「 そんなに甘いもんじゃない 」



 その昔、時の皇帝をして断崖に咲く一輪の白百合の如しと言わしめた美貌の貴婦人がこよなく
愛したという、幻の砂糖菓子のレシピが先頃古い文献より発見されたらしい。荷運びや客引きの
真似事などして日々の糧を得ていた幼少時代、雇い主の行商人から聞いた話だ。もし聞き手が
妙齢の女性だったなら、皇帝をも巻き込んだかもしれない華々しいロマンスやら美の秘訣やらで
さぞ食いつきのよかったはずの話題も、花より団子を地でいく空き腹を抱えた子供には馬の耳に
注ぐ念仏ほどの価値もないようでへぇだのふぅんだのと反応は至極薄っぺらい。だがさして失望を
滲ませることなく、行商人は手隙を見計らってはたびたびこういった与太話をしてみせた。子供の
記憶におしゃべり好きのおっさんとして留まる主たる原因である。
 栄えある帝都の住人といえば上から下まで皆上等の絹の服を身に纏い、湯水のようにガルドを
浪費し、結界の庇護のもと魔物の脅威を想像だにせず、安穏と肥え太っているものとばかり思い
込んでいた行商人にとって、己が目で捉えた現実は被害妄想じみた固定観念を粉々に打ち砕く
大きな打撃となった。上は上、下は下。よその街より広く深い隔たりがその狭間に重く横たわって
いる。二親の顔も知らぬ子供はそこにある三角構造の中でも最底辺、幾重にも折り重なる善意と
幸運の上に辛うじてその生が成り立っていることを幼いながらすでに理解しているように見えた。
不釣合いなほど大人びた横顔が痛ましく、憐憫の情を抱きもしたが、だからこそ見て見ぬふりを
貫いた行商人もまた善意の持ち主だった。むやみやたらと甘やかすことはなく、代わりにそうして
広い世界に散らばるさまざまな話を贈り物とした。貴婦人の砂糖菓子の話もそのひとつだった。
 肝心の砂糖菓子の味を子供が知るのは帝国に出入りすることが難しくなったから河岸を変える
ことにしたと告げ、行商人が姿を見せなくなってしばらく経ったあとのことだ。今にして思えばあの
商売人はギルドの人間だったのかもしれないと十数年の月日を経て、成長を遂げた子供は似た
ような立場から頭の片隅にある与太話を懐かしく振り返る。ダングレストの露天商をいつもそれと
なく探っているものの、いまだ脳裏にある面影は見つからない。商売は辞めたのかもしれないし、
どこか別の街で元気に商売を続けているのかもしれない。そう祈る。ともかく、砂糖菓子を味わう
きっかけは期せずして幼馴染からもたらされた。同じく市場の手伝いをしていた幼馴染が常連の
貴族から屋敷まで荷を運んだ駄賃に頂戴したのだという。
 骨董品のように美しい装飾の施された陶器の容れ物を大事に持ち帰った幼馴染は、どこにも
立ち寄らないで駆け寄るなり"はんぶんこ"を申し出た。おそらく二度と口にすることはない貴重な
代物だろうに独り占めにする発想すら持たぬこのお人好しぶり。半ば呆れながらも高まる期待は
隠せない。何しろ甘いお菓子など年に数度、結婚や出産など祝い事でもなければ味わう機会の
ない高嶺の花だ。こういった環境が成人してなお味覚の好みに影響を与えている事実は周知の
とおり。しかし、このとき子供の純粋な期待は無残に裏切られる。溢れんばかりの喜びにきらきら
瞳を輝かせておそるおそる蓋を開けてみれば、そこに居座っていたのは紫色をした泥炭に似た
"何か"。原料のひとつはすぐ思い当たった。スミレの花の香りがする。だが解せない。普段から
おやつ代わりにそこいらの花の蜜を啜る子供には馴染みの深い、それだけに希少性とは無縁の
スミレをどうして貴族がわざわざこんな大仰な加工をして食べようとするのかわからない。確かに
菓子は甘い。高価な砂糖をふんだんに使っているので、花の蜜と比べたらそりゃあ何倍も甘い。
とはいえ特別においしいかと問われたら決してそうではなく、結果として噂の貴婦人は変わり者と
いう認識を得て現在に至る。

 人間いかなる状況下にも希望を見出すもので、ある日を境に結界魔導器という絶対の庇護を
失い、魔物の恐怖に怯えて屋敷の奥に閉じこもる者もいれば、世界中どこへ行っても条件は同じ
なのだと早々に開き直り、喜び勇んで旅立つ者もいる。帝都から遠くないハルルはそうした冒険
初心者にとって絶好の足慣らしであり、熟達した旅人にとっては依然として休息には欠かせない
場所だった。人の出入りが増え、経済は潤う。同時に新たな悩みの種も生まれた。何かと縁深い
ハルルの長からの依頼ともなれば例のほっとけない病が黙っちゃいない。何だかんだ言いながら
結局引き受ける羽目になるのが凛々の明星たる所以とも言えた。大空を泳ぐバウルに乗り、文字
どおり飛んできた面々に対する依頼の内容は「ハルルの新しい名産品を考えてほしい」とのこと。
どうやら奇跡まんじゅうだの何だのの売れ行きはあまり芳しくないようだ。すわ巨大獣の襲来か、
はたまた精霊の異変かとなまじ張り切っていたものだから肩透かしもいいところだがそこは魔物
退治から倉庫整理までござれの何でも屋ギルド、凛々の明星の名にかけてお引き受けすることと
相成った。
 食べ物にせよ工芸品にせよ、名産品として売り出すからにはこの世に二つとないものがいい。
ハルルにしかないものといえば、やはり常咲きの巨木だろう。特に足を踏み出すたびにひらひら
宙に舞う無数の花びらはこの世の景色とは思えないほど幻想的だ。ほんの少し前、長の手元に
一枚しか残らないほどの貴重品だったことが嘘のように、来る日も来る日も舞い落ちる花びらは
今となっては正直持て余し気味らしい。平らな屋根の家など雪下ろしならぬ、花下ろしが必要だ
とか。これを利用しない手はないと三人と一匹の意見は一致を見た。問題はさて花びらを使って
何を作ろうかということ。そこでユーリは思い出したのだ。かつて自分が落胆した花を原料とした
砂糖菓子を。

「それで、これが新しいハルルの名物になるのかい?」
 尋ねたフレンの指と指のあいだに、幼き日のユーリが"泥炭のようだ"と形容した物体の再現が
可愛らしく鎮座ましましている。ただし記憶のそれとは異なり、色は淡い桃色を呈す。警備の目を
掻い潜り、勝手口よろしくフレンの私室の窓枠をひょいと乗り越えては当然のようにベッドに腰を
下ろしたユーリの手土産だった。規則違反だとか行儀が悪いだとか、前は挨拶も同然の小言の
数々は自由な姿のほうがいいと自ら認めてしまった以上僕に咎める資格はないだの云々と多少
柔軟になった思考からではなく、やはり頭でっかちらしい経緯を経て二人きりの場合に限り免除
されるようになった。解放感よりも一抹の寂寥を覚えてしまうあたり何だかなあと思いつつ平静を
装い、いやそれがなとフレンの問いかけに応じる。
 例の砂糖菓子のレシピなど知らない。それでも実際に味わった古い記憶を手繰り寄せ、今ある
知識と経験を活かしてほぼ完全な再現まで漕ぎつけたものの、如何せん見栄えがよろしくない。
味が悪いわけではないのだが、結論から言って過日とまったく同じ理由で没にした。そして不要と
なった砂糖菓子が手元に残る。食べ物を捨てる発想は端からない。ひとりで消費するのは容易い
けれども、どうせならとハルルから足を伸ばしてみた次第。それからもうひとつ訪問の目的を付け
加えるのであれば、ろくに休みもしないで働いているだろうクソのつくほど真面目な男には糖分を
多く含む差し入れが似合いだと思ったのだ。
「じゃあ依頼のほうは」
 質のいいスプリングを揺らして横に陣取ったフレンが表情を曇らせるや否や、杞憂はばぁかと
優しい響きの罵倒により打ち消された。砂糖菓子は没となったけれど花を食べるという今までに
ない発想は依頼の達成に大いに貢献した。試行錯誤の末に色と形を保ったまま丁寧に煮詰めた
薫り高いジャム、そのジャムを練り込んだ焼き菓子の二品を長にも試食してもらい、採用されるに
至る。その出来はハルルで執筆活動中のエステルも大絶賛の逸品で、風味の落ちた古い茶葉も
お砂糖の代わりにこのジャムを使ったら美味しい紅茶が飲めそうです、と太鼓判を押しているの
だとか。そこまで話を聞いたら特別甘いものが好きというわけでもないフレンも是非ともご相伴に
預かりたいと思うところだが。
「そっちは近々エステルが持ってくんだろ」
 と、期待を込めて見つめた幼馴染は空の両手を強調しながらつれない態度。数日後には短い
休暇を終えて公務のためハルルの居宅から帝都まで"通勤"してくる予定と本人に聞いているの
だろう。だから今日はこれで我慢しろとばかりに口に放り込まれた砂糖菓子は、軽く歯を立てた
そばからほろほろ砕けてあっという間に溶けてなくなってしまった。舌の上にはふんわりと優しい
甘さだけが残り、鼻に抜ける香りは花びらを巻き込む悪戯なハルルのつむじ風を思い出させる。
 うん、おいしいと味を確かめるように感想を零すとユーリは当然だろ?と自信たっぷりに笑んで
いる。当然も当然、隠してはいないが公言もしない超のつく甘党のユーリがこの手のことに関して
手を抜こうはずがないのだ。そうだったねと苦笑いをひとつ。結晶化した砂糖のしゃりしゃりとした
癖になる食感も相まってひとつ、またひとつと食べ進め、飾り気のない簡素なブリキの缶の底を
惜しむように撫でていると不意に押し殺した笑い声が耳に届いた。
「お前さ、なんか妙に好きだったよな、ソレ」
 はて、そうだった?と思いがけない指摘に、フレンは首を傾げた。覚えがない。そもそもアレは
好き嫌い以前の問題だったではないか。お貴族様の幻の砂糖菓子というぐらいだからきっともの
すごくうまいんだぜと期待に胸膨らませていたユーリほどではないにしろ、当てが外れてがっかり
した記憶は今も深く脳に刻まれている。むしろ喜んでもらえると思っていた自分のほうが深く落ち
込んだのではないだろうか。
 当時、情報の共有は互いにとって疑う余地もないごく当たり前のことだった。フレンがあの砂糖
菓子をまっすぐユーリの元に持ち帰ったのはこのためだ。まったく興味ない風を装いながら身振り
手振り話すその顔に"本当は食べてみたい"ときちんと書いてある。今ほど巧みに隠し通せない
本音をみすみす見逃すフレンではない。偶然手に入れた砂糖菓子、誰よりも先にユーリに見せて
あげたい。どんな顔をするだろう?なんて言うだろう?さまざまな想像をして、胸を躍らせて、その
結果がアレだ。気まずい空気に耐えかねてやけ食いでもしたかな…と遠く思いを馳せる。すると
ユーリが最後のひとつを親指と人差し指で摘みあげ、グミ大の丸い砂糖菓子をフレンの目の前に
翳すようにして「食べる前にこう…観察するみたいにしてさ」と奇妙な仕草を真似てみせた途端、
喉元につかえた感覚は見る見るうちにフレンの中で色鮮やかに蘇っていく。
 深い紫色をした砂糖菓子、それによく似た色彩を幼いフレンはよく知っている。同じように甘い
のか、そうではないのか。本物と見比べながらその雫の味を夢想した、思い返せばやや早熟で、
気恥ずかしいばかりの浅い春の出来事。
 久方ぶりに施錠の為された窓の向こう、東の空はまだ暗く、小夜啼鳥が鳴き出す気配もない。
そうだったかな、思い出せないやと都合の悪い話はよそに追い遣って、ところで今晩は泊まって
いけるの?とより甘く香る夜を求めて微笑みかけるフレンはもう、二つの黒葡萄から零れ落ちる
雫がほんの少しだけ塩辛いことを知っていた。





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