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※にほろいどが若干アホの子のショタです注意 ものなんだとその日俺は知った。お世辞にも真面目な高校生とは言えない俺は いつものように学校をサボってお昼休みはウキウキウォッチングを聞き流しつつ 昼メシどうすっかなーなどとこれから起こることを予想だにせずごくありきたりの ことを考えていたのだ。そこにインターフォン。平日の昼間にやって来る客など 新聞や宗教の勧誘か訪問販売と相場は決まっていて居留守を決め込んだって どうせ大事には至らない。ただこの日はたまたま弟がネットで買った本が届く日 らしく宅配が来たら受け取っておいてくれと頼まれていたのだった。それで俺は 渋々玄関に出たのだが、そこに宅配業者らしき人影はなく時代錯誤の着物風の 服を着た中学生かそこらのちっさい少年らしき生き物がちょーんと立っていて、 「失礼ですがあなたがギルベルト・バイルシュミットさんですか?」と聞いてきた。 そ、そうだけど?とうろたえながらひとまず返事をすると少年は「声紋認証登録 完了しました」と機械的な声を発した。事態が飲み込めずにポカンとしていると 少年は俺をじっと見上げて「虹彩認証登録完了しました」と言う。そして最後に 許可もなく俺の右手に触れて「指紋認証登録完了しました、マスター登録終了 します」とにっこりと笑い、「初めましてマスター。私があなたのにほろいど、本田 キクです」と名乗った。はあ?と不覚にも俺は間抜け面を披露するしかなかった。 だって俺には何がなんだか、まったく見当もつかないのだ。"にほろいど"という 単語に聞き覚えはあった。確かパソコンのソフトのひとつで、入力した通りに歌を うたうとかいうやつだ。クラスメイトの誰だったかが持っていて話しているのを耳に したことがある。しかしそれはあくまでもソフトであってパソコンのディスプレイに しか存在しないものだ。なのに目の前にいるのはどう見たって人間ではないか。 どうでもいいけど手離せっつーのといつまでも馴れ馴れしく手を握っている少年を 軽く突き飛ばすと不意を突かれたのかバランスを崩して尻餅をついてしまった。 予想より大きな音がして少年の顔が歪み、それから少しずつ目が潤んで涙が 零れそうになる。生来のいじめっ子体質の勘というか、これは泣くわと思ったら 「う…うわあああん!マスターは私なんかお嫌いなんですね…!ごめんなさい、 ごめんなさいぃい!」と予想通り大声で泣き出した。これじゃ俺がいじめたみたい じゃねーか!と事実いじめたも同然なので焦りながらも、第一突然押しかけて きて意味不明なことべらべら並べ立てたこいつが悪いんであって俺は悪くない、 悪くないし、いい年してガキみたいに泣きやがってああもういいから泣きやめ! 泣きやめって!と為す術なくアワアワしてるとドタドタと駆け込んで来た今度は 見知らぬヒゲ面の男が「おいコラお前!初対面で泣かすバカがあるか!俺の 可愛いキクちゃんに何しやがった!」と俺の胸倉を掴み上げ、少年はヒゲ面の 腕に縋りついて「お父様ぁ!私、マスターに嫌われちゃったんですぅぅ!」と涙と 声はより勢いを増してわんわん泣いている。俺が何をしたも何も、何がどうなって こうなったかを知りたいのは俺のほうだ。しばらくしてそのお父様とやらが必死に 宥めてキクちゃんとやらを泣きやましてくれたのは助かったが、混乱して唖然と するばかりの俺に一から説明するために二人はそのままうちに上がりこむことに なった。 「…つまり、この子は俺らが創ったにほろいど用アンドロイドなわけ」 フランシスと名乗ったさっき少年からはお父様とか呼ばれていたヒゲ面はそう 言った。時間と手間をかけた緻密な調整、調教とも言うらしいが必須であるこの 手のソフトのディープなファンの中にはキャラクターを自分の娘、あるいは息子、 あるいは恋人のように愛着を持つ者が少なからずいて、二次元に存在するだけ では物足りないのだという。そういうニーズに対してにほろいどの製造元と提携 したのがヒゲ面の所属する愛玩用アンドロイドを開発している研究所で、ソフトと リンクさせて歌をうたわせるのはもちろん、人間と同様に一緒に生活出来るよう 作られた実験体がこのキクちゃんとかいうやつらしい。しかしながらこのサイズ では量産化、低価格化が難しく現実に販売が決定されたのはもっと幼児に近い サイズで、宣伝を含めて実験体を抽選でプレゼントする、ということになったのだ そうだ。それが何故俺の元に来たのかと言えば、先月一日だけやって飽きた 俺のブログにその広告が載っていて、いつのまにクリックしてしまったんだか、 たったワンクリックで俺は世界中から殺到した膨大な数の希望者を蹴落として 世界で唯一の権利を見事ゲットしてしまったのだとか。そんな強運があったなら 別の機会に使いたかった。とことん俺はついてない。ついてないついでにさっき マスター登録をしてしまったので返品も譲渡も不可、ヒゲ面はそう説明した。その あいだキクはお父様にべったりくっついて叱られた幼い子供が親の顔色を窺う みたいに萎縮して俺をチラチラと見ていた。一度マスターと認識してしまったら どんな相手であれキクにとっては神様みたいなもので、だから突き飛ばされた ことで嫌われたのだと思い込んであんなに泣いたんだろうとヒゲ面は可哀想に、 とキクの真っ黒で艶々した髪を撫でる。最近のアンドロイド技術は驚くほど進歩 していると噂には聞くが、キクは見れば見るほど本物の人間にしか見えない。 それにしたってあんなぐらいでわあわあ泣くなんて精神レベルが幼すぎるだろと 文句を言えばヒゲ面はしれっと、俺の趣味で作っちゃった☆とのたまいやがった。 「"心"なんてさー人為的に成長させるのは人間だって難しいものだしねー」 軽い口調ながら言ってることはとても哲学的なことだった。懐いた犬猫よろしく キクの髪をへらへらだらしない笑みで撫でてさえいなければ、だ。この様子から すると趣味で作ったというのが本音に違いない。ヒゲ面はその後、キクと生活 するにあたり必要な情報をぺらぺらと述べていった。充電は一日一時間、首の 後ろに家庭用コンセントと接続するとこあるからあとで見といて、アダプタはこれ、 水や食事は特に要らないけど食べさせたかったらお好きにどうぞ、そうだ塩鮭が 大好物だからほどほどに食べさせてやって、排泄は自分でトイレに行けるから 見ちゃ駄目ね、きれい好きなので毎日お風呂に入れてやると喜ぶよ、洗剤とか 人間用で構わないから、あ、トリートメントは必ずしてあげて、あと掃除洗濯料理 とかの家事機能はうちに置いてたときインストールしたのそのまま使っていいよ、 着替えとか生活用品は適当に買ってあげて、センスのいいやつね、他になんか あったかな、あーえっちなことに使用しないよね?しないでね?俺のキクちゃんに そんな不埒な真似しないでね?ぶっ殺すよ?のあたりまで話したヒゲ面の顔は 笑ってるのにえらい迫力で、そんなに大事なら手放したりしなきゃいいだろうにと 思いつつ、しねーよ!と俺は全力で否定してやった。何が悲しくてアンドロイドに えっちなことをしなきゃならんのだ。しかもこんなガキ。俺が睨むように目を遣ると キクはびくりと全身を震わせてヒゲ面の陰に隠れようとした。むしろ嫌われてる のは俺のほうなんじゃないか? 「そりゃお前が初対面で泣かしたからだろ、あと目つきが怖い」 うるせー目つきが悪いのは生まれつきだ、別に嫌っちゃいねーよ、何が何だか わかんなくてついあんな風に対応してしまっただけで、まさかあんなに泣くとは 思わなかったんだ、中身がガキ同然なんて知らなかったし、とでも謝れば警戒は 解けるのかと心の中で悶々と考える。するとキクはおずおずと口を開いた。 「マスターは、私のこと、お嫌いじゃないですか?」 キクはうるんうるんした上目遣いで俺を見ていた。下手なことを言おうものなら また泣きそうだ。無駄にきれいで、何も世の中の汚いことなんか知らないっていう 純粋そのものの目だ。それをどんな色に染めるのもこれからは全部俺次第。妙に 責任を感じる。 「…嫌いじゃ、ねーけどよ」 そもそも好きだとか嫌いだとかのそういう段階ではないのだ、俺はキクについて 何も知らないのと同じで、でも、そのガキみたいなところがかわいいと思わなくは ないけど、認めてしまったら一気に変態の仲間入りだろうが。 「本当ですかマスター!ねえお父様、マスター私のこと嫌いじゃないだって!」 幼い人工知能は単純明快で、嫌いじゃない=好きになってしまうらしい。キクは さっきまでとは別人のようにカーペットやソファの上でぴょんぴょん飛び跳ねながら ヒゲ面に抱きついたりしてキャッキャと騒いでいた。ああそのお父様って呼び方も きっとヒゲ面の趣味なんだろう。それにしても不思議なのは、仮にも父親という 立場ならこんなしょっぱなから泣かしてしまうような俺にいかにも箱入りの大事な 子供です、みたいなキクを譲り渡すことにもっと抵抗があってもいいのではない だろうか。キクはひとしきり喜んで落ち着いたのかじゃあ私、何か飲み物持って きますね!と隣のキッチンに向かった。ヒゲ面は俺カフェオレがいいなーと声を かけ、マスターは何がいいですかー?と聞かれたので同じのでいいと言うと承知 しましたー!と何やらごそごそ漁る音がする。料理に興味がない俺はキッチンに 何があるかなんか把握してない。たぶんカフェオレぐらいは材料があるはずだ。 そうしてヒゲ面はキクがいない隙に佇まいを正し、真剣な顔で俺に向き合った。 「で、これが一番大事なことなんだが…」 ヒゲ面は声の音程まで変えて俺に語りはじめる。キクも知らないキクの機能。 巷に精巧なアンドロイドが出回りだして問題になったのは不要になった際の処分 方法だった。安易に粗大ゴミに出したり不法投棄したりして、警察が何度死体 遺棄事件と勘違いしたことか。そこでキクに強制的に搭載されたのは自己破壊 プログラムだった。マスターが自分を不要としたと感知した瞬間、キクは全機能を 停止させて生身の人間と手触りもほとんど変わらない表面を覆う特殊樹脂を加工 前の液体に戻し、骨組みから何からすべての金属製パーツを最小単位まで分解 させる。液体は水で流すか何かして残りの特殊合金はゴミ袋ひとつにも満たない から燃えないゴミに出せばそれで終了。マスターには出来るだけ処分する手間を かけないというシステムが根底にあり、それはマスター登録を済ませてしまえば 製作者にも最早手が出せないそうだ。そういう事情もあって本当はもっと慎重に 当選者の人となりをよく吟味してから登録させたかったのに、早く私のマスターに 会いたいとキクは車を飛び出してしまったのだとヒゲ面は重い重いため息をつく。 飛んだり跳ねたり俺の一言で一喜一憂するあんなガキみたいなのが俺のせいで 鉄くずになってしまうかもしれない事実。それは嫌に重くて冷たい、胸が空っぽに なるような想像図を俺に押し付けた。 「だからさ、お前なんか要らないとか、嫌いだとか、そういうの禁句な。あんまり 泣かすのも勘弁してやってくれ、頼むから」 俺に頭を下げてからキッチンをじっと見つめるヒゲ面の目は、やっぱり子供を 手放す父親のそれだった。そのうちキクは出来ました!と一体どこから見つけ 出したんだか、洒落たグラス二つを盆に載せ、カフェオレには氷が浮いてストロー まで刺さっている。それぞれの前にグラスを置いたキクは俺の足元に正座して、 お味はどうでしょうかマスターと期待に満ちたまなざしで俺をまっすぐに見上げて いる。重苦しい話題の直後で気は進まないが仕方なく口にしてみると、甘さが 控えめで、ちゃんと冷えていて、ミルクの割合もちょうどよくて、だけどそう素直に 出来てない俺はいいんじゃねーの?としか突き放した言い方しか出来なかった。 そのせいかキクの表情は曇っている。 「頑張ったらたっぷり褒めてやる、それが子育ての基本デショ?」 ヒゲ面がニヤニヤ笑いながら言ってきて腹が立つのに、あの悲しいイメージが 頭の中からどうしても離れないのだ。さっきわんわん泣いてたキクはもしかしたら 危うく例のプログラムが働くところだったのではないかと思うと正直怖い。どろどろ 溶けていく特殊樹脂とボロボロに崩れていく特殊合金が頭の中に現実感のある 映像として流れる。ヒゲ面だってそんなもの本当は作りたくはなかったんだろう。 この機械仕掛けのカナリアを殺してしまうとてもお手軽な方法なんて。 『早く私のマスターに会いたい』 『初めましてマスター。私があなたのにほろいど、本田キクです』 『マスターは、私のこと、嫌いじゃないですか?』 ああもう!と俺は頭を抱えた。嘘でも虚勢でも何でも、この純真なアンドロイドは 俺の言葉をそのまんま受け止めてしまうだろうから、俺は思ったことを偽らないと 心に決めた。そうじゃないと駄目なんだから俺にはどうしようもない。こんなのは 俺のキャラじゃないけど、偶然でも俺はこいつの唯一の存在になってしまったん だから。 「…うまかったよ、キク」 それでキクはマスターが褒めてくれた!嬉しい!と大騒ぎするかと思いきや、 嬉しそうににっこり微笑んで俺の手を壊れ物みたくそっと握ってきた。少しだけ 人間の体温より冷たいその手はかすかに震えている。キクはもしかしてずっと 怖かったんだろうか。俺が乱暴に突き飛ばしてしまったから、俺に触れるのが 怖かったんだろうか。そんな考えにぐるぐるしてると、俺のもう片方の手は自然と キクの頭に伸びていた。さっきヒゲ面がしていたみたいに黒い髪を撫でてやると、 俺の手に身を任せるみたいにしてうっとり目を閉じる。ガキっていうより、まるで 動物の子供だ。俺の知能よりかよっぽど賢い人工知能のくせに、こんなことで こんな幸せそうなツラしやがって。こんな顔をされたら禁句はもう絶対に言えなく なるだろうが。 「じゃ、お父様は帰るんでなんかあったらこれ俺のケータイだからたまには電話 してねキクちゃん☆」 大事な子供を手放したヒゲ面は、キクが淹れたカフェオレを飲み干して陽気に ウインクを飛ばしながら、とても寂しそうな背中で去って行った。あのカフェオレが 特別うまかったのはおそらくキクがお父様を喜ばせたいがために学んだ最高の レシピなんだろう。キクは玄関の外までヒゲ面を見送って、遠ざかる車が見えなく なるまで手を振って、それからちょっとだけマスターに甘えてもいいですか?と 俺に尋ねてきた。別に構わねーけど、と了承した途端、ぎゅうっとしがみついて きたキクから声を殺した泣き声が聞こえて、あのヒゲ面、人には泣かすなって 言っといて、てめーが泣かしてるじゃねーかと背中をポンポン叩きながら俺は 内心で文句を言っておいた。 実をいうと俺はパソコンも音楽も得意ではない。なので、そっちは兄弟に任せて 俺はただ預かったガキの面倒を見ているというスタンスで一緒に生活している。 キクはよく家事をしてくれるし、歌声はきれいだし、兄弟にも気に入られていて 今のところ何も問題は起きていない。問題らしい問題はどうしてお前がマスター なんだと兄弟の顰蹙を買ったぐらいで、あれから泣かせるという事態にも至って いない。掃除機をかけるとき、食器を洗うとき、洗濯物を干すとき、料理を作る とき、風呂に入れてやってるとき、俺のそばで寝たがるのでしょうがなくベッドに 入れてやってるとき、キクは癖のように同じ歌をうたっている。赤とんぼがどうの とかいう小学校あたりで習ったような気のする歌だ。ガキはガキらしく童謡が性に 合ってるんだろうと俺は思っていたが。 「マスターの目の色って夕焼けの空みたいでとってもきれいで、私、すごくすごく 大好きなんです」 キクはガキなので言いたいことだけ言ってさっさと寝てしまう。このガキ、さらっと 殺し文句を言いやがって。ぼぼぼと顔を真っ赤に染めた俺は悔しいから反対側を 向いて寝てやった。安心しきったアホみたいなガキの寝顔なんか見てられるか。 あーごめんなさいお義父さん、俺はなんだかこのガキに将来いけないことをして しまいそうです。 おまけ 「てめえフランシス!キクは研究所に連れてくんなって言っただろ!」 市販タイプの実験体よりもっと幼い容姿をしたキクは大人の膝の上に乗せると ジャストサイズでフランシスにとっては殺伐とした職場の唯一の癒しだ。何より 手放してしまったあの子をより鮮やかに思い出せる。ただ出来のいい人形から ひとつひとつプログラムとテストを積み重ね、幾度も失敗と成功を繰り返し、我が 子のように大切に大切に育て上げた実験体のキクを。だからフランシスは小さな キクをあのキクの分まで愛してあげたいと切に思う。 「アーサーお父さまごめんなさい。わたしが置いていかないでっておねがいしたん です。マスターをしからないでください」 キクはフランシスの膝からすとんと下りると眉尻を下げ、目を潤ませながら所長 であるアーサーに向かって深々と頭を下げた。"アーサーお父さま"というのは 自分を創った研究所の人間は自分にとってみな親であるいう、どのキク共通の 認識によるものだ。その中でフランシスだけが特別マスターと呼ばれているのは 私費で市販のキクを買ってマスター登録したからに他ならない。 「キクちゃんは俺と片時も離れたくないんだもんなー?」 「はいマスター!」 二人の様子を見て、アーサーは苦い顔でため息をつく。実験体の頃からキクは どうしてもマスターに主従以上の"感情"を持ちやすい傾向があった。自己破壊 プログラムが無意識下で働いて、マスターは命を懸けてでも尽くすべき存在と 捉えているのかもしれないが、単にマスターの好みに対応した結果の可能性も 無きにしも非ずだ。 「キクちゃん俺のこと好き?好きならマスターにちゅっちゅしてくれるかなー?」 何故ならば、この男ように完全に用途を誤ったマスターが後を絶たないからだ。 そもそもにほろいどがどんな目的のために作られたのか思い出してほしい。歌を うたい、マスターを喜ばすのが本来のにほろいどの役目なのだ。それに、もう少し 年嵩な実験体ならともかく、小さなキク相手にそれを外でやったら確実に警察を 呼ばれている。むしろ今すぐ呼んでやりたい。このショタホモ! 『えっちな目的に使われたら腹立つからさ、キクはもうちょい小さくしたほうがいい かもしんないな。量産化しやすいし、コストも抑えられる』 市販タイプの製作に取り掛かる前、フランシスの開発者として真面目な言葉の 存在感が霞のように薄らいでいく。真っ先にえっちな目的に使いそうなのはお前 だろ!と毎日毎日怒鳴る気力もとうに使い果たしてしまった。 「よしキク、所長室にスコーンがあるから食べるか!お父様の手作りだぞ!」 「そんな毒物を俺のキクちゃんに食べさせちゃらめえええ!」 小さいキクは何のことかわからず首を傾げているばかりだった。 「マスター!マスター!ちゅっちゅというのは何ですか?」 ついさっきまでお気に入りの鼻歌混じりに風呂掃除をしていたはずのキクが、 ソファで寝そべりながら雑誌を読んでいたギルベルトにいきなりそんな質問を 投げかけたものだから、ギルベルトはハア?!と大声をあげて飛び起きて、その 拍子でソファから転げ落ちた。一体どこでそんな不埒な言葉を覚えてきたのか 問い詰めればあのヒゲ面が余計なお世話極まりないことにあのガキにちゃんと 愛されてるかー?と電話を寄越したらしい。ヒゲ面は今、キクの弟分に当たる 市販タイプのマスターとなって毎日毎日愛を確かめるちゅっちゅとやらをキクに してもらっているそうだ。えっちなことはするなって言ったのはどこのどいつだよ! と心の中でツッコミを入れつつ、あのヒゲ面ほんと変態だわとギルベルトはキクに 聞こえないよう小さく呟いた。市販のキクはギルベルトのキクよりもずっとずっと 幼いのだ。それより何よりそのちゅっちゅとかいう言い回しがキモイ。 「…私にはちゅっちゅしてもらえないのですか?」 そのせいでキクは意味もわからないくせにそのちゅっちゅとやらをねだってくる。 何か下手なことを言って泣かせてしまう前にひとまず手でも握って落ち着かせて やろうとするとお湯で掃除していたのかキクの手は温かく、ギルベルトはどきりと した。見た目はほとんど人間と変わらないとはいえ、直に触れてみれば温度差は ごまかしようもないのに今日に限ってそれが少しも感じられない。まるでキクが 生身の人間になったみたいだ、そう思った瞬間にギルベルトはかあっと顔面が 赤く染まるのが自分でもわかってしまった。握りこんだままの手が恥ずかしくて 死にそうだと早まる鼓動に思う。でも恥ずかしいからといって突き放してしまえば 最初のようなことになるのがオチだ。仕方なくそっぽを向いて、チラチラとキクの 表情を窺う。キク本人は何故ギルベルトがこちらを見てくれないのかと寂しそうな 顔で哀願するように見上げている。ヤバイ、これは、泣く。 「その、あの、なんだ、ちゅっちゅってつまり、キス、のことで、ホラ、そういうの、 普通マスターとはしない、だろ?な?」 しどろもどろに説明をして聡明な菊が納得してくれるのを願ったが、じゃあ私は してもらえないんですね?とキクはますますしょんぼり落ち込んで、黒目がちの 目に水分が溢れんばかりに溜まっていくのをはっきり確認してしまう。泣く、もう だめだ、これは泣く。 「あーわかったわかった!わかった!わかったから!泣くな!泣くなよ!してやる から!してやるって!」 ギルベルトは破れかぶれに喚くと、キクは嬉しそうに幸せそうににっこり笑った。 目を閉じるという作法すら知らぬキクに順序通り教えてやりながら恐る恐る顔を 近づける。そのあいだちゃんと歯磨いたよな?とか、ガムでも噛んどきゃよかった とか、どうでもいいことが頭の中で浮かんでは消え消えては浮かんで、心臓が バクバクいってうるさくて仕方がない。ゆっくりゆっくり慎重に近づいて、キクの 予想よりも柔らかいくちびるにちょんと触れたときなど心臓が破裂すんじゃね? とか、いやいっそ死んだほうがマシ!と思ったぐらいだった。時間にしてみたら 二秒三秒ほどの短いキスだったのに実際は何分にも何十分にも思えて、許可が 出てやっと目を開けたキクは何がなんだかわからないといった困惑の表情では なく、何故かギルベルトと同じような真っ赤な顔で困ったように眉根を寄せて、 余計に目を潤ませていた。 「…あ、あの…は、ずかし…です、ね」 何にも知らないはずのキクがそう感じるなら俺はもっと恥ずかしいんだよバーカ バーカ!とギルベルトは胸中で悪態をついた。でもとりあえず泣かさずに済んだ だろう。ミッションコンプリートだ!と満足げに高笑いで流してしまおうと思えば。 居間の二つのドアにそれぞれ立っていた兄弟が生ゴミでも見るような心底軽蔑 しきった目でギルベルトを見下ろしていた。直後、キクが報告したらしいヒゲ変態 からもいくら俺でも口はないわ…普通ほっぺただろ…で、ギルベルト君は俺の かわいいキクちゃんに何しちゃってるわけ…?と世にも恐ろしい声で音声付の メールが届いていてギルベルトは先走った行動を深く深く反省すると共に、この 先やりかねない行動を思うとそう遠くない未来どんな非難が待っているのか気が 重くなった。 |