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苦手の舞踏会、菊が壁の花と化してしばらく経つ。顔なじみにはすでに挨拶を 済ませたし、そろそろ部屋に引っ込もうかと思いはじめたあたりの何度目かの からかいとしか思えない誘い文句にうんざりして顔を向けると、そこには見知った 顔があった。ローデリヒはにやりと笑う。オーストラ、まで言いかけて決まり悪く 口をつぐんだ菊にはじめからわかっていたような諦め顔でオーストリー、ですと 険しい表情で訂正するのはもはや恒例のことだ。菊が特に腹に据えかねるらしい 性別の間違いは確実にそのための嫌がらせだろう。失礼しますよと何やら中身の 入ったグラスの片方を菊に押し付けて隣の席にどっかり座り込み、いつになったら 覚えてくださるのかとぶつぶつ、プライドの高い彼にしては珍しく不快感をあらわに する様子に菊はひたすら平謝りするしかない。空気の悪さにとりあえず口に運んだ 黄金色はよく冷えていて期せずして甘かった。二度、三度と続けて口をつけるのを 見てローデリヒはようやく機嫌を直したようにこちらを向く。 「お気に召していただけましたか?」 「はい、とても甘くておいしいですね。これはローデリヒさんのところで?」 ええ、トロッケンベーレンアウスレーゼというのですよ、と耳慣れないドイツ語が ローデリヒから発せられる。話には聞いたことがある。日本では貴腐ワインと 呼ばれるものだ。貴腐ワイン自体が非常に貴重な上、オーストリア産のワインは ほとんどが国内で消費されてしまうという。菊にはグラスの残りがより一層大切な ものに感じられて、再び口にする勇気がなかなか湧いてこない。するとそれを 汲んだかのようにローデリヒは口をつけずに持っていたグラスとほとんど残りが ない飲みさしのグラスを交換する。 「今日はたくさん用意してあるのです、好きなだけお飲みなさい。何ならお持ち いただいても構いません」 そう言ってローデリヒは一口分の中身を一息に飲み干した。何も気にしていない さまに、かえって菊の方が恥ずかしくなってしまう。それでは間接キスではないか と焦って言いそうになって何とか口ごもるが、まともに顔を見れなくて目を逸らし ながらありがとうございますと礼を言うのが精一杯だった。ちょうどよくやって来た 給仕に新しくグラスをもらい、また口をつける。ああ本当に甘い。 「あなたは踊らないのですか?」 唐突にローデリヒは質問してきた。流れている曲は若干テンポの早いワルツ。 うまく言い逃れてずっと踊らないでいたのを見られていたのだろう。 「こういう西洋の踊りは、得意ではなくて」 しかし嫌いではないし憧れてもいる。フロアの中心で踊るペアを見る菊の目は そんな心情が込められているようにローデリヒには見えた。 「前もって言ってくだされば私が本場のウィンナワルツを手ほどきして差し上げた のに」 ただし練習中は私が女性役にならざるを得ませんが、と不服そうにつぶやくのを 見て菊はくすくすと笑いを堪えられなかった。あのローデリヒさんを女性役に、と 考えるだけで可笑しい。まったくあなたは名前のことといい失敬ですねと文句を 言いつつも菊を見る目は優しい。ローデリヒがさほど怒っていないことがわかって しまう。 「…ローデリヒさんは、どうして私にこんなに優しくしてくださるのです?」 ふと沈黙が降りたのをいいことに菊は胸の内に抑えていた疑問をぶつけた。 ローデリヒは一瞬面食らった表情をしたがすぐに落ち着きをとりもどし、そうですね、 と間を置く。 「あなたに私の名前をきちんと覚えてもらいたい、いや、それよりも私は、」 言葉を区切ったのを機に、前を見ていたローデリヒが菊のほうを向きその肩に 手を置く。真正面からその眼鏡の奥の瞳と対峙し、息を呑む菊にローデリヒは 言う。 「あなたに好きになってもらいたいのかもしれません」 かつて帝国と呼ばれたローデリヒの告白のなんと控えめなことか。菊は恥じ入る より先に彼への愛しさが増してしまう。ローデリヒは今まで見たこともないような 優しい微笑みで菊を見つめている。 「私、ローデリヒさんのことが好きです。もうとっくに」 微笑みをかえすと、ローデリヒはさらに笑みを深めてグラスを差し出してくる。 二人でグラスをあわせ音を鳴らして再び甘い甘いワインにくちづけた。 |