「 (do not) let it snow 」



 隙間風にも似た呼吸音が規則正しく続いている。時々思い出したように何事か漏らしたりフレンの
名を呼んだりするのだが、意識があるのかないのかわからないような状態なので、おそらくは寝言の
類だろうといちいち相手をするのはやめてしまった。それでも折を見ては声をかける。可能であれば
水分補給させなくてはならない。それから、何か食べ物。ここ三日ほど、林檎のすりおろしたものと、
甘めのパン粥をほんの少し口に含ませたぐらいで明らかに栄養が足りていなかった。くちびるは乾燥
しきって、指の腹でなぞるとひどく荒れている。その割りに顔色がいいように見えるのは単純に熱が
あるせいだ。年代物の体温計を何度も振って中の水銀が下りきるのを待ってから測っているのに、
ずっと四十度のあたりを上下している。まめに汗を拭き、額に冷たい水を絞った布を置いて、気休め
程度に古くから熱を下げるのに利くと伝わっている薬草の煎じ湯を飲ませる。あとは祈っているだけ
なのだから無理もない。
 そろそろ医者を呼ぶべきなのでは、とさっき大人たちが箒星で話し合いをしているのを聞いた。もし
ユーリが目を覚ましていたらそんなの必要ないと言うだろう。どうせ死ぬのだから無駄金は使うなと
いった悲観的なものではなく、このぐらいの熱なんか全然へっちゃらだ、明日にでも下げてやるから
おとなしく見てろと、まるで根拠のない自信と意味のない負けん気によるものだ。しかしこれは嘘だ。
この高熱で平気でいられるはずがない。生命の限界がすぐそばに来ていることを知らないフレンでは
なかった。
 嘘つき。強情っぱり。罵っても当然反論はない。ユーリは大昔からこの手の嘘が大の得意だった。
フレンはしばしば腹立たしくてたまらなくなる。握り締めた拳の矛先を見つけられないまま仕方なしに
頬に触れる。冷えた指先が奥のほうから次々に湧いてくる熱ですぐ温められてしまう。ばかユーリ、
人の気も知らないで。温まった指先でぱちんと弾いた額に、白い髪が束になって貼り付いている。

  「赤い目をした真っ白なうさぎがいるだろう?」
 あれと同じ理屈だと、白髪頭の男は言う。こちらはユーリと違い、加齢によって白くなったものだ。
元は城住まいの高名な学者だったという初老の男は、下町の子供のあいだで"本屋敷"と呼ばれて
いるあばら家にひとりで住んでいる。本屋敷の由来は山積みにされた本が屋根を支えているような
状態に端を発す。読んだ書物も大量なら知識量も膨大で、彼はどんな質問だって答えてしまった。
 あるときフレンはがユーリの髪のことを尋ねると、最初から白い髪しか生えてこない変わった病気
なのだと男は事もなげに言い放った。病気という言葉に反応してぐっと固く拳を握ったフレンに、男は
心配ないと首を振り、あんな風に悪さする病気とは違うものだと説明を付け足してやる。命を落とす
ものでは決してないよと念を押され、ようやく呼吸を許されたような気がした。生きた心地がしないと
いうのはああいう感覚を指すのだろう。
 ユーリは昔から頻繁に体調を崩した。流行り風邪も毎冬真っ先にもらい、誰よりも長く重い症状に
苦しむ。口さがない連中が呪いだなんだと密かに噂するあの白い髪が無関係だとわかってしまえば
むやみやたら嫌って短く切るよう執拗に言い募るのはお門違いだ。実のところ、フレンはあの絹糸の
手触りをたいそう気に入っていたのだった。
「でも、ユーリの目の色は赤じゃないですけど」
 ああそれはね、と男は無造作に積み上げた書物の山から掘り出した分厚い図鑑のうち、子供には
少々刺激の強い人間の眼球の図解をフレンに示して、たぶんここの色が薄くあるんだろうと言った。
男が指した場所に虹彩とある。虹彩が無色透明なら血の色が透けて赤く見える、青が薄いので赤が
混じり紫がかって見える、つまりそういうことらしい。得心いったところで、これまであまりにも淡々と
説明を受けたので、つい当たり前のように受け流してしまいそうになったフレンであったが、去り際、
これってもしかするととても珍しいことなんでしょうかとおそるおそる口にする。男は学者でもなかなか
見られない現象だよ、と拍子抜けするほどあっさり頷いた。
「気をつけなさい、特に貴族には。美しいものには目のない連中だ」
 その忠告にはどうして彼が貴族街でも市民街でもなく、下町を好んで住んでいるのか窺える嫌悪が
明確に滲んでいた。

 医者を呼ぶのは明日の朝に様子を見て改めて決定する、ということで大人たちの話し合いは決着
したらしい。何より、今すぐ医者を呼べるほどのお金がない。ハンクスや箒星の夫婦が先頭に立ち、
明日の朝までどうにか前金ぐらいは用意しよう奔走している。下町の家々を一軒一軒回るのは難儀
だろうから自分も加わりたいと手を挙げたけれど、朝までユーリの看病を任されたからには諦める他
なかった。子供のフレンに金の無心などさせられないという心遣いが今はただ悔しい。
 くちびるを噛んでいるフレンの耳に、小さなうめき声が届く。見ればゆるゆる持ち上がる重たい目蓋
から不思議な色合いが覗いて何かを探し、フレンの姿を見留めるなりどこかほっとしたように口元が
緩んでいった。
「…なあフレン、フレンはさ、俺に騎士諦めろって、言わないのな」
 短い休息を挟みつつ、嗄れた声が搾り出される。唐突の話題ながら久しく聞いていない、まともな
意味を成す呼びかけだった。ついさっきまでそういう夢でも見ていたのだろうか。それとも、フレンを
見たから思い出したのだろうか。
 大人たちは騎士を目指すフレンを応援はしても、ユーリの応援はしない。剣の腕はフレンと同等、
大の大人だって舌を巻く。だが長くは持たない。体力勝負の長期戦となると体がついてこないのだ。
市民街に続く坂道を駆け足で往復したり重い荷物の上げ下ろしをしたり、フレンが日常、当たり前に
こなす大人の仕事の手伝いが、病がちなユーリには出来ない。無理をさせたら何日も寝込むことに
なってしまう。だから大人たちは重労働から遠ざける。騎士になりたいと言っても遠まわしにやめて
おけと言う。これらはすべてユーリのことを思いやってのことだ。わかっているから悔しさを呑み込む
以外にない。どうして俺はこんな弱っちい体に生まれちまったんだろう?悩みを打ち明けたところで
周囲を困らせるだけだと聡いユーリは理解している。
「うん、言わないよ」
 決めるのはユーリだもの。それだけを応えてフレンは額の布を水を張った洗面器に浸し、また額に
乗せる。少しでも気分がいいようなら食事でもと思ったが、そのあいだにユーリは目を閉じてしまって
いた。胸元は上下している。呼吸はちゃんとある。
 胸を撫で下ろす傍ら、真っ先に最悪の事態を思い描いたフレンを馬鹿にするかのようにくちびるは
弧を描き、薄目でこちらの反応を見ている。肩も小刻みに震えていた。ここまでしないと珍しく弱音を
吐いた恥ずかしさをごまかせないなんて。めんどくさいやつだなと呆れつつ、二度目のデコピンには
大声で痛ってえな!と反応があった。見てくれの美しさより尊いものをフレンは知っている。





ブラウザバックでおねがいします