「 ナイトメア・ウェルプ 」



 コンコンコン、と窓が鳴った。まったく同じ間隔で、同じ強さの音が三つ。ひとつふたつなら風か
何かの悪戯で片付いても三つ続けてとなると単なる偶然とは考えにくい。よってこの音の発生は
人為的な関与を疑うのが妥当だが、通常、ノックは人間が出入りするドア付近から聞こえるべき
であって二階の窓から聞こえることはないはずだ。律儀な泥棒でもいない限り。まして、この窓が
ある場所は帝国皇帝の住まいにしてその権威の象徴たる壮麗なザーフィアス城、時刻は草木も
眠る丑三つ時。いくら身分の高い貴族でもよほど緊急性の高い用件がなければ規則上登城は
許可されない。すると残る可能性はたちの悪い迷子かやはり賊の類かということになるけれど、
残念ながら音を立てた張本人はそのどちらでもないことを僕は知っている。
 早く、と急かすようにもう一度コツンと窓が鳴った。寝台から上体を起こして見遣る。曇っている
のか月明かりのない外の世界はとにかく暗い。結界魔導器が機能しなくなって夜は本物の闇を
取り戻した。ちょっと目を離した隙にそのまま夜の中に溶け込んでしまいそうな黒い髪と、真逆の
白い肌を持つ男が城壁のわずかな出っ張りを足場に立っている。僕の私室の窓を城の勝手口と
勘違いしているらしい僕の親友だった。
 今更誰も咎めたりしないから堂々と正面から来たらいい、何度も言っているのにいまだ改善の
気配はない。前回もそうだ。ひと月前になるか、凛々の明星の仕事で帝都に来たついでと寄って
くれたときもコンコンコンの合図で窓を開けさせて、あんまり時間がないからと軽く互いの近況を
話しあっただけでお茶の用意さえさせてもらえないまま「またな」と挨拶もそこそこに再び窓から
出て行ってしまった。来訪時間・滞在時間にばらつきはあれど、その前も、前の前も、前の前の
もっと前も、ユーリはずっとこんなかんじだ。予告もなしにふらっと現れてはふらっといなくなる。
野良猫みたいなものと思えば、ガラスの向こう側でいつまで待たせるつもりだと言わんばかりの
恨みがましい視線だっていくらか可愛く見えるじゃないか。もちろんユーリはそんなこと言われた
って毛の先ほども喜ばないし、似合いもしない。苦い顔をして、お前がそうやってニヤついてる
ときは大抵ヤラシイこと考えてやがんだと誤解を招きかねない分析を披露しつつ、ようやく開錠
された窓の隙間から城内への侵入を果たす。
 ユーリが野良猫ならさしづめ城は仮宿だろうか。全然違うのになんだかますますそれっぽい。
何しろ猫という生き物は自分が世界の王様だ。帝国や騎士団という小さな箱庭に嫌気が差して
野良猫は広い世界へ飛び出した。時間もかかったし大変なことがたくさんあったけど結局はそう
いうことなんだ、きっと。
 なに考えてんだ、まさか図星なんじゃねえだろなと猫にしては随分獰猛な彼が、放っとかれて
不貞腐れている。うん、実はそうなんだ、僕はいやらしいことを考えている。素直に欲望を認め、
僕の好きな黒葡萄色のすぐ下に手を伸ばした。くすんだやわい皮膚はオイルランプの頼りない
光度にさえ明確だ。そんなに忙しいのか?親指の腹で隈をなぞるとユーリは心底面倒くさいと
いった顔をした。それはつまり、この話題に触れられたくなかったということ。ろくに眠る暇もない
のか、何か事情があってちゃんとした睡眠が取れていないのか。それとも他に原因があるのか。
事と次第によっては僕がしたいと思っている"いやらしいこと"も我慢しなきゃならない。だから
返答を避けるなんて許さないし、僕に君のごまかしなんて通用しない。さて、ユーリはどう答える
だろうか?
 今の僕は、ユーリが言うところの"ニヤついてる"顔になっている自覚がある。でも、笑っている
からって心の中までそうとは限らない。些細な表情の変化も瞳の揺らめきも見逃さないために、
僕はじっと目を凝らす。用途を失った口が閉じた。いいやだめだ、黙秘権も認めない。ユーリ、と
名前を呼ぶ。声の調子は低く強く、僕が怒っているときのものに似た。やがて、すっと顔を背けた
ユーリは夢見が悪い、と小さく呟いた。そうなのかと頷きながら僕は内心、途方に暮れる。
 原因となりそうな要素は彼の中にいくつもあった。本当にたくさん、数え切れないほど。そんな
夢なんか見るなと言ったって夢は勝手に見てしまうものだ、僕だってそこまでは管理できない、
嫌な夢を見るときは見る。正直、手の尽くしようがなかった。ほれみろ、お前に言ったってどうにも
ならないこともあるんだよとユーリは勝気な笑顔を見せる。こんなことで僕に勝ったって何かいい
ことがあるわけでもないだろうに、というか、何の勝負だったのかも僕はわかっちゃいないのに、
そうやって煙に巻いた曖昧の底に大切なものを放り込んで何もなかったことにしようとする彼の
常套手段がちりちり僕の理性を焼く。僕の根っこの部分に息づく子供じみた負けず嫌いは反撃を
試みるけれど、あいにく突破口を見つけられない。
 そういえばこのまなざし。いつまで澄ましていられる?と値踏みするような目には覚えがある。
凪いだ僕の水面を好き放題掻き乱し、彼が絡むと極端に余裕を失う僕がとうとう爆発するのを、
獲物を仕留めんとする獣みたいな目で待ち構えるユーリが、まだ大人ではなかった頃の僕には
癪に障って仕方がなかった。
「とりあえず寝るか、今日は時間があるんだ。お前抱き枕にしたらいい夢見れそうな気がするし」
 ユーリが珍しく甘えるように袖を引いたので、僕はそうだねと頷いた。これは僕たちが半分ずつ
譲り合った妥協点だ。未来の騎士団長を抱き枕にできるのは君ぐらいだよと抱き枕になるべき
僕が逆に人間を抱き込んでみたら「そりゃ光栄だ、ありがたくて涙も出ねえよ」と彼らしい皮肉が
僕の懐で呼吸を伴い温まった。

 真っ暗だ。真っ暗な場所で剣と剣が切り結ぶ音がする。耳を頼りに音の出所を追った。戦って
いるのはユーリだ。軽やかに跳躍する体と、さらりと宙に舞う僕の好きな長い黒髪。
 ユーリ。呼ぼうとしたが、声が出ない。しかも僕は軽装のまま、武器もない。完全に身ひとつだ。
この状況で僕に何ができるのか考える。下手に近づこうものならかえって不利を招くことになり
かねない。考えろ、考えろ。
 閃光が瞬くように鋭く速い敵の刃はユーリの顔や体を掠めて、僕はそのたびに息を呑む。避け
きれないで負った傷から血が滴り、黒い地面に模様を作る。地面は今や無数の小さな赤い円で
埋めつくされようとしていた。ユーリ、誰が君をここまで。
 僕は懸命に敵の姿を見定める。しかしいまだ判然としない。確かなのはユーリと同等の実力を
持つ手練ということ、そして戦い方まで似ていること。剣戟の合間に拳や足が入る荒っぽいやり
口なんか真似しようと思ったって簡単に真似できるものでは――。
 途端、ぞわり背を走る悪寒。これは夢だ、そうだ悪い夢だ。君が君を殺そうとしているなんて。
ああ、今ならば君が目の下にあんな隈を作った理由がよくわかる。夢だと認識していても最高に
気分が悪い。やはり君は、君自身を許せないんだね。十分理解しているつもりだったのに、まだ
まだ認識が足りなかったことを僕はこうして思い知る。その重荷は半分にできないのと尋ねたい
けれど、ユーリは決してそれを渡してくれないだろう。なら、無理やりにでも奪うしかない。
 ちょうどいい具合に目の前にユーリの愛刀が突き刺さった。一方が体勢を崩した瞬間、素早く
切り込んだもう一方の斬撃を防ごうとして弾き飛ばされたものだ。あとは息の根を止めるだけ。
そんなこと、僕が許すものか。
 不思議なことに僕が柄を握ると細身の片刃は使い慣れた重みの騎士剣に変じた。装備もいつ
前線に赴いても問題ない、騎士の誇りを背に纏う白銀の甲冑。罪人を裁くには文句なしの演出
じゃないか。なのにユーリはいきなり血相を変えて闇雲に刀を振り回す。どうしたの?怖いの?
やっぱり君でも死ぬのは怖いの?それとも僕が怖い?
 口の達者なユーリが言語機能を失ったようにまともな言葉を発しない。じりじり後退し、何かに
躓いて尻餅をついても必死で距離をあけながら、縋るように祈るように僕を見上げる。大丈夫、
僕は君を殺したりしない。殺したいほど憎らしく思うことはあるけれど、絶対に殺しはしない。白い
喉元に切っ先を押し当てると、硬直する四肢。
 黙っていたらわからないよ、ねえ。僕のほうがずっと怖いのに、君は何にもわかっちゃいない。
君を失うことが僕にとってどんなに恐ろしいか、君を失ったかもしれないあの絶望が、空虚が、
恐怖が、どんなに僕を苛んだか、蝕んだか、呪ったか。君は全然、わかっちゃいない。それでも
虚飾の存在しない夢の世界のユーリは、今にも泣き出しそうな弱々しさで僕の憎しみを
煽った。お前の手が汚れるのだけは嫌だ、なんて。
 ああ、なんかもう、もういい。くだらない悪夢から解放してやりたい、とか。罪も罰も、君と僕の
あいだにあるものすべて分かち合いたい、とか。そんなのもう、どうでも、いい。
 僕が許せないのは、ユーリのそういうところだ。ひとの気も知らないで、何が、何が、僕の手を
汚す、とか。僕の気持ちも知らないで、ふざけるな!

 確かに夢見が悪いと聞いた。けれど内容は確認していない、それがまずひとつ。ふたつ、僕の
夢の中でユーリが何を言ったとしてもそれはあくまで夢の産物であって現実は異なると、当たり
前の事実を見落とした。みっつ、とにかくぶん殴ってやる、それしか頭になくて僕の胸元あたりで
すうすう寝息を立てているユーリを目にした瞬間、行動に移してしまった僕の青さ。僕が失態を
演じた主な原因だ。
 要するに、ユーリの睡眠不足に陥れた夢とは僕が見た夢とは無関係で、ユーリは自分自身と
殺しあう夢なんて見ていないし、僕に殺されそうになる夢だって知らない。僕が激昂した「お前の
手を汚すのだけは嫌だ」なんて自分勝手な台詞も、現実のユーリにとってはハァ?何だよそれ?
そんなこと俺がいつ言ったよ?ってわけで、頭に血がのぼった僕には彼がうまくごまかそうとして
いるようにしか見えなくて、結局僕は二発目のパンチを顔面に繰り出した。頬が腫れるぐらいで
済んだのが不幸中の幸いだ。そもそも彼の厄介な性格に端を発す憤りとはいえ、他人の悪夢が
原因で殴られたユーリの機嫌はすこぶる悪く、せっかく騎士団長サマの抱き枕が効いて気持ち
よく眠ってたのになと膨れっ面をされたら本当に申し訳なく、僕の奢りのスイーツはしごツアーで
何とか許してもらうに至る。小声で「ちょろ甘だぜ、フレン」と聞こえたような気がするのはこの際
だから流してあげようか。その代わり、どんな夢が君を苦しめていたのかきっちり白状してもらう
から、覚悟しておくように。





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