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『お前は先のことを何にも考えちゃいない、おこづかい帳はちゃんとつけろって いつも言ってるだろ!』って毎度毎度同じ台詞を繰り返すアーサーの声が本人は いないのに頭の中でぐわんぐわん反響している。普段ならうざったいなあぐらい しか思わなかったお説教を素直にそうしておけばよかったと珍しく反省するのは 本当にお金が必要になってからで、今がそのときだった。世の中は便利なものが 溢れていて菊の書いた住所をパソコンに打ち込めばどうやって俺がそこに行けば いいのか全部教えてくれる。俺をたびたびもう二度と会えないんじゃないかって 不安のどん底に突き落としてた距離は驚くほど近くて、それでも電車を三つ乗り 継いで、そこからさらにバスに乗って、と考えると俺の財布は軽すぎた。いつも 夕飯を待ちきれず、ついついファーストフードやコンビニでちょっとしたおやつを つまんでしまうせいで俺の小遣いは月の半ばには大体底をつく。そんなときは 仕方ないからアーサーに頼ることになるんだけど、今回だけはそういうわけには いかない。これは俺の問題だし、そんなんじゃ菊が想像してるようなかっこよく 成長した俺にはなれないと思ったから。俺は自分の力で菊に会いに行きたい、 自分の力で菊の助けになりたいんだ。それがヒーローってものだろ?とはいえ 小学生の俺が働けるはずもないので俺はその日から早く早くって逸る心を抑えて 今までやろうとも思ったこともない家の手伝いに励んだ。アーサーは「熱でもある のか?」って不審げに失礼なことを言ってたけど俺だって好きな子のためなら それぐらいやれる。一日にもらえるお駄賃はたいしたことないけど積み重ねて いけばちゃんとお金は貯まっていく。菊に会いに行くためのお金だ。友達と遊ぶ 時間は少し減ったけど全然つまんなくない。全部全部、菊に会いたい俺のために することなんだから。ひと月もしないうちに行き帰りの交通費は貯まった。あとは 菊にあげたら喜ぶかなってお菓子とか、花屋さんで好きな子にあげるんだって 言ったらサービスで真っ赤なリボンをつけてくれた真っ赤な薔薇の花を一輪とか、 飛びっきりのおめかしとか、俺はすっかりデート気分で家を出た。道のりは何度も 何度も頭の中でシミュレートしてたから知らない駅でもあんまり迷わず乗り換えも 成功して、降りたバス停から地図を頼りに歩いて数分。大きな屋敷の前で俺は 足を止めた。表札には王って書いてある。菊の苗字は本田なのにおかしいなって 思ったけど通りがかった近所の人にここに菊って子いる?って尋ねて、いるって 聞いたらもうそんな些細なことはどうでもよくなってた。玄関のチャイムを押すと ピンポーン、ピンポーンって大きな空洞にこだまするみたいに響いた。でもあの 嫌な兄貴とかが出てきたらどうしようって今更気づいて慌てた。咄嗟に隠れようと したら、インターフォンから聞こえてきた『…どちらさまですか?』って声はまるで 奇跡に出会ったみたいに、耳から離れなくて思い出すたび悲しくなってた記憶の 声と本物の声は全然違う響きがして、『あの…』って困ってる菊になんと言ったら いいか脳みそが吹っ飛んだみたいに何にも考えられなくなって、だけどこのまま じゃ悪戯だと思われちゃうって「俺!俺だよ!俺!」って必死にインターフォンに 向かって叫んだ。それも何か違う気がするけど「菊!ねえ菊だよね!俺、会いに 来たよ!俺だよ!」ってバカみたいに繰り返すしかなくて、俺かっこわるいなって 思ったのに、菊は「…アル?」って震える声で聞き返してくれて、もう俺は、もう それだけで泣きそうになった。ドア越しにガチャガチャ鍵をいじる音がしてすぐ、 今まで俺たちを隔ててた距離みたいな重いドアが開いて、数年ぶりに再会した 菊は背、あんまり伸びてないねって意地悪を言いたくなるぐらいちっとも変わって なくて、俺はそれが余計に嬉しかった。菊は初めて会ったときみたいに泣いては いなかったけど今にも泣きそうな目をして俺を見上げていた。ほら俺、身長伸びた だろ?かけっこも鉄棒も跳び箱も運動は学年で一番さ!勉強は…そうでもない けど。菊が「どうして、どうして…!」って聞くから俺はお土産のお菓子と薔薇を 手渡して「菊に会いに来たに決まってるだろ!」って言ってやったんだ。そしたら 「私のこと、怒ってない…んですか?」っておそるおそる聞いてくるから「怒ってる ならわざわざ会いに来たりしないんだぞ!」って久しぶりにハグをした。俺の腕の 中に収まっちゃう菊はやっぱりかわいくて、いいにおいがして、俺はどうしても 菊が好きだって、忘れるなんて出来ないよってそう思った。菊は泣いちゃって、 アル、アルって背中に手を回してきて、俺はしばらくのあいだ、抱きしめる腕に 力を込めること以外すべてを忘れていた。 |