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アーサーの帰りは早くても大体七時を過ぎるので、俺は自宅の鍵を紐に通して 首から下げて落とさないように持ち歩いている、いわゆる鍵っ子だ。ただいまを 言っても返事がないことはずっと当たり前だったから別に寂しいとかそんな風に 思ったことはない。俺はもう子供じゃないんだし。ただひとつ、俺が寂しいと思う のはもう何年も前に特別な友達だったあの子に会えないこと。小学校は楽しい。 勉強も嫌いじゃない、友達もいっぱい出来た。でもみんな特別かと聞かれると 何か違う気がする。今思えば恥ずかしいけど俺は結婚の約束もしちゃったし。 それをあの子が覚えてるかどうかなんて俺には知る手段もなくて、それどころか あの子が生きてるかどうかさえ俺は知らないんだから。ある日突然、全部が全部 夢だったみたいにいなくなってしまってそれっきり。でも一日も忘れたことなんて ない。俺の特別な友達、菊。怖がりでちょっぴり泣き虫だけど笑ったらすっごく かわいくて、その笑顔で俺のこといつも嬉しそうにアルって呼んでくれてたのが、 初めての友達が俺でよかったって、わたしアルが大好きって言ってくれたのが、 大人になったら結婚しようって約束してくれたのが、みんなみんな夢じゃなかった 保証なんてどこにもないんだ。菊が俺のために作ってくれた花冠だってとっくの 昔に枯れ果てて、いつのまにかアーサーが捨ててしまった。時々嫌な夢を見る。 笑ってる菊が乾いた砂の城みたいにぼろぼろ崩れて跡形もなく消えてしまう、 怖くて悲しい夢。起きてすぐだとどっちが夢でどっちが現実なのかわからなくて 頭がぐちゃぐちゃになって恥ずかしいぐらい泣いている朝があって、アーサーに 言い訳をするのが大変だ。だから俺は夜眠ることが少し怖い。そんなある日の ことだった。玄関前の赤いポストに一通の封筒が入っていた。アーサー宛なら 請求書の類は毎月毎月来るけど友達がいないから個人的な手紙はあんまり 来たことがない。単純に珍しいなあと思って、目立つようダイニングテーブルに 置いててやろうと思って宛名をふと見ればそれは、俺の名前、だった。漢字と ひらがなの混じった宛先。大体俺と同じ年頃の子供が書いたってわかるのは 俺にも読めない漢字は使っていないことから推測出来る。でもせっかちな俺の 字とは全然違う、ゆっくり丁寧に書かれたものとわかるきれいな字はすでに胸の 奥をざわめかせるものがあった。ドキドキしながら封筒の裏を見る。本田菊という 名の差出人。「菊」という漢字をなんと読むのか、今の俺はちゃんと知っている。 俺は焦りに焦って急いで封を切った。中にはたった一枚の便箋。きっちり三つ 折りされた便箋を開いて、俺は死刑宣告でも待ってるみたいな気持ちで文章の 始まりに目を遣った。 『こんにちは、アルフレッドさん。もう覚えてらっしゃらないかもしれませんが、私は ようちえんにいたころ、とてもお世話になった本田菊ともうします』 何をバカなことをって俺は思った。もう菊を覚えていないなんて、そんなことある もんか。菊と一緒に過ごした短くても楽しかった日々を忘れるなんて。逆に俺は、 菊が俺を覚えていてくれたことが嬉しくてしょうがなかった。しかも俺に手紙を 書いてくれて。どうしよう、あとちょっとで涙が出てきそうなぐらいだ。 『ごめんなさい。あんなに仲良くしてくださったのにさよならのあいさつもしないで いなくなった私をアルは怒ってはいませんか?』 怒ってなんかいないさ、最初の頃はどうして?どうして?って悪い考えばっかり 浮かんで頭の中がぐるぐるして悲しくて泣いたり悔して泣いたりしたけれど、菊を 怒ってなんかいない。神様に誓ったっていい。 『ごめんなさい。私も本当はさよならのあいさつをしたかった。きっとまた会えます よね?ってちゃんと約束をしたかった。でも兄が許してくれなくて、ごめんなさい』 菊の文章には数行に一回必ず『ごめんなさい』が出てきた。もっとアルとお話 したかった、もっとアルと遊んでみたかった、もっとアルと、もっと、もっと一緒に、 ずっとアルと、ずっと一緒に。ごめんなさい、アル。ごめんなさい、ごめんなさい。 たくさんの菊の叶わなかった希望と繰り返される菊の謝罪。俺と同じぐらい菊も 苦しんでいたんだってわかった。挨拶も許してくれたかった兄。そうだ、幼稚園に 通うまで外に出してくれなかったっていうあのひどい兄貴だ。手紙によると俺と 結婚の約束をしたことを話した途端に怒り出し、引っ越しと転園をさっさと決めて しまったのだそうだ。大事な弟に悪い虫がついた、そう俺を罵ったと。 『ごめんなさいアル。ごめんなさい。私はずっとアルにあやまりたかった。きのう 小学校で手紙の出しかたを習ったので、あのようちえんを調べて電話をかけて 無理をいってアルの住所を教えてもらってすぐ手紙を書きました。本当にアルに 届いているといいのですが』 俺はもう、泣いていたのかもしれない。目元を擦っても擦っても目の前がぬるい 水ですぐ滲んでいた。よくわからないけど嫌な夢を見た朝とはまた別で、色々な 感情がぐちゃぐちゃになって俺の心をぐるぐる引っかき回して、心臓が違う生き物 みたいにバクバク言い出して。どっかの小学校に通ってる菊は今頃どんな風に なってるのかな、とか、また泣いてたりしないかな、とか、俺のこと好きだって、 今でも変わってないかな、とか。 『アルは今、元気ですか?』 俺は、俺はもちろん元気だよ。ヒーローだからね。朝起きるのは苦手だけど、 なんとか起こしてもらって、でもアーサーってば相変わらず料理が下手だから 給食が大好きなんだ。毎日余り物を巡ってみんなとじゃんけん大会をしてるよ。 休み時間や放課後は大体校庭とか近所の公園とかで遊び回って、アーサーが 帰ってくるとうるさいからそれまでに宿題は終わらせて、偉いだろ?それでまた マズイご飯を食べて、ひとりでお風呂も入れるし、自分の部屋でひとりで眠れる。 元気そのものだよ。菊がいなくて寂しいのを除けば、元気だよ。 『私は、あんまり元気じゃないです。できたらあのころに戻って、アルといっしょに いたい。ごめんなさい。ごめんなさい』 そこまで読んで俺は、急に色んな疑問が湧いて胸が苦しくなった。どうして菊は 元気じゃないの?どうしてあの頃に戻りたいの?何でこんなに謝るの?菊は今、 幸せじゃないの?俺はなんだか、菊がこれを書きながら泣いてるんじゃないかと 思った。菊の泣いてた顔が浮かんで消えない。ひとりぼっちで泣いてた昔の菊。 思い出したら胸の奥がズキンズキン痛くてしょうがなかった。 『今のアルは背も伸びて、かっこよくなったでしょうね。きっと人気者で、私なんか じゃもう手の届かない人になって。だけどもし良かったら私のこと、ずっと覚えてて くれませんか?私もずっとずっと覚えていますから。私、アルとお友だちになれた こと本当に神様にかんしゃしています。いつか、いつかわからないけどまた、また 会えるといいなっていつもいつも思っています。とつぜんの手紙でごめんなさい。 今度こそさようなら。私の特別なお友だち、大好きなアルへ。菊より』 俺は何度も何度も手紙を読み返した。菊の書いた字、菊の言葉、菊の気持ち。 そうやって繰り返し確かめるうちに俺の中にどす黒く渦を巻いてたごちゃごちゃが すっきり片付いて、あとはもう菊のことだけしか考えられなくなっていた。菊が 元気じゃない理由を知りたいとか、今すぐ菊に会いたいとか。封筒にまだ何か 入ってないかなって覗き込んだら一枚の小さな紙が落ちてきて、何だろってよく 見るとそれは白詰草と四つ葉のクローバーを押し花にした手作りのしおりだった。 菊はあの約束のことも覚えててくれてるんだ。 "じゃあ菊、約束だぞ!おとなになったら絶対ケッコンするんだ!" 幼い俺の声が俺の中で蘇る。あのときはまだ結婚がどういうものかもわかって なかったくせに。恥ずかしい、恥ずかしいけど、菊だったら俺、今でも結婚しても いいって、思うよ。もし菊が泣いてるんだったら俺がそこから助け出したいって、 思うよ。だって俺は菊の特別な友達で、菊は俺の特別な友達で、でもそれだけ じゃない。俺たちは大きくなったら結婚するんだろ?そうだろ?だから、だから 俺は、どうしても会いに行かなきゃって思ったんだ。幸いにも封筒の裏、そこに 菊の居場所は書いてある。 |