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地位にあったが、生まれながらに高貴とされる身分の前にその価値はゴミにも 等しく、理不尽な叱りを受け惨めに耐える姿をよく目にしたものだ。そんなとき、 子供だからこそなおのこと看過しきれない憤りをきれいに風化させてくれるのは 菊の微笑みだった。遊び相手として引き合わされた菊はあの貴族と同じ青い 血が流れているとは思えない優しさで俺の認識を改めさせた。菊様と慣れない 呼び方に苦笑しながら、二人だけの秘密と名前で呼び合うことを許され、少し ばかり年上の彼に読み書きや計算を教わることさえあった。そのおかげで今でも 咄嗟に菊と呼んでしまうことがある。悪い癖だ。ともかく、父の跡を継ぎこの家に 仕えることを決めたのはそれが菊の助けになるからに他ならない。時が流れ、 屋敷のあるじも代替わりし、本田伯爵となった彼をもっともそばで見守ることが できる執事という役割を仰せつかったのは僥倖と言える。苦労は多いが菊の ねぎらいひとつで嘘のように消えていく。不満など感じてはいけなかった。 ある夜、ガシャンと物の割れる音が屋敷のどこかから響き、飛び起きた。その 出所が気にかかり、たとえ目が見えなくなろうとも間違いなくたどり着けるほど 通い尽くした主人の部屋に向かうと、オイルランプの薄闇の中で菊は寝巻きの ままうずくまっていた。病気がちな菊だ、俺はさっと血の気が引いてすぐさま 駆け寄ったが、嫌な予感に反して彼は割れたガラス片を拾っていたのだった。 見れば寝る前、サイドテーブルに置いた水差しが割れ、水たまりが広がって いる。寝ぼけて倒してしまいました、と菊はばつが悪そうにする。そんなことは 俺がやります危ないから退いていてくださいと押し退けようとすると案の定、 痛!と声が上がった。言わんこっちゃない。持ってきた灯りで照らせば、小さな 傷が赤く線を作っている。ためらいなく口に含むと鉄錆の味がかすかに舌に 広がった。かつては忌避したその血のなんと甘いことか。ひとまずはそれで 良しとし、薬箱と掃除用具を持って来ようと立ち上がりかけて、ふと菊はちょっと 待ってルートヴィッヒ、と呼び止める。他に何か用があるのかと思い、近づくと サイドテーブルの引き出しから櫛を取り出して届かない背を屈めさせ、寝乱れた 俺の髪をさっとすいた。よっぽど慌てていたんですね男前が台無しと菊はくすりと 笑う。その距離の近さに、一瞬にして心拍数は限界まで高まった。こんなことが あるたび子供の頃から続いている俺たちの距離は正しくなかったのだと今に なって思うのだ。近すぎて、間違いをおかしそうになる。ありがとうございますと 礼だけは言って手を突っぱね、逃げるように踵を返した。無駄のない歩みが部屋 から遠ざかり、私は嫌われてしまったんでしょうかとひとりつぶやく菊の不安に このときはまだ、俺は気づかないでいる。 |