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あれから菊に六回会った。てことはつまり、半年が過ぎたことになる。その場の 思いつきにしてはいい作戦が出来たと思うんだけど、アーサーが好きで普段から よく見てるスパイ映画のおかげかもしれない。今のところ例の作戦はとても役に 立っている。だけど会える時間はせいぜい二十分程度。それ以上は怪しまれて しまう。20×6=120。そう、俺たちはこの半年でたったの二時間しか会って話す ことが出来なかった。それでもいいと思えるようになったんだから俺にしては随分 殊勝だ。とはいえもっと菊にいろんなことを伝えたかったから三回目のときに台本 じゃなくて毎日菊に宛てた手紙をノートに綴って渡してみた。そうしたら四回目に 会ったとき菊が自分で用意したノートで同じように俺に宛てた手紙を毎日書いて くれたのを渡してくれた。恥ずかしいのでお家に帰ってから読んでくださいねって 真っ赤になる菊が可愛くて、毎日毎日一ページ丸ごと、時には数ページに渡って 俺のために時間をかけて返事を書いてくれる菊が大好きでたまらなくて、それは 今でも続いてる。交換日記だったら書いたらすぐに交換するってものだと思うから これはなんて呼べばいいんだろ。ともかく俺たちはこうして足りない時間を埋めて いた。菊が好きな授業は国語と算数と理科と社会、体育は苦手で、縦の跳び箱 四段がどうしても飛べない、今日は図書館でこんな本を借りた、この冒険小説は アルがとっても好きそう、だって主人公がアルそっくり、好奇心が強くて無鉄砲で ちょっぴり強引、でも本当はとっても優しい男の子なんですよ、この小説を読んで いたらアルに会いたくなりました、ごめんなさい、私のせいで毎日大変な思いを しているんじゃないですか、ごめんなさい、無理はしないで、本当にありがとう、 ごめんなさい。菊が謝ることなんてないんだ。俺が会いたいだけなんだ。それに お手伝いをよくするようになったってアーサーがお小遣いを増やしてくれたんだ。 持っていけるお菓子もたくさん買えるよ。どこにでも売ってるお菓子なのに菊と 半分こにすると嘘みたいにおいしい。菊が好きだって何かするたびに思い出す。 もし明日菊に会えたら、今そばに菊がいたら。泣き出す寸前みたいに笑う菊を 見るとちょっとだけ心が寂しくなるけど。昔の菊はそんなんじゃなかった。もっと 大きい花が咲くみたいに笑ってた。何が菊の笑顔を変えてしまったんだろうか。 確かに菊から聞いた兄貴ってのは異常なぐらいで、菊を雁字搦めに縛りつけて 苦しめてる。でもまだ他に何かあると感じていた。もしかしてと思ったのは次に 会って交換したノートで、その些細な違和感に気がついてからこれまでのノート 全部に目を通した。菊の手紙には友達のことが一切書かれていなかったんだ。 あんなのでも菊の兄だ、ちゃんと話題に出てくる。外国のお土産をもらったとか、 久しぶりに手料理を振る舞ってくれて嬉しいとか。なのに友達に関しては一度も 出てきたことがない。まるで外に出たことが一度もないみたいに。まさかそんな こと。学校にもきちんと行ってるし、公園まで散歩するのが好きって言ってたし、 それなら簡単に友達なんて。それって普通のことじゃないかい?少なくとも菊に とって。幼稚園のときの菊を思い出した。ひどい人見知りで、引っ込み思案で、 泣き虫で、兄を恋しがることしか出来なくて、最初は友達なんか絶対作れそうも なかった。だけど俺と友達になってからは少しずつ変わったと思ってた。それは 俺の気のせいだったんだろうか。そう考えたらじっとしてられなくて、来月なんか 待ってられなくて、辛うじて手元にあった行き帰りの交通費だけ握り締めて家を 飛び出した。幸い合図の電話に出たのは菊だった。俺の突拍子ない行動に驚き ながらも、ちゃんといつもの公園に走ってきてくれる。どうかしたんですか?何か あったんですか?ってものすごく心配そうな顔をしてた。違うよ俺に何かあったん じゃないよ菊が心配になっただけだよ。俺が疑問をそのまま口にしたら、途端に 菊は黙って下を向いてしまった。靴の下の砂利がいやに耳につく。考えなしに 来ちゃったけど、俺もそれを確認して一体どうするつもりだったのかわからない。 友達の作り方を教えるわけにもいかないし。友達って作ろうと思って作れるもの じゃないだろ?ああ、でも昔の俺は菊と友達になりたくて友達になったんだっけ。 難しいな。だけど俺が教えたからってどうかなる問題でもないと思うんだ。俺は 菊の友達になりたいと思った、菊も友達がほしいと思った、だから俺たちはうまく いったんだ。じゃあどうすればいいのかな、菊の友達になりたいやつなんてきっと たくさんいるはずなのに。キィキィとブランコを漕ぎながらひたすら考える。しばらく 経ってやっと菊が口を開いた。「友達なんて…私なんか」俺はハッとした。再会 してから菊はよく"私なんか"って言葉を使う。どうして"私なんか"と思う必要が あるんだ。菊は優しくて可愛くてまっすぐでいいとこばっかりだ。「だって、だって、 お前なんかいなくなればいいって、みんな」菊の沈んだ呟きを聞いた俺は怒りで 脳みそが沸騰するって感覚を初めて味わった。頭の中で、体の中で、大きな炎が 燃えてるみたいにカッカと熱くなって、いつのまにか握りこんだ拳が震える。誰が そんなこと言うんだい。みんなって誰だよ。菊からそいつらひとりひとりの名前を 聞き出して何でそんなこと言ったのか説明させたい。いや、もうそんなのどうでも いいからぶちのめしたい。菊の周りから消してやりたい。そんなこと言うやつこそ いなくなればいい。「やめてアル!それじゃだめなんです、それじゃ誰も幸せに なれない。私もアルも、きっと幸せになれない」菊は"泣きそう"じゃなくて今度は 本当に目にいっぱい溜まった涙を溢れさせて、俺の拳の上に両方の手のひらを 重ねた。温かくて柔らかくて優しい手だ。不思議と俺の中で燃える炎が消えて、 トゲトゲになった心が元に戻っていくのがわかる。怒りが収まったわけじゃない けど、でも、これだったんだ。菊が昔みたいに笑わなくなった理由は。菊が昔に 戻りたいって思うようになった原因は。俺は菊のヒーローになりたいのにどうして もっと早く気づいてあげられなかったんだろう。菊は俺の一番の友達で、結婚の 約束だってしたのに。俺って全然ダメだ。でもめげちゃいられない。これから取り 返していけるかな。いや、取り返していかなきゃ。ふたりとも幸せになれる方法を 探していこう。元の菊の明るい笑顔がもっと見たいよ。 |