていた。僕が
彼の信頼を裏切る行為に及んでしまったのはそのせいだ。
 おやすみの挨拶は額、あるいは目蓋にキスをする。誰がそう教えたのか知らないが、物心ついた
頃には僕たちのあいだでそれは当たり前の行為になっていた。今まで疑問を感じることはなかった
のかといえば、騎士団の門を叩き寮に入るまで僕は誰かと共寝をするということがなかったし、同じ
釜の飯を食べる間柄であっても見習い時代の仲間にそこまで親密な行為に及ぶ発想がまず存在
しなかった。正式な騎士となり個室を得たあとも非番の日は下町に帰って、あれこれ男手の必要な
手伝いをして回り、夜はユーリの部屋に泊めてもらう。寝坊すんじゃねえぞ、君じゃあるまいしなどと
軽口を交わしたついでに例の挨拶をして眠る。翌朝からすぐに騎士団での生活に戻るので、疑問を
感じる機会はなかった。もちろん、ユーリも同様だと思われる。
 しかし、僕たちは無意識のうちにこれはまずいんじゃないかと気づいていたのではないだろうか。
何故なら僕たちはこの挨拶を旅のあいだ、人前では絶対にしなかった。無警戒に見せてもなんとも
感じなかったのはせいぜいラピードぐらいなものだろう。ラピードならもうこの挨拶など見慣れている
だろうし、よしんば僕らのようにラピードの話したいことを理解する人間がいたとしても彼は無駄口を
叩かない犬だ。もし変わったことをしていると不審がっていたとしても、誰かに告げ口するような形で
尋ねたりはしないだろう。つまり、僕たちはラピード以外にその挨拶を見せて誰かにどうこう言われる
のが嫌だった。そして僕たちは誰に知られることもなく旅を終えた現在も、おやすみの挨拶を続けて
いる。その夜もそうだった。
 前述のとおり、僕は酔っていた。久々のユーリの帰還と非番が重なった幸運もあって井戸の前で
落ち合い、夜の街へ繰り出したのだ。酒を酌み交わしながら互いの近況を話せる範囲で話したり、
他愛のない昔話で盛り上がったりして、鼻歌でも歌い出したいようないい気分で箒星の二階の角の
部屋、騎士の格好でもない僕は靴をぽいぽいと放り出し、壁側に陣取ったユーリの横に滑り込む。
それからどちらからともなく額、もしくは目蓋にキスをしようとした。その瞬間、僕の悪戯心が囁いた
のだ。暗黙の了解で、この挨拶の最中は目を瞑っていなければならない。その決まりを僕は一度で
いいから破ってみたかった。
 要するに、くちづけようとするユーリを僕はじっと見ていたのだ。三日月の笑みを形作ったユーリの
くちびるが少しの躊躇もなくまっすぐ近づいてきて、僕の額に温かい感触が触れる。これで終わりか
と思えば多少距離を取ってからくちびるをわずかに尖らせて目蓋にもキスをしようとしていた。両方、
というのはよほど機嫌が良かったのだろう。僕は慌てて目を閉じた。くちびるが右の目蓋に触れて、
離れるなりすぐ目を開ける。ユーリはもう睡魔が侵攻してきているのか半分蕩けた目をして微笑んで
いて、アルコールのせいもあって赤い頬や、どうだと言わんばかりににんまりと笑う口元がこれまで
感じたことがないほど愛らしく見え、すうと酔いも冷める勢いで驚いた僕は、見てはいけないものを
見てしまったような気がして、禁を破った罪悪感共々胸を苛まれながらもいつの間にか眠りに落ちた
のだった。
 今までずっと、ユーリはこんな顔をして僕の額や目蓋におやすみの挨拶と称してキスをしていたの
だろうか。何百、何千もの夜を過ごしていながら、僕はまったく知らなかった。父や母から向けられた
温かなまなざしによく似た、愛しいものを愛おしむ、柔らかで温かなまなざし。僕はどうして知らずに
生きてこれたのだろうと不思議に思うほどだ。彼が親友や恋人といった枠に留まらない深い愛情を
僕に注いでいると気づいたとき、僕は同時にそれとは意味合いの違う感情を彼に対して抱いている
ことに気づいてしまった。なおかつ、僕はユーリと違ってそれを胸の内に留めておくことができない。
僕は君が好きだと言いたいし、狭いベッドでもなお余るほどもっと強く抱き合って眠りたい。おそらく
これ以上のこともいずれ求めてしまうのだろう。そのためには、出来心から生まれた小さな裏切りを
含めて洗いざらい告白せねばならないのだ。
 普段ならこの程度のこと、結果として機嫌を損ねようが殴りあいに発展しようがどうせたいしたこと
じゃないと高を括って呑気に構えていられたかもしれない。でも今は心に余裕がない。目が覚めると
同時に鈍い頭痛に眉根を寄せて、その視界の端にある寝顔に心臓が早鐘を打っている。昔からそう
変わっていない幼さの際立つ寝顔だというのに、僕は今までと同じように捉えることができないのだ。
ユーリの両の目がゆるゆると開いて僕を映したとき、ユーリはどんな顔を見せてくれるのだろう。もし
心臓が爆発するとしたら、それはきっと僕の裏切りに対する罰に違いない…などと大袈裟な覚悟を
してしまっているあたり、僕はやっぱり重症だった。





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