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※R15 死体にたかる蝿は肉を食むだけでは飽き足らず卵さえ産みつける。そしてここに横たわるはまさしく 死体である。生を謳歌する小蝿にはいささか申し訳ないが、安らかに眠っていたい身としてはこうも 頻繁に邪魔をされては敵わない。どうか放っておいてくれ、と頼み込む段階はとうに過ぎ、堪忍袋の 緒は音を立て千切れ、つまりはいい加減頭にきていたのだ。 それでのそのそと芋虫のように緩慢に動いては稀に生を呪う言葉を吐くぐらいで長いあいだろくに 返事もなかった愚鈍な生物は、木の幹や枯れ葉に擬態して獲物が罠に掛かるのを待っていたかの ごとく、突如機敏な行動に出た。さしずめ布団は枯れ葉であり、素早く伸ばした長い腕は棘の生えた 前脚である。二十代も半ば、こうして巣穴の住人となるまでは鍛えるに事欠かぬ日々を過ごしていた 男の肉体はいまだ衰えぬまま、声変わりにも達しない子供の手首なぞ片手でひと掴み、いとも容易く 宙に浮かすや否や力いっぱい寝台に叩きつけた。ばねが大きく軋んで弾む背を痛めるには至らない ものの、急な上下のせいで舌をしたたかに噛んでしまった。そこへすかさず食らいついて鉄錆の味を 堪能したくちびるは、外殻を噛み砕く大顎さながら。呼吸を求めて藻掻く手足は蜘蛛の巣にかかった 哀れな蝶のようだったし、傷つけることのみを目的として突き刺した生殖器官はまさに毒を吐き出す 針だった。 最初から最後まで子供は苦痛を訴えるばかりで、どうして自分がこんな仕打ちを受けるのか当然 理解できない様子だ。忙しい養い親に代わり昼も夜もなく、生も死もない男の世話を焼いてきたのは この子供である。食事から排泄から何から何まで、夜中いきなり叫びだしてはおこりのように震える 体を小さな体で抱きとめて強張った手指を優しく解し、子守唄を歌って寝かしつけ、遊びたい盛りを すべて犠牲にして尽くした一切を男は嫌がらせの類としか感じていなかったのだ。 それ故の暴挙、しかし何も知らぬ子供にその責めを負うべき咎があろうはずもない。あいにく男は この事実に向き合う心すら持ち合わせていなかった。どうして俺を放っておかないんだ!男の心には 憎しみしかないのである。小さなすすり泣きも呼びかけも虫の羽音に思えてただただ煩わしい。口を 塞ぐたび静かになるので胸のすく思いがした。 嵐のような怒りが鎮まったのは肉体がひと通りの満足を得たあとのことだった。とんでもないことを しでかしてしまった。我に返っても後の祭り。泣き腫らした眦は赤く、諸々の体液にまみれて子供は 気を失っていた。 他人の気配に身を起こすと、本来であればいるべきではない養い親の姿にユーリは驚いた。彼は 有能な騎士団長で、独身で、彼のあと押しとなり得る有力貴族のご令嬢との縁談話が持ち上がった ときのために、足枷になる自分との繋がりは誰にも知られてはならないはずだ。だのにアレクセイと きたら平然と医務室の寝台横に簡易椅子を置き、暇つぶしに本を読むでもなく熱心に気遣わしげな まなざしを寄越してくるのである。なんで!と思わず声を荒らげるユーリに、アレクセイは何故も何も ないとばかりに眉を顰め、有無を言わさぬ所作で再び寝かせるなり理由を述べる。 「お前が倒れたと聞いた」 至って簡潔な理由である。が、見習い騎士がひとり倒れたぐらいなんだというのか。そんな暇ねえ だろ、いちいち見舞ってんじゃねえよと照れ隠しがてらぞんざいに応えると、緩んだ口元からふ、と 笑みを零し、確かに暇ではないなと同意しながらも立ち去る気配も見せないまま、額に手を当て熱を 測り、脈拍から何から事細かに体調を確認する始末。これでは距離を置こうとしている自分が馬鹿 みたいではないか。 立場を弁えない養い親に苛立ちを覚えるも、そもそもアレクセイはユーリの気遣いを無用だと言い 切っているのである。下手に評議会との繋がりを強めてしまっては、むしろ制約を増やす可能性が ある。評議会の過剰な権限を抑制し、帝国内の改革を狙うアレクセイとしては本意ではない。さらに 言えば打算的な婚姻に関心はなく、現在の地位や名誉に良い影響を与えるとは思えない繋がりの ほうが得がたいものだとアレクセイは感じている。心の平穏はもう他で得られそうもない。十余年にも 渡る長い歳月は二人を本物の父子にしていたのだった。 熱もなく、呼吸や心拍も異常はなく、痛みや違和感などの自覚症状もない。それらを確認してから アレクセイは再度、大丈夫かと尋ねる。不惑を迎え、かねてからの心配性が悪化したのかとユーリは やや呆れ気味だ。とはいえ、健康な人間が何の理由もなく突然倒れるはずがない。すべては理由が あってのことだ。 「彼らには処分が下る。騎士団の風紀を乱す者を見逃すわけにはいかん」 アレクセイの言う彼らとはほんの数刻前、見習い騎士に対して難癖をつけ、性的関係を強要しよう とした連中のことである。偶然通りかかった者の助力がなければ見習い騎士は数の力に押し負けて いいようにされていたかもしれない。直後、被害者が突如意識を失って医務室に担ぎ込まれたことで 騒ぎが大きくなり、とうとう騎士団長にまで伝わってしまった。つまるところ被害者はユーリだ。しかし ユーリはアレクセイが確認した通り、何ら体調に異変はない。早い段階で未遂に終わったので暴力も ほとんど受けていない。では何故意識を失ったのか。それは通りかかった者のせいだ。 シュヴァーン・オルトレイン。騎士団隊長首席。平民出身の英雄。人魔戦争の生還者。アレクセイの 懐刀。ユーリとは数年来の顔見知りであり、養い親を支えてくれる男に感謝こそすれ、忌み嫌うべき ところなど何もない。何度も自身に言い聞かせ、理解し、それでも駄目だった。腕を掴まれてしまうと どうしても駄目だ。過去の忌まわしい記憶が正しい呼吸を妨げる、いわゆる過呼吸だ。 肉体的にも精神的にも惨苦を強いたあの生物。あれはシュヴァーンではない。死して蘇った何者か であり、その名をユーリは知らないし、知ろうとも思わない。心の中ではそう結論づけているものの、 やはり肉体のほうは化け物じみた腕力や感触を正確に記憶しており、覆いかぶさる男の下から救い 出してくれたはずの腕に戦慄してしまったのだ。途端、息が詰まってうまく吐き出せない。なのに息を 吸い込む回数ばかり増えて苦しい。異常な呼吸に気づいて、もう大丈夫だから、落ち着いてゆっくり 息を吐けと正しい方向へ導いてくれているはずの声にも背筋が凍ったまま。結局、気を失うまで体に 染みついた恐怖から逃れることはできなかった。 「あいつ、どうしてる?」 薄らいでいく視界で今にも泣き出しそうに歪む男の顔を見た。せっかく助けてくれたのに、傷つけて しまった。後悔が肺の底で重く沈む。発作とはまったく別の原因で息が苦しくなる。ユーリは十年前の 件をとっくに許しているのだ。当時、彼の置かれた状況を思えば無理からぬことだと今はそう思える。 悪いのはいまだに拒絶反応を示す己のほうだと。 「仕事に戻っているよ、お前が気に病むことはない」 だからもう少し眠ったらいいとアレクセイはまるで幼い子供を寝かしつけるように胸の上で緩やかに リズムを刻む。本当は早く訓練に戻りたいし、シュヴァーンにお礼を言って謝罪もしたいのだけれど、 アレクセイがこうしてユーリを甘やかすときは決まって彼自身が何か心理的な負担を抱え込んでいる のだ。それがわかっているから抵抗は諦めて、心地よい誘導に身を任せて目を閉じることにした。 二人とも俺に負い目なんて感じることなんてないのに。それが言えたらどんなにいいか。 規則正しい寝息に背をして医務室を出ると、出入り口のすぐ横に件の男が立っている。どれぐらい 前からそうしているのか、憔悴しきった表情はかつての彼を見るかのようだ。 「謝罪は口にしてくれるなよ」 それはアレをかえって傷つける。低く暗く、床を這う忠告が棘を帯びて男の耳に、心に突き刺さる。 二度と近づくなとも、君が通りがかってくれて助かったとも言えない苦悩がその声音には強く滲んで いる。シュヴァーンはシュヴァーンで、己を蘇らせた男への怨嗟と感謝と彼の養い子に対する感情を 打ち明けられない苦悩を抱え、三者三様、言えない言葉をぐっと飲み込んだ。 |