※死にネタ注意!
※Coccoの「強く儚い者たち」パロ




「 うたかたの宝島 」




 大の男が四人も乗ったら沈んでしまいそうな小船ばかりが並ぶ白い砂浜から
目と鼻の先の入り江で立派な帆船は場違いな威厳を放ちながら穏やかな波の
揺らぎに身を任せている。長い航海を経て疲弊した船員は自分たちの身なりが
お世辞にもいいと言えないことを自覚していたが、百にも満たない島民のほうが
よほど粗末なものを着ているように見えた。貧しい漁村なのだろう。人の溢れた
大きな町のある島は遠く、海図に載っていないような孤島では仕方ないのかも
しれない。ともあれ彼らは異国から来たよそ者を警戒するでもなく快く嵐の季節を
島でやり過ごすことを許してくれた。物珍しげに西洋式の帆船を見物する者さえ
いる純朴な島民はみな大らかで気が優しい。「たまぁにね、海の神様が悪さを
するんさあ。そうするとあんたらみたいなお客さんが来るって寸法さあね」と言う
のはこの島で唯一きちんとした教育を受けた役人だ。強い訛りはあれど西洋の
言葉を操るのはこの島において彼しかいなかった。島の案内の途中、時折他の
島民とは少し毛色の違う者も見かけると「この島に魅入られちまったんさあ」と
役人はワハハと豪快に笑う。確かにいい島だ。荒波に揉まれる外海とは別の
世界のように凪いだ波の下、死んだ珊瑚の砕けた白で浅瀬は深い青より空の
色に近く、境は曖昧だ。透明度が高いせいで色鮮やかな魚は姿を隠しきれず
まんまと島民の胃袋に納まってしまう。それでも豊かな海で魚たちは絶えること
など夢にも見ないでいつまでも繁栄を続けるばかりだ。美しいの一言に尽きる
海、極彩色の魚、白い砂浜、海岸を離れればサトウキビの畑が青々と広がり、
耳を澄ませばこの島独特の弦楽器が一日中陽気な音楽を奏でている。そして
島の最大の収入源である砂糖を精製する香ばしく甘い香りが空き家とのことで
借り受けた古い家にまで届いてきては空腹を誘う。菓子など随分ご無沙汰だ。
明日は役人にそちらの案内をしてもらおうとアーサーは心に決める。甘い菓子に
心を弾ませるアーサーはこれでも海賊船の若き船長だった。女王陛下に私掠も
許されたれっきとした海賊だ。他国の商船なら何をしてもいい。金の一粒すら
後には残さず、逆らえば容赦なく命も奪う。そんなアーサーもこの島ではただの
居候に過ぎない。恩義あるこの島で何かしようとは思いもしなかった。船に残る
船員にも固く命じてある。島に迷惑をかけた者には厳罰をもって処すと。何十、
何百と数え切れない命を奪ってきた銃とサーベルがものを言うときの恐ろしさを
船員は最も身近で感じている。だがアーサーの心配は無用だったようで、子供の
ような好奇心を剥き出しに稚拙な接触を図ってくる無垢な島民に無体を働くのは
なけなしの良心が痛むようだ。こうして異国の海賊は平穏に嵐の数ヶ月を過ごす
ことになった。

 嵐の季節は貴重な雨の恵みの季節でもある。真水が不足しがちな島で嵐は
漁に出る機会を失わせる反面、多くの水をもたらしてくれる。水がめから樽から
桶から食器や湯飲みに至るまで、島民は雨水を得るのに必死でありとあらゆる
容器を外に出した。船上の生活も似たようなものだから別段気になることでも
ないが、出かける予定がふいになった気落ちついでに母国の鬱々とした天気を
思い出してうんざりした。しかしその母国では重い鉛色の空の下にあってなお
太陽のごとく鮮やかに輝く女性がアーサーの帰りを待っている。結婚の約束も
した。こんなに離れてはその陽光も届きやしない。そんなときアーサーは菊と
出会ったのだ。何の気配もなく庭に入り込んだ青年の姿にアーサーは咄嗟に
銃を構える。すると青年は拙いが紛れもない西洋の言葉で「私はあなたの敵
ではありません」と言った。この島でちゃんとした会話が出来るのはあの役人
だけではなかったのかと思いつつ青年を上から下まで検分する。多くの島民と
比べると一段と粗悪な佇まいで、手に欠けた陶器の皿を持っていた。「それは
何だ?」と尋ねれば「サトウキビを絞った汁を煮詰めたものです」と説明する。
濃い焦げ茶色の塊がいくつか皿に乗っていた。「ふふ、召し上がりたかったの
でしょう?」と青年は柔らかな笑みと共にアーサーにその皿を預けてすぐ去って
しまった。毒ではないだろうなと疑いながらもおそるおそる一口噛り付くと濃厚な
甘みと独特の風味が口中に広がる。それは上質なブラウンシュガーの味だった。
礼を言おうと出て行ったばかりの門から飛び出すと道の左右どちらにもすでに
青年の背中は見えなかった。どしゃ降りの雨が止むと真水の確保に追われて
這う這うの体で顔を出した役人に早速この話をした。途端に役人の顔色が一変
する。「船長さん、あのお人に関わるのはやめたほうがいい」それまで見たことも
ない深刻な表情にそれは何故だと聞いた。「あれは化け物、なんでさあ」役人は
これ以上は口にしたくもないといった様子だ。話をもったいぶればもったいぶる
ほど詳細を知りたくなり、何度も質問を重ねてようやく役人は諦めた。彼の名は
菊といって、役人のひいじいさんのそのまたひいじいさんが寝小便たれだった
頃にはすでに今と同じ姿でこの島に住んでいたという。噂では島の中心にある
山の奥のどこかにその住処はあるらしいが、定かではない。役人はアーサーに
警告した。「あの化け物はねえ、島にあんたらのようなお客が来るたび外つ国の
生き血を啜ろうとふもとに下りてくるんでさあ、だからもう関わっちゃいけねえよ」

 関わるなと言われれば余計に気になってしまうのが人情というものだ。まして
人に害を為す化け物とあらば島民のためにも退治してやるのがいいだろう。幸い
こちらには戦う術もある。久々に深く青い空が大海のようにどこまでも続いた日、
念のためアーサーは船員のうち何名かを連れて山を登る。獣道程度の道なき
道を探り半日ばかり歩き回っただろうか、竹林の奥にひっそり隠れるあばら屋を
見つけた。確かに人の気配がある。普通に訪ねてみるべきか、急襲するべきか、
逡巡の末にアーサーは木戸を叩こうと右手を構えた。けれどその寸前に気配を
読んだかのように内から戸は開き、「お待ちしておりましたよ」とあの日の青年は
笑った。それも化け物の能力なのか、何もかもお見通しだったらしい。ただ青年
からは害意が感じられなかった。アーサーは促されるまま狭いあばら屋の中に
踏み込み、囲炉裏の前に胡坐をかく。熾り火がパチパチと音をたて、手のひら
ほどの川魚が三匹炙られている。笹で作ったという茶を出された上に毒気なく
「食べてみます?」と尋ねられれば頷く他ない。新鮮な川魚は海の味に飽きた
舌を喜ばせる。「残り二匹は駄目ですからね、私のご飯なので」と化け物、菊は、
まるで子供でも諭すような口調で釘を刺す。気が抜けるほどごく普通の会話で、
どう見てもただの人間としか思えない。なのにどうして菊は化け物と恐れられて
いるのか、アーサーはそれが知りたくなった。「厄介なことをまっすぐ尋ねるお人
ですねえ」はあとため息を吐いて菊は苦笑いを浮かべる。「長い話になりますが、
いいですか?」遠い目をする菊の横顔にもちろんとアーサーは頷いた。

 それはもう二百年も昔のことになる。この島で生まれ育った菊の母は海産物の
買い付けに来た大店の息子に見初められて島を出たという。店を継いでまもなく
商いに失敗して店は潰れ、夫は首を吊った。ただひとり命を拾った菊の母には
多額の借金だけが残った。病を患っていたため色街にも売り飛ばせない。業を
煮やした借金取りは呪術に傾倒したとある医者に売り飛ばすことにした。そこで
病に効く薬として与えられたのが人魚の肉だったそうだ。つまり人の道を外れた
実験のため菊の母は売られたのだった。「八百比丘尼をご存知ですか?」菊の
問いかけにアーサーは首を横に振る。「人魚の肉を食べて不老不死を得たという
伝説の女性です」菊の話は続く。結論から言えば菊の母は実験台として役立つ
ことはなく、誰が父親かも知れぬ子を生して死んだ。それが菊だ。菊は孤児と
して善き人々の助けを受けて成長し、亡き母の面影を求めて島にたどり着いた。
やがて長い長い時が流れ、不老不死を得たのは自分であったことを知る。人の
心が見えるようになったのはおまけみたいなものだ。「昔は羨む人もいましたよ。
でも知り合いがひとりまたひとりと死んでいき、私がこのような化け物になった
理由を知る者がいない今となっては…」菊は口を閉ざして格子窓の外、無数の
木々の向こうにあるだろう青い海を見る。島民は化け物を恐れて山に近づくことも
ない。こんなに美しい海のそばに住んでいるのに、菊と海のあいだには底のない
海溝のようなものがあるようだった。重い沈黙を退けて再び口を開き「外国人の
生き血を吸うというのは?」とアーサーが質問を変えると「あなたは本当に物怖じ
しない人ですね」と菊はくすくす笑った。何故だかアーサーの遠慮のない態度が
嬉しいらしい。「外つ国にも人魚の伝承があると聞きましてね、私はそれを聞いて
いただけなんです。せめて私のような者が他にもいればと思いまして。でも、」と
何か引っかかりを覚える言い方にアーサーは何だとさらに問う。「血は啜りません
でしたが、命を奪ったのは私かもしれません」その言葉の意味するところを汲み
取れないアーサーに菊は続けた。「どれぐらい前のことでしたか、あなたのような
まばゆい金の髪をしたお人でしたよ。次にこの島に来るときはお前を迎えに来る
ときだとおっしゃって」菊はあばら屋の隣の小さな畑の一画を彩る島のものでは
ない真紅の花を遠く見つめる。どうりで言葉も話せるわけだ。「そいつ、迎えに
来なかったのか?」馬鹿なことを聞いたと気づいても今更遅い。今にも泣き出す
寸前の顔で菊は笑うような真似をした。「こちらに来る途中に嵐で亡くなられたと
風の噂で」さながらセイレーンに魅入られた船乗りのように、海の藻屑と消えた
最愛の人。その訃報と共に島民が菊を恐れる理由がまたひとつ増え、交わした
約束は永遠に果たされぬまま。

 嵐の季節は過ぎた。薪水を補給させてもらい、礼に敵船から奪った宝飾品を
いくつか島民に残してアーサーの船は島を発った。菊は入り江をよく見渡せる
岸壁から海上を滑るように走っていく帆船を見送る。あれから足繁くあばら屋を
訪ねたアーサーは菊にしばしの別れを告げた。『俺は必ず戻って来る、だから
そのときはあの砂糖や川魚を用意していてくれないか、それと旅支度を』返事は
聞かなかった。菊は婚約者とまったく別種の人間だった。性別や人種、何より
彼女が太陽なら菊は月だ。日々形を変えて捉えどころのない、時には姿さえ
見せない月は悲しみを嘘の笑みで覆い隠してしまう菊のようだった。菊の話は
作り話かもしれないし本当の話かもしれない。どちらにせよ菊の心にある真実は
誰も知らない。おそらくは本人でさえも。なんと寂しい生き物だ。それがたとえ
化け物だろうと、自分もまたセイレーンの歌声のように魅入られたのだとしても、
アーサーの心はあのとき確かな形を成したのだった。無事帰国を果たすと待って
くれていたはずの婚約者はすでに別の男と結婚して家庭を持っていた。手紙は
送っていたが何年も会っていなかった。実のところ予感はかなり前からあった。
そのせいか婚約者の裏切りに傷つかなかったこと自体に落胆を覚える。遺恨が
早々に片付いたアーサーはひと月と待たずにあの島に向けて出航した。補給の
ための寄港も最小限に抑えて急ぐ理由はひとえに菊に会いたいがためだった。
海図にも載っていない島を再び見つけるのは困難を極めた。だが気まぐれな海の
神はアーサーの心のままに風と波を操ってくれたようだ。美しい島は時を止めた
ように変わらない。人懐こい島民もみな健在だ。それらには目もくれず、航海の
疲労も無視してアーサーはその足で山に向かう。何度も通いつめた道筋だ、誤る
ことはない。ほどなく視界に入ったあばら屋は記憶よりずっと荒れた状態でそこに
あった。丁寧に手入れされていた真紅の花も無残に枯れている。焦燥と恐怖に
突き動かされ駆け込むと、菊は奥の間で薄い布や干した草を編んだものを体の
上にかけ、固い木を枕に横になっていた。あの日と同じ熾り火がパチパチと音を
立てる。「…驚きました」菊は喘鳴の合間に嗄れた声でつぶやいた。「あなたは
死ななかったんですね…」幽霊でないことは触れてみれば明らかだ。むしろ命の 灯火が尽きかけているのは菊のほうに見えた。痩せこけた頬は嬉しそうに笑って
みせても心許ない。強く握った小さな手は骨の硬い感触だけが伝わり、簡単に
手折ってしまえそうだ。その指が炊事場を指す。皿の上には黒砂糖の塊が、水を
張った桶には川魚が二匹泳いでいた。「約束の、ちゃんと用意しておきましたよ」
アーサーは違うと首を振る。肝心の旅支度が出来ていないではないか。こんな
状態では船に乗せることも出来ない。アーサーは船に取って返し、船医を連れて
来ようとした。病人だと騒ぐ声を聞きつけたいつかの役人がどうしてもこの目で
菊が言い伝え通りの化け物かどうか確かめたいとついて来た。それどころでは
ないアーサーだったが、途中で役人がぽつりと口にした言葉に息を呑む。「この
島で海の神様は女人なんでさあ。船長さんが海の神様に愛されているとしたら、
あのお人はその報いを受けたのかもしれねえ」あばら屋に戻ったとき、そこには
夕凪の海よりも穏やかな沈黙があった。船医は首を横に振る。ふわりと笑んだ
顔は幸せに満ちて涙のひとつも湧いて来やしない。化け物と呼んであんなに菊を
恐れていた役人は立ち尽くすアーサーをひとりにしてやろうと外に出ていく間際に
独り言を零した。「これでもう好いたお人に置いていかれないで済むさあね…」
人魚の肉も不老不死も海の女神の報いも最早どうでもいい。二度と愛する人に
置いていかれたくない菊の願いは叶えられたのだ。だからこそ菊は幸福のうちに
逝った。その事実はアーサーにとって唯一の慰めとなった。





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