その子は少しだけトクベツだった。最初は、悪い意味で。入園式でひとつだけ
空いた席。一体どんなやつが来るんだろ、友達になれるかな、なれたら嬉しいな
と思ってたら翌朝、おれが見た光景は何だかスゴイものだった。子供を預けて
帰ろうとする保護者に縋りつき、「にーに!いやです!置いてかないでください、
にーに!」ってわんわん泣いてる黒い髪の子。これで二度と会えなくなるわけ
でもあるまいに、「哥哥だって断腸の思いでお前を置いていくあるよ、わかって
ほしいある!」と保護者は駆け足で去っていく。あとに残された子は遠ざかる
背中に向かって泣き叫び、悲痛な声はもう届かないと知るや途端におとなしく
なって教室の隅っこでぐしゅぐしゅと泣いていた。せんせいたちがどんなに声を
かけてもその子は決して泣き止まない。楽しいお歌にも面白いご本にもまったく
興味を示さず、おいしいご飯にも手をつけないでこちらに背を向けてじっと膝を
抱え、嫌な時間が終わるのをひたすら待っているみたいだった。ようやく迎えの
時間がやってくると保護者のほうも一秒たりとも待たせてたまるかというような
勢いで時間ぴったりに走ってきて、「哥哥が迎えに来たあるよ!」という言葉に
その子は真っ赤に腫れた目のまま嬉しそうに抱きついて、もう離れたくないと
ばかりにぴったり体を寄せてぎゅっと服を握り締めていた。でも次の朝にはまた
大袈裟な別離を繰り広げる。まるで乳離れできてない赤ん坊のようだとおれは
うんざりした。やかましい泣き声は朝だけであとは静かなものだけど、その子の
すんすんと鼻をすする音は何をしていても耳についてうざったいことこの上ない。
誰が話しかけても聞こえないみたいに無視するヤなやつ。しかもとんでもない
甘ったれで泣き虫で陰気、正直おれとは気が合いそうにもない。友達になんか
ならなくたっていい。そう思ってたんだけど、せんせいが教えてくれたのはこの
組でおれとその子だけがおとうさんとかおかあさんがいなくて、兄が保護者だと
いうことだった。だからって仲間だなんて思ったりはしない。「アルくんならあの
子の気持ちわかったりしないかな?」って言われても、おれはあんなのと一緒に
されたくない。おれにはその子の気持ちが少しもわからないんだから。十日も
過ぎるとその子と同じように幼稚園になかなか慣れないでいたほかの子たちも
ここがいやな場所じゃないってわかってくるのに、あの子はずっと泣いたまんま。
泣きすぎて水分が足りなくてそのうちしおしおになって死んじゃうんじゃないか
ってぐらい。おれは仕方ないから話しかけてみることにしたんだ。「きみはなんで
ずっと泣いてるんだい?あんなのがいなくたってせいせいするだけじゃないか」
そのとき、それまで誰の呼びかけにも答えなかったその子がおれの声に初めて
振り向いたからびっくりした。兄をあんなのって言ったから怒られるかと思った。
だけどそうじゃなかった。転んで痛いとか、思い通りにならないとか、そんなんで
泣いているほかの子とは全然違う、すごくすごく寂しくて悲しい、泣き顔だった。
「…わたし、にーにから言われて、ずっとお外に出たことなくて、だから怖くて、
お友達もいないから、にーにがいないとわたし、ひとりぼっち…」涙で顔をぐしゃ
ぐしゃにしてその子は言った。名札には「きく」と書いてある。きく、菊、デイジー、
女の子みたいなかわいい名前だ。真っ黒でつやつやした髪も、真っ黒の目も、
ちょっとだけかわいい。笑ったらもっとかわいいんだろうなと思ったらどうにかして
見たくなった。でもどうやったらおれが今の菊を笑わせられるんだろう?悩んで、
悩んでおれは決めた。「じゃあおれがきみの友達になってあげるよ!そうしたら
きみはもうひとりぼっちじゃなくなるよ!」そしたら菊の顔がぱあっと明るくなって、
「ほんとうですか?」って聞き返すから本当だよ!って頷いた。すると菊は花が
咲いたみたいに笑った。ああ、やっぱり笑うとかわいかったと思いながらおれは
ヤなやつだとか思ってたのを反省した。菊はただ、ひとりぼっちで寂しくて怖くて
不安でしょうがなかったんだ。そしておれは一番の友達として、これから先ずっと
菊をいやなもの全部から守っていかなきゃって、おれは菊のヒーローにならなゃ
って、そう思ったんだ。こうして菊は俺のトクベツになった。もちろんそれは、いい
意味でだった。





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