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※捏造人物注意! 陽射しが滲む汗をすぐさま乾かして、蝉の鳴き声もにぎやかな境内にたたずむ 菊に今年もいらしてくだすったんですねえとひとりの老人が話し掛けた。老人は 古びた軍帽を手にしている。顔馴染みと見え、突然のことに驚くこともなく、ええ 十五日に参れないのは心苦しかったですけれどと菊も穏やかな表情で応じる。 事情を承知で今日の日を待っていた老人は来てくださっただけで充分、周りは やかましいですからねえと苦笑した。菊がこのあとお時間ありましたらお茶でも いかがですかと誘うが、老人は予定があるらしくとても申し訳なさそうに断り、 来年の再会を約束すると鳥居のところで敬礼をし、年の割りにしっかりとした 足取りで去っていく。そうして沈黙が戻ってくると喧騒さえ押さえ込んでしまう 蝉の鳴き声は一段と大きく感じられて都会のど真ん中にいることを忘れてしまい そうだった。戦後増えたビルやアスファルトは熱を吸収して境内の外はひどく 暑いだろうが、ここはいくらかましだ。こんな夏の日に思い出すのは、若かりし 頃のあの老人と旧知の間柄だったもうひとりの男だ。いずれ旅立つ老人を迎えて 彼はなんと言うだろう。どうせあの男のことだからずいぶん老けたなあと豪快に 笑うに違いない。真夏の太陽のような男だった。老人と男は同じ年に生まれ、 同じ士官学校に進み、けれど同じ数だけ年を重ねることはできなかった。それは 彼自身が選んだことだ。いくら止めても聞いてはくれなかったのだといつか老人 は遠くを見遣った。青い空の果てを。飛び立つ前の夜、男は菊にひとりの人間と して愛しているのだと告げた。菊は人であり、人ではない。それを知っていても 男は告げずにいられなかった。この機を逃せばその想いは彼の体ごと、命ごと、 次の日には塵と化し、海の底に沈む運命にあるからだ。他の者には妻なり、 子なり、兄弟なり、親なり、それぞれ大切な家族がいて、国に命を捧げることは 家族を守ることに他ならないと信じて志願したのに、彼は天涯孤独の身。そう させたのは己のせいでしかない、菊は痛ましい傷と極度の疲労を抱え、焦燥と 無念を強く感じながら思った。しかし彼は首を横に振り、これは自分のためだと、 国を守ることは俺の愛する人を守ることだと、俺がそうしたいからそうするのだと、 もはやあなたがどう言おうとも止められないとその手を振り払ったのだ。そして 何も答えや見返りを求めようとはしなかった。あなたは私に返事もさせてくれない のですね、菊は飛び抜けて背の高い彼の笑みと敬礼を見上げる。踵を返せば 振り向くこともしないでただ静かに菊のもとを去った。ひどい人、それが彼に 向けられた最後の言葉になった。その耳に届いたかどうか、菊にはわからない。 それからまもなくあの夏は終わり、また夏がきて幾度も季節は繰り返し。夏は いつまで経っても夏のままなのに、人の命のなんと儚いことか。ぼんやりと立ち 尽くしていると汗が筋を作って流れていくような暑さだ。ああ、何か冷たいもの でも食べましょうかね、そうつぶやいて菊は額と頬をまとめて拭い、歩き出す。 |