|
菊に会えたら話したいことがいっぱいあったから、前もってノートにひとつひとつ 書き並べて、これは要らないとかこれは絶対話そうとか、ああでもないこうでも ないって何日もかけて台本を作って、次はそれを菊に話す練習を何回も何回も して、準備万端で会いに来たはずだったのに全然だめだ。昔の泣き虫な菊に 戻っちゃったみたいにアル、アルって涙声で縋ってきたから頭はもう真っ白だ。 菊の体は温かくて夢じゃないって教えてくれるのに、なんだか夢の続きを見てる みたいだ。それに、おかしい。俺は昔から菊が好きなはずだった。でも今までの "好き"じゃない"好き"が俺の中にあるんだ。同級生がそういう話をしてるのを 聞いてもいまいちピンと来なくて、俺にはいつソレがやって来るんだろってずっと 思ってたけど、たぶん、コレがそうなんだ。変な確信がある。だけどいつのまに こんなに好きになってたのかな。不思議なかんじだ。今まで知らなかったくせに 初めからそうあるのが当たり前みたいに自然と溶け込んで胸のあたりが温かい。 足元がふわふわして覚束ない。けど怖くない。どうしよう、うまく説明出来ない。 代わりに俺の口から出てくるのは練習した台本とはまったく関係のないどうでも いい話で、最近学校でやった理科の実験が面白かったとか、休日にアーサーが 作るスコーンがまずいとか、好きな給食のメニューとか新しいゲームとか、そんな 話ばっかり。なのに泣きやんだ菊はちっとも嫌な顔しないで嬉しそうに話を聞いて くれるんだ。時々相槌とか質問を挟んで、何年も会えなかったなんて嘘みたいに 普通に会話してる。本当に夢じゃないのかなって何度も何度も思う。どれぐらい 時間が経ったのか、家の奥から古い時計のボーンという音がした。それで菊は ハッとして、慌てて時間を確かめて「ごめんなさいアル、家を出て左にまっすぐ 行くと公園があるので十分ほど待っててくれますか」とさっきまでの雰囲気とは がらりと変わって、まるでどこか痛いみたいな暗く沈んだ表情で俺の手を両手で ぎゅうっと握った。俺は重苦しい空気に負けてどうかしたの?とかなんで?とか 口を挟む余裕もなく頷いて、おとなしくその言葉に従った。咄嗟にそうしないと 菊が困ると感じたからだ。歩いて二、三分で人気のない小さな公園があった。 ブランコに座ってぼんやり考える。菊が何故あんな風に言ったのかわからない。 わからないけど、菊のあんな顔、見たことなかった。十分ぐらいしたら約束通り 菊がぜえぜえ肩で息をしながら走ってきた。公園の入り口できょろきょろ迷子 みたいにあたりを見渡して俺を見つけた途端に明るい雰囲気が戻ってまっすぐ 駆けてくる。そして菊は途切れる声で俺に何度も謝った。そんなことはいいんだ、 俺たちが会えなかった年月に比べたら十分なんてほんの一瞬だ。それより俺は 菊の様子がおかしかった理由が知りたかった。菊はひとつ大きく息を吐いて隣の ブランコに座る。少しだけ静かな時間が流れて、やがて菊は口を開いた。ちょうど さっきは家政婦さんが買い物に出かけていたのだという。そろそろ帰ってくる頃で 家政婦さんに俺が見つかるわけにはいかなかったのだと。俺ってそんなにアレな かんじに見えるんだろうかと不安になったら菊はいいえ、いいえって一生懸命 首を横に振った。菊を悩ませてる原因はやっぱり例の"兄貴"だった。菊は兄に 友達を作るなと言われてるらしい。他にもたくさん、学校が終わったらすぐ寄り道 しないで家に帰ってくること、帰ったら兄が帰るまでは一歩も外に出てはいけない こと、そういう兄が決めたルールがあって、それでも今の家政婦さんがいい人で ちょっとした散歩程度なら見逃してくれること、だからこうして場所を移動して散歩 してくると言って家を出てきたこと、すぐ戻らなきゃいけないこと、手短に淡々と 説明してくれた事実はあまりに俺の知る世界から現実離れしていた。そんなの、 おかしいじゃないか。絶対におかしいよ。菊はドレイやペットじゃないんだ、友達 作ったり外で遊んだりなんて普通のことじゃないか。いくら兄だからってどうして そうやって普通のことも制限されなきゃいけないんだ。アーサーもウザイぐらいに 過保護だけどそこまでひどくない。第一、俺だったら従わない。従うもんか。菊も 菊だ、嫌なら嫌って言えばいいんだ。言ったってだめなら部屋に立てこもってみる とか家出してみるとか、俺も試したことがある反抗手段をいくつか挙げるけど菊は 「別に、私なんかいいんです」って何もかも諦めたみたいに地面の砂利を見てる。 菊は、変わった?何か違う。菊は菊のままなんだけど、そりゃもう小学生なんだし 昔とは違うだろうけど、何かが違う。手紙に書いてあったことを思い出す。何か、 兄のことだけじゃない何か。菊が昔に戻りたくなるような何か。菊の元気を奪う 何か。俺はそれを知りたいと思った。知って、それで菊の中から取り除きたいと 思った。そうしたら、菊は昔みたいに笑ってくれるんだろうか。最初のほんの数分 以外、今日の菊が心の底から笑ってないことに俺は今更気がついた。ニセモノの 笑顔は俺の心まで寂しくさせる。事情を聞いてもなお菊を公園に留めておくことは 出来なかったから、来週また来ると言いたかったけどここまで来るのにどれだけ 苦労したのか思い出して、来月また来るよと俺は言った。そのときもし菊の兄が 家にいたら面倒なことになるだろうから近くまで来たら電話する、別の人が出たら 間違い電話のフリして諦めて帰る、菊が電話に出たらここで待ってるよ。咄嗟に 思いついたにしてはいい作戦だ。菊は本当に?ありがとうアルと笑った。だけど やっぱり何か違う。トゲが刺さったみたいにチクチク痛い。持ってた台本ノートの 切れ端に電話番号を書いてもらって俺たちはそこでお別れした。大丈夫、また 会えるから、会いに来るから大丈夫って自分にも言い聞かせたけどいなくなった 日の記憶が蘇って何度も振り返りながらお辞儀をしながら公園を出て行く菊の 背中を潤む目で見送る。夢みたいだとさっき思ったけど、菊にとって嫌な夢なら 俺がそこから連れ出してあげたい。それがきっとヒーローの役目なんだ。俺は 菊のヒーローになれるかな。菊のそんな顔、見たくないよ。 |