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おれは菊に話しかけ続けた。せんせいたちが諦めても、おれは諦めなかった。 菊はおれにとってトクベツな友達だから、全然いやなことじゃなかった。そうして 菊は少しずつ泣き顔じゃなく笑顔を見せてくれるようになった。教室の隅っこから 出てきて、お絵かきをしたりご本を読んだり、おれを通してほかの園児ともお話 するぐらいに次第に幼稚園に打ち解けていった。それでも外に出たことがないと いうのは本当らしくて、外の遊びに連れ出すときはいつもぎゅっと手を握ってて やらないと怖がって出ようとしなかったけど、おれはその握り返してくれる強さが ちょっと嬉しくもあった。菊がおれを頼ってるっていう証拠みたいに感じたんだ。 恥ずかしがり屋でお歌をうたうのもちっちゃい声だし、せっかくのおいしいご飯も すぐおなかいっぱいですって残しちゃうし、外よりも教室にいるほうが好きだし、 菊とおれは全然違うけど、菊と一緒にいる時間はすごく楽しい。菊が笑うと胸の とこがじわあってあったかくて幸せな気分になる。おれはたぶん、菊のことがすき なんだ。園の敷地の隅には白詰草が敷き詰めれた一画があって、遊具や広場が ほかの子たちでいっぱいのときはおれたちはそこに隠れるようにして二人きりで いることが多かった。菊はその白詰草を使ってこれ、ご本で覚えたんですよって おれにきれいな花冠を作って頭に乗せてくれた。正直、変なかんじだと思った。 おれよりこういうのは菊のほうが似合うのにって。おれは悔しいけどこんな花冠の 作り方なんか知らなかったし、あんまり器用じゃないからお礼に何もあげることが できない。おれも何か菊に作ってあげたいのに。ひとつだけ思いついたのは茎を 長めに摘んで、輪っかを作って指輪にすること。前にアーサーから聞いたことが あるんだ、ケッコンをするときは左手の薬指に指輪をするんだって。「菊、大きく なったらおれとケッコンしようよ」菊は不思議そうに首を傾げて言った。「ケッコン って、なんですか?」おれもよく知らないけど菊はおれよりもっと物事を知らない。 菊はおうちであんまり勉強をさせてもらえないのかもしれない。これまで外にも 出してくれないぐらいなんだからきっとひどい兄貴なんだ。おれとケッコンしたら そのひどい兄貴から菊を自由にしてやれるんだっておれはますます強く思った。 「ケッコンはね、ずっとずっとすきでいようっていう約束なんだよ」おれの答えに 菊は独特のふわふわした笑い方をして「わたし、約束なんかしなくたってずっと アルがすきですよ?」って言った。それを聞いておれは確かに嬉しかったけど、 おとなになったら気持ちが変わっちゃうかもしれないじゃないか。「菊はかわいい から絶対ほかのやつがほっとかないよ。取られちゃうかもしれない」ムキになって さらに言い募ると菊はくすくす笑って「わたしなんかをすきになるひとなんて誰も いませんから大丈夫ですよ。でも、アルがそんなに言うなら約束、します」って、 おれが差し出した白詰草の全然かっこよくない指輪を薬指にはめさせてくれた。 本当は菊に似合う花冠だってネックレスだっていっぱい作ってあげたいけど、 今のおれにはこれだけ。「じゃあ菊、約束だぞ!おとなになったら絶対ケッコン するんだ!」菊はいつもより嬉しそうににこにこしながら「はい」って頷いた。その ピンク色のほっぺに誓いのチュウをして、おれは菊をお嫁さんにするんだって心に 決めた。だっておれは菊のトクベツな友達で、ずっとずっと菊を守っていかなきゃ いけないんだ。おとなになったって菊はおれのことをずっとすきで、おれもずっと ずっと菊をすきでいるんだから、おれたちがケッコンするのはアタリマエのこと なんだ。それからしばらくして、菊は卒園を待たず別の幼稚園に移っていった。 最近は毎朝あの兄貴との別れも穏やかで、最初の大泣きが嘘みたいにわたし この幼稚園がすき、だってここにはアルがいますからって言ってた菊は、ある日 突然来なくなって、おれはせんせいから菊がもうここには来ないって聞いた。菊の 描きかけのお絵かき帳におれの絵が描いてあった。どうして菊は、おれに何にも 言わずにいなくなったんだろう。おれは長いあいだ立ち直れなかった。そのわけを 知るのはお互い読み書きを覚えて、手紙を書けるようになった頃になる。 |