「 まもなく三番線に恋路行き快速電車が到着します 」



 その鉄道路線は各駅間の距離の関係上、比較的ドアが閉まっている時間が
長く痴漢被害が多発していて、一帯の鉄道施設内における犯罪を取り締まる
分駐所の長、本田警部はいかにして不逞の輩を一掃してやろうかと日々頭を
悩ませていた。そして今日も痴漢被害に遭った可哀想な被害者が調書を取る
本田の前で何か言葉を発することもままならないままさめざめと泣いている。
近頃の女性はたくましく、男の風上にも置けぬ恥知らずな痴漢どもに自ら制裁を
下して駅員に突き出す猛者も少なからずいるのだが、被害者の大半は大きな
ショックを受けて涙を滲ませ、あるいはずっと怯え震えていたりする。被害者に
こんなにも心の傷を負わせる痴漢という犯罪、たとえ出来心であろうと何だろうと
許しがたい卑劣な行為であることは間違いない。中には被害を訴えることさえ
出来ず泣き寝入りする慎ましい女性もいるほどだ。だからこの被害者が長いこと
めそめそ泣き続け、仕事が遅々として進まなかろうが別段本田が悪く思うことは
ない。ないのだが、もうそろそろ泣きやんでもいいのではないかとは思うのだ。
やんちゃ盛りの男子小学生に難儀する肝っ玉母ちゃん風に言うならば、男の子
なんだからそれぐらいで泣くんじゃないの!的な感情で。それを雰囲気で感じ
取ったのか、被害者は切々と泣いても泣いても飽き足らない理由を訴える。
「なんで…なんで俺ばっか痴漢に遭うんだよおお!俺、男なのによおお…!」
 確かに、もし自分が痴漢に遭うなんてことがあれば想像を絶する屈辱に違い
ない。犯人をこの手で探し出してボコボコにするまで一生拭いきれない汚点に
なることは確実だ。この被害者がめそめそ泣きたい気持ちもわからないでも
ない。が、毎日毎日痴漢に遭ってるんだからいい加減いっそ開き直ったり何か
こう、あるだろ!と本田警部は思うのだ。それをこの被害者は、ギルベルトは
延々とめそめそし続けるだけなのだ。湿っぽいったらありゃしない。毎日のこと
なのではいはいそれはそれはひどい目に遭いましたね可哀想にと温かいお茶と
茶菓子を出して、ついでに鼻水用のティッシュ箱も置いといてやる。さもないと
差し出したハンカチで鼻をかんでしまうのは最初の日、とっくに経験済みだ。
 ギルベルトが初めてこの分駐所にやって来たのは何かの間違いで受かったと
しか思えないと本人も認める大学の入学式当日の朝だった。ちょっと!ちょっと
お巡りさん!お巡りさんってば!今なんかハゲのオッサンが俺の尻を!といった
かんじで鉄砲玉のように飛び込んできて、ああそれはまた厄介な種類の痴漢
ですねえと応じたところ、痴漢?!男の俺に痴漢?!なんで?!とパニックを
起こし、やがて時間をたっぷりかけて己の身に起きたことを理解していくにつれ
めそめそと泣き出したのだ。一旦めそめそ状態に入ったギルベルトにはどんな
慰めも通じない。これでは収拾がつきそうにもないので仕方なくどなたか迎えに
来てくれるご家族はおりませんか?と本田が聞くと、めそめそしながら携帯の
画面に二つの連絡先を示した。本田は両者にこちら鉄道警察ですがと名乗りを
入れて呼び出すと二人の男性の声がそれぞれすぐに行くと快く応じてくれた。
ご兄弟ですか?とギルベルトに尋ねるとこくこくと頷いてめそめそは再開される。
兄弟愛ですねえとほのぼのとした気持ちでいた本田の分駐所に二人の男性が
息を切らして現れたのはそれから小一時間ほど経ってのことだ。これでやっと
落ち着いて話も聞けますかねと本田が安堵したのも束の間、二人のうち筋骨
隆々なほうの男性はいきなりギルベルトの胸倉をつかみ、頬を拳で殴ったのだ。
もう随分と鉄道警察に身を置いているがこんなケースは初めてだった。とりあえず
本田は警官の端くれとして目の前の暴力を見逃すわけにもいかないので必死で
怒りに我を忘れている男性を制止する。それでやや冷静さを取り戻した男性と、
即行動には移さなかったがいまだ激しく憤慨している上品な立ち振る舞いの
男性は一気にまくしてた。
『あなたという人は!今日という今日はもう許せません!見損ないました!』
『本当に見下げ果てたやつだ!今日からお前を兄とは思わん!』
『ほら早く!被害者の方に謝罪なさい!』
『そうだ!土下座しろ!こんなか弱いお嬢さんになんということを!』
 と、双方大変憤っている様子。批判の内容からして確かにギルベルトの兄弟と
見えるが、しかしながら大きな誤解があるようだった。僭越ながらあいだに入った
本田が一切の事情をかいつまんで説明すると、やはりギルベルトが痴漢の犯人
として鉄道警察に身柄を拘束されていると思い込んでいたらしい。おまけにこの
二人が「被害者の方」「か弱いお嬢さん」とそれぞれ指を差したのが自分であった
ことに本田は内心非常にカチンときた。警らするときは基本私服ではあるが別に
女性的な服装をしていたわけでもない。背丈はかろうじて規定を上回る程度だが
これでも中隊をまとめる警部であり、なおかつ柔道剣道合気道空手の段数を
合わせれば20を越えるこの中隊きっての武闘派の本田は密かに男の中の男を
自負していたのだ。見た目でそれを察してくれる人は限りなく皆無に近いのは
別として。ゆえにこの失礼極まる兄弟をどうしてくれようと心の中のみで憎々しく
思いつつも正義の味方である警察が私刑などできようはずもないので謝罪して
くる兄弟にいえいえ慣れておりますから構いませんよーと心ならずも作り笑顔で
対応して自身のプライドのためにそれきりジェット水流で忘却の果てに流した。
ともかく兄弟がこの場にいることで落ち着いたらしく痴漢にあった状況をようやく
聞きだすことができた本田は被害届けを無事受理することに成功した。以来、
本田は毎日のようにギルベルトの被害届けを受理し続けている。件の一件の
ようにともすれば女性に間違われることも無きにしも非ずという小柄で細身の
本田とは違いギルベルトはどこからどう見ても男だ。さらに中二病を引きずって
いると思しき服装やアクセサリーでゴテゴテ全身を飾り、イケメンの類ではあるが
思わず痴漢したくなるようなタイプでもない。オッサンに尻を撫でられたぐらいで
何時間もめそめそしているところを可愛いと解釈出来なくもないがいかんせん男。
そういう趣味はないのでどうして犯人はこんなのに毎日痴漢したいのか理解に
苦しむのだが、どんなものに対してもマニアはいるものだ。とは言え犯罪は犯罪。
ギルベルトの心は本人曰く「台風中継でたまに映る暴風に舞う段ボールのごとく
ズタボロ」だ。若く見えてかなり年嵩の本田はその表現に対しても少々理解に
苦しんだ。つまりは大いに傷ついているということだろう。
 そんな日々が三ヶ月も続くと本田もさすがに不憫になってくる。ギルベルトも
最近ではもう大学なんて行かなくてもいいよお…とめそめそする始末。このまま
では学業にも支障が出て、最悪の場合人生に関わるかも知れない。やれやれと
重い腰を上げた本田は腹を括り、同期で他の分駐所に勤めるツヴィンクリ警部の
力も借りて痴漢一斉取締り作戦に打って出た。結果、相当な人数を検挙出来た
わけだが、作戦の内容は本田の名誉に著しく関わるため部下にも内緒である。
それはさておき、ギルベルトを執拗に狙っていた重度の変態と思しき痴漢もまた
この作戦でめでたく逮捕され、今後は安心して大学にも通えるようになったわけ
である。
「充実したキャンパスライフっつーの?もう大学ほんと楽しすぎる!せんせーの
言ってること半分ぐらいわけわかんねーけど、いや半分以上わかんねーけど、
でも毎日楽しく過ごしてるぜ?あとは友達作るだけ!俺様のことだからどうせ
楽勝に決まってるけどよ、まあそれもこれもお巡りさんのおかげだよなー」
 なのに何故か、ギルベルトは毎朝わざわざ早起きして本田の分駐所にやって
来てはぐだぐだ雑談をして、ついでにお茶と茶菓子を朝食代わりにして講義の
時間ギリギリになって大学に向かう。一体ここをどこだと思っているのか。鉄道
警察の分駐所ですよ?と思いながらも善良な市民の心の拠り所である警察が
無下に追い出すわけにもいかず、どうせ他の隊員が警らに出ているときは長と
して分駐所に残っていなければいけないし、本田は渋々その相手をしている。
「でさ、お巡りさんにはすっげー世話になったのにまだ名前聞いてねーんだけど
教えてくれよ」だの「あとメアドとケータイの番号も!」だの「明日非番だって?
どっか遊びに行こうぜ!」だの「今度お前んち遊び行っていい?家どこ?」だの
「今日はカレーがいい!ジャガだくでよろしく」だのとだんだん警官と市民という
関係の枠を突き抜けているような気がしてならない。本田がおかしいなと思った
ときには時すでに遅し。めそめそ泣きついてきた春からもう一年が過ぎ、本田の
分駐所に配属された新人がこの光景を目の当たりにすると「年下の彼氏って
やつっスかあ?」とニヤニヤ笑って聞いてくる。不躾な新人には自慢の体術で
教育的指導を施しておいたが、どうやら新人とギルベルトは若者同士気が合う
らしく「本田警部、あれ絶対照れてるんだって」と余計なことを吹き込んでしまい、
ギルベルトはことあるごとに「なあ俺って菊の彼氏?彼氏?」と詰め寄ってくる。
違いますよと即座に否定しようものならあのめそめそ寸前の赤い目がうるるんな
状態で恨みがましくにらんでくるものだからタチが悪い。仕方がないので本田は
「彼氏候補というのなら構いません」と認めることにした。男は恋愛対象の範疇
でない本田にしてみればこれ以上ない譲歩だ。ただし繰り返すが本田は男の
中の男を自負しているので彼氏候補から彼氏にランクアップするにはタイマンで
本田を倒すことが絶対の条件である。痴漢程度でめそめそしていた男には絶対
無理だろうと見越してのことだが、めそめそのギルベルトが実はケンカ無敗を
誇る地元では伝説レベルの元不良として有名であったことは後に聞いたことで
ある。





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