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いうべきか。それも、血の気が失せて亡霊のように白いというのではなく、透き通るような白磁の肌 だった。いくらそうではない女性がおしろいやら何やら塗りたくっても手に入れられない、とても美しい 肌をしていた。高い理想を掲げながらもひどい現実主義の持ち主で、色恋沙汰など興味もないだろう あの男にもお稚児さんといったものに心と体の慰めを求める可愛げがまだあったのかとしばし驚き、 無遠慮にしげしげ眺めていたものだから、そちらの趣味を疑われていたのはむしろ己のほうだとは 思いもしなかった。怪訝なまなざしで見上げるその表情もやたらと可愛らしかったと記憶している。 しかし長い歳月を経て、今やあらゆる状況が変化してしまった。あの無垢な手指は見る影もない。 桜貝のようだった爪のあいだに血が固まってしまってなかなか落ちないのだと、ブラシで乱暴に手を 洗う横から手の甲を見た。真円を描く不自然なみみず腫れがそこにある。火傷の跡だ。背にはもっと 深刻な火傷が無数にあることを知っている。中には黒く焦げて壊死してしまった火傷まであった。こう なってからは治癒術でも痕は消せない。惜しいことをしたと、偽らざる心でそう思う。 あまりにも丸い円で、何だろうとは思っていたのだ。ひ、と短く悲鳴を呑み込むような声がして、覗き 込んだ開けっぱなしのシャワールームにはとめどなく水の落ちる音が響いている。なに見てやがる。 不機嫌な声に開いていたからだと応えれば舌打ちと共にぷいとそっぽを向いて出て行く。成長期の 伸びやかな手足は若木のように瑞々しく目の毒だった。その背中と太腿に水ぶくれを起こす寸前の 真新しい火傷がある。ぐるり円を描いた焦げ跡の中心に、くっきりと鷲の文様。どこかで見た覚えが あると思えば、封蝋だ。騎士団長の名で信頼を置く隊長首席宛に届く、当たり障りのない任務だとか 世間話だとか間抜けなスパイに盗み見られてもまったく差し支えのない、そんな虚構の手紙を封した 印璽だ。それを赤くなるまで熱し、家畜のごとく主の刻印をして仕置きとする。そうした跡が真っ白な キャンバスのようだった背中をいつの間にか埋め尽くしているのだと気づいた瞬間、怖気が走った。 だが、もう手遅れだった。 最初は命令に逆らったとき、次は口答えしたとき。反抗的な態度が気に障ったとき、たまたま虫の 居所が悪かったとき、あるいは何の理由もなく。躾の域を逸脱した行為が誰の咎めも受けないまま 回数ばかり増していった末の産物である。可哀想ではありませんか。なんて、どの口が言えるもの だろう。理想の騎士の仮面を脱ぎ捨てもうひとつの仮面を被るとき、どこかでほっと胸を撫で下ろす 自分に気づいていないとでも?鋭利な自嘲が今や存在しない心臓に突き刺さった。 「もう十分に落ちているように見えるが」 ブラシの音が長らく鳴り止まないので一声を掛けてやると、ハッとしたように顔を上げる。その肌は 亡霊のように生白く、落ち窪みかけた目の下に土気色をした隈が刻まれていた。あの、騎士団長の 足の陰からきらきらと目を輝かせて見上げていた少年は、もはやどこにもいなかった。閣下の元へ 向かうのだろう?と尋ねると低く唸るように返事をして顔を洗い、水道魔導器の流れを止める。剣を 教えてもらったんだ、閣下の役に立ちたくて。幼く弾む記憶の中に棲む声が耳奥で二度と聞かれぬ 調子でこだましていた。 「あんたも報告?」 無言で頷くと、そうかと言ったきり沈黙が落ちる。足音ばかりが高らかに響く。いまだ主の帰らない 騎士団長の執務室に、決して現実を見据えて今を生きてはいない二人分の待ち人があることを城の 誰が知ろうか。そして共に、それでも他に行く宛てもないことなど。 袖で拭ったばかりでハンカチも持ち合わせていないらしい彼が、頬を垂れる水滴を指で掬ってやる 際、わずかに眉根が寄ったのを見逃さずに治癒術は?と聞いた。彼は不要だと言い切る。彼はこう いう頑固な性分だった。剣術の真似事をして負った擦り傷ひとつのために、長々説教を垂れながら 治癒術を施してくれる優しい心根の持ち主が二度と帰らぬと知っていても、その代わりを他に求める ことはない。世界にはもっとさまざまな人間がいて、もっと彼の心を強く惹きつける人間もいることを 知らないまま、狭い視野の中で、狭い世界の中で、錆びついた思い出に縋って息苦しく生きていく しかないのだろうか。たとえばもし、誰か彼の手を引いて、外の世界に連れ出してみれば、彼は。 けれども空想に思いを馳せていると、ふと、突然ぐらぐらと、煮えたぎるような怒りに襲われたのだ。 たとえば誰か、三十路も半ばの胡散臭い中年男が手に背に焼印を負う他はいまだ無垢といっていい 青年の手を引き、少しばかり血生臭いが、その分にぎやかで生き生きとしたどこか黄昏の街を歩き、 居並ぶ露店で何か好きなものはないかと軽食など買ってやり、得体の知れぬ客引きから守りながら 大通りを潜り抜け、年寄りの冷や水なんて言葉が裸足で逃げ出す豪快な老人に引き合わせてみる。 老人は彼の手を見て、大体の事情は察して事細かに追及する無粋はしないだろうが、何の咎もない 罰にくちびるを噛んで堪えている腑抜けは好かぬはずだ。仕置きが怖くて言いなりか、坊主。傷口に 塩を塗るような言葉を吐き、反抗心を煽るかもしれない。そうじゃないと殴りかかってきたら合格だと 認めて、治る火傷はできる限り癒してやるよう指示を下すだろう。部下や孫にも紹介してやって、そう 遠くないうちに友や仲間と呼べる存在も得て、やがて近場の草原や森あたりから広大な世界を少し ずつ知っていく。あるいは、海に出るのもいいだろう。どうして海の水は塩辛いのか、海の果てには 何があるのか、ひたすら質問責めにして中年男を存分に困らせてやったらいい。今まで彼の世界に 足りなかったもの、遠ざけられていたもの、すべて手に入れていったらいい。時間はいくらでもある。 そしていつか当たり前の自由を手に入れた彼は、他の誰かに特別な感情を抱いたりする? 否、そんなことは到底許すことができない。見知らぬ赤の他人を愛するならまだしも、いや、愛する までには届かなくとも、その男を少しでも気に入るようなことがあってはならない。決して許されること ではない。その男は己が主人を裏切り、手塩にかけて斯くあるべく育てたお気に入りの人形を生ある 人間に戻して、これまでの成果を水泡に帰そうとしているのだ。挙句、恩を売り餌で釣り、あの手この 手を用いて特別な存在になろうと企んでいる悪辣な男だ。主が何をしたか知っていながら言い訳を 重ねて見て見ぬふりを貫いてきたくせに。だから、そんなことがあってはならない。その手を取っては いけない。 こうして飛び立てない鳥が二羽、騎士団長執務室で主の帰りを待っている。報告の次に待ち受ける のは新たな任務だ。次は何をするのか、誰を利用するのか、誰を消すのか。黙って従い続けて、もう 何年経ったか。片や黙って従うことを覚えこまされた彼。まるで異なる生き物であるのに、同じ鳥籠に 棲んでいるのが不思議と心地よかった。 |