「 溺れるタイル 」



 お背中流しましょうか、と突然浴室に菊が現れてルートヴィッヒは驚いた。幸か
不幸か菊は裾や袖をまくっているだけできちんと着物をまとっているものの、
こちらは当然全裸だ。珍しい日本式の露天風呂にも慣れてすっかりくつろいで
いたものだから隠す暇もなかった。同性なのだから恥ずかしがる方がおかしいと
わかっていてもあまりに堂々たる菊の侵入には一歩退かざるをえない。あるいは
菊の控えめなところや表情の柔らかさにはどこぞの淑女よりよほど貴婦人めいて
見えると内心思っていたせいもあるかもしれない。もっとも、彼は有事の際は容赦
なく刀を振るうれっきとしたサムライであるのだが、普段の様子からはまったく
想像がつかない姿でもあった。ルートヴィッヒの慌てぶりとは裏腹にその菊は
何も気に留めた気配もなく手拭で泡を立てている。自分で洗えるからいいと断る
が、さあさ遠慮せず座ってくださいと張り切っている菊には何故か逆らえない。
諦めて湯船から出て木の椅子に座るとすかさず当てられた手拭越しに菊の
小ぶりの手の形だとかぬくもりだとかが感じられて本当に恥ずかしい。アーサー
から菊の家で風呂に入って何かの幻覚を見た話を聞いていたが彼は来客なら
誰にでもこういうことをするのだろうか。こんな、湯女のような真似を。そんなわけ
ないじゃないですかと静かに怒る菊の顔が目に浮かんでルートヴィッヒは押し
黙った。そんなことはないだろう、きっと親しい者だけだ。できれば自分だけに
してもらいたいが。しばしの葛藤のあいだに菊は背中の泡を流し終えてごゆっくり
どうぞと言い残して立ち去ろうとしていた。咄嗟にその手を掴んではみたが、
どんな理由があったのか自分にもわからない。一緒に入りたいなどと思っては
いてもすんなりかわされるだろうと見当がつくし、えーとなんだその、と口ごもる
のを菊は不思議そうに見ながら待っている。
「いや、その…なんだ、あの、ここで、スル、か?」
 と最終的に口をついて出たのはなんとも即物的な言葉で我ながらルートヴィッヒ
呆れた。即座に言い訳を考えたがいい言い訳が思いつかない。当たり前だった。
そりゃあ、ルートヴィッヒにもそういう願望はある。だがよりによってこのタイミング
で菊に言ってしまうなんて。頭痛を覚えるルートヴィッヒに菊はお気持ちは嬉しい
ですけど…と予想された返事をかえす。すまん忘れてくれどうかしていると謝罪を
重ねたところに菊はひとつ微笑んで言った。それはあとにしましょう、私も汗を
流してからにしたいですから。そうして浴室を出て行った。ひとりそこに残された
ルートヴィッヒは何度か言葉を反芻してようやくその意味に気づき耳まで赤らむ
しかなかった。





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