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焚き火にくべて馬も客も朝まで休む。あらかじめ急ぎの旅かどうか確認しているのでその点について 苦情はないが、魔物の強襲に神経を尖らせる者には些細な事柄が殊更気に障るらしい。たった五人 しかいない乗客の中に、咳のひどいのがいる。目深にフード付きのマントを被る客は背格好からして まだほんの子供で、咳をするたび口元にきちんと布を当てているから唾やら何やら飛んでくる心配は なくとも、やはり騒音は騒音でしかない。 神経質そうな目をした四十がらみの男は、旅のはじめからずっと咳をする子供が煩わしくてしょうが なかった。その背を優しくさする連れの男もだ。最初の晩、御者に運賃を少し多く払うからあの二人を 放り出せないかと耳打ちしたものの、いくらなんでもそいつはあんまりだと怒りを買って現在に至って いる。下手すると自分のほうが追い出されかねないと悟ったか、あれ以来表立った行動に出ることは なかったけれど、咳き込みがあまりに激しいと悪態が出る。もっと静かにやれねえのか、変な病気を 持ってるんじゃねえか等々、時を経るごとに辛辣さを増し、口数の少ない連れの男も謝罪を口にする だけでなく、子供を自分の胸元に寄りかからせて背をさするなど、少しでも楽に呼吸できるよう、彼ら なりに肩身の狭い思いをして工夫しているのが他の乗客にも見て取れ、今や煙たがられているのは 男の口喧しさのほうだった。 女性の客は剣士と思しき連れに「ご兄弟?」などと親しげに話しかけているし、商人の客は「少しは 楽になるよ」と薄荷に似た香りのする薬草を口の布に挟むよう、わざわざ売り物から分けてやった。 口が巧くないと見える連れが眉根を寄せて頭を下げ、それを見る子供も今にも泣き出しそうな声で 「ごめんなさい」と言う。それがあんまり哀れに見えたので、女性は手持ちの飴玉を子供に握らせた。 子供は途端、屈託ない笑顔を見せる。そうだ、子供はこうあるべきだと御者も思う。気まずい思いを したかして、男はしばらく黙っていた。 五日がかりの馬車の旅は街への到着を以って終わりを迎える。宿を探す者、次の目的地へ向かう 乗り合い馬車を探す者、客の行動はそれぞれだが、例の二人がいまだ馬車を降りた広場に留まって いるので御者はそれとなく様子を見守っていた。見たところ、男のほうは相当の手練れに違いない。 単独で魔物を蹴散らしながらの歩き旅など容易いだろう。それをしなかったのはひとえに肺が悪いと 見える子供の負担を可能な限り減らすためだ。ならばこんなところでモタモタしていないで、宿で休む なり医者を探すなりしたほうがいいのではないかとやきもきしていたところ、突如騎士が大群を成して 雪崩れ込んできた。誰ぞ人を探しているようで、広場にいる者ひとりひとりにこんな男を知らないかと 尋ねている。 やがて御者にも順番が回ってきて、白い髪に赤い目をした剣士を見なかったかと騎士は手配書を 指し示す。人相書きはへのへのもへじ以下の馬鹿馬鹿しい落書きではあったが、白い髪に赤い目と いう決定的な特徴を見落としはしなかった。しかし、いったいどんな用件で騎士に追われているのか 知るべくもないとはいえ、あの他に頼るものはないのだと言わんばかりの子供のまなざしを思えば、 密告することなど到底できやしない。はてどこかで見たことがあるようなないような…と曖昧な返答を するうち騎士は苛立った歩調で立ち去った。ふと、気づけば広場の隅にいた二人はいつの間にやら 姿を消している。ただならぬ気配を察知してこの場を離れてくれたのなら正解だ。あとは旅の無事を 祈るしかなかった。 |