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企業で社長も実兄だ。二代目社長である兄はひと癖もふた癖もある男で、弟妹 たちもアクの強い性格ときている。ゆえにあいだを取り持つのは穏やかな気質で バランス感覚に優れ、弁も立つ菊の他になかった。それでも口論は絶えないが 両親の死後もそれなりに仲良く幸せに暮らしていた、イヴァンが現れるまでは。 イヴァンは大口の取引先の社長の息子で、将来を約束された男だった。こんな 小さい町工場では取引先がひとつ減るだけで立ち行かなくなることだって充分に あり得る。暇があると用もないのに訪ねてくるイヴァンをもてなし機嫌を取ることは 菊にとって最重要任務である。よりによってイヴァンは菊を気に入っていたのだ。 一方、菊はイヴァンが苦手でしょうがなかった。やり手とは聞いていても目的の ためには手段を選ばないやり口がどうにも気に入らない。毒気のない笑顔で覆い 隠した腹の中でどんな汚い企みを練っているか知れない態度も気に食わない。 そこのお菓子ちょうだいとねだるような軽さで君うちの社に来ない?こんなとこで すずめの涙程度の給料で我慢してるの楽しい?とたびたび誘ってくるのもただ 気に障るだけだった。しかしこういう厄介な人物を適当にあしらうのも兄弟との やり取りで鍛えられた菊にはたいした手間ではなく、機嫌だけは損ねずにうまく かわしていた…はずだった。どうしても思うようにならない菊は本人の気づかぬ ところで少しずつ不興を買っていたらしい。イヴァンはある日突然、わずかに似た 面差しの若い女性を連れてきた。 「君、この子と結婚してもらうから」 いつもより迫力のある笑顔、いつもより低い声は君には拒否権なんてないよと 言わんばかりだ。女性は菊より背が高く、人形のように無表情だ。けれど結婚 したいかどうかはともかく、自分にはもったいないぐらいの美人だと菊は思った。 イヴァンは彼女を妹だと紹介した。女性は表情のないまま丁寧にお辞儀をして ナターリヤと名乗った。君がこの子と結婚したら僕たち義理の兄弟になれるね? とイヴァンはいつものペースを取り戻してにこにこ笑っていた。本人の気持ちは どうなんですかと至極真っ当なことを菊は反論した。が、ナターリヤは自ら一枚の 書類を菊に差し出した。すでに彼女の分は記入済みの入籍届だった。断ったら どうなるかわかってるよね?とイヴァンは念を押す。菊に逃げ道はない。こうして 会ったばかりでよく知りもしない女性と菊は結婚することになった。もちろん兄弟 たちは口々に反対したが、これが何より家族のためなのだと沈黙を押し通した。 こちらの懐事情も知ってか華やかなドレスも給料の三か月分の指輪も要らないと 言うナターリヤに菊は形式として揃いのシンプルな指輪をプレゼントして、衣装を 借りて写真だけは撮った。妹の晴れ姿をイヴァンは喜んでいたが本人が喜んで いたかまではわからなかった。ナターリヤは無口で夫となった菊ともほとんど口を 利かない。家事はきちんとするし、乱雑だった料理も徐々に菊の舌に合うものに なっていく。同じ屋根の下に長く住んでいれば情も湧き、次第に妻としてではなく 妹のような存在として大切に思うようになった。おかげで特別扱いのナターリヤは 菊の実の妹とは多少わだかまりがあるようだったが、ゆっくりと新しい家族の形を 成していった。イヴァンは相変わらず暇を見つけては工場に訪れて、妹と義弟の 顔を見に来て何が悪いの?と楽しそうに笑う。ナターリヤは表情筋に何か問題が あるのではないかと菊が心配するほど表情を変えなかった。だがイヴァンが来た ときだけは不器用に微笑んでいることにいつしか気づく。手土産にリボンや服を 贈られるとイヴァンが帰ってもそれらを嬉しそうに眺めていた。ナターリヤが結婚を 承知したのはそれがイヴァンの望みだったからだ、彼女は自分ではなくイヴァンを 深く愛しているのだ。ナターリヤを好ましく思っているからこそ菊は彼女の真実を 見つけた。ならばどんなことがあっても彼女に触れずにいようと固く心に誓った。 ナターリヤの想いを大事に守ってあげたかった。そんな日々が続いてイヴァンが 次に求めてきたのは子供が生まれたら養子にほしいということだった。望まない 相手の子を成せと最愛の兄に目の前で告げられたナターリヤの失意は菊でなく とも勘づくほど。なのに肝心のイヴァンだけは妹の感情の変化を気にも留めない。 その夜はイヴァンからの贈り物を抱いて遅くまでナターリヤは声も出さずに泣いて いた。結婚して初めて見る、妻の涙だった。兄に似て気性の激しいところのある 妹に悪し様に罵られても顔色ひとつ変えず、逆に言い負かすほどの強い精神を 持つナターリヤがこんなにも。菊には気の利いた慰めの言葉も思い浮かばない。 せめて知らないふりをしてやろうと普段通り別の寝室で眠っていると朝方近くに ドアが開いた。ナターリヤだった。下着姿でベッドに上がってくる。泣くほど嫌だと いうのにイヴァンが望みであればどんな苦渋も飲み込んで叶えようというのか。 それほどナターリヤはイヴァンを愛しているのか。暗がりでも見える固い表情を 見上げた菊は絶対に揺るがない彼女の意思を知り、性的な目的を持って触れて きた手をそっと払い除けた。 「…すみません。実は私、インポなんです。だから子供を作ることは出来ません。 たとえイヴァンさんの望みでも」 菊はそう言い訳するしかなかった。下手な嘘に対してか、それとも使えない 菊に対してかナターリヤはくちびるを噛む。到底詫びになるとは思えなかったが くちづけを落として最初で最後の夫婦らしい行動をした。イヴァンの愛の代わりに なるとは思っていない。それでも菊に出来ることはそれだけだった。ナターリヤは 表情を歪めて部屋から出て行った。あんな美女に襲われるなんて一生に一度 あるかどうかの機会だ、もったいないことしたなと冗談半分に思いながらも菊は 後悔していない。あれからナターリヤがどうやって朝まで過ごしていたのか知る 由もない。翌朝の赤い目も気づかないふりをした。そのうちイヴァンがまた様子を 見に来て君たちまだ子供出来ないの?と急かしたが菊が同じ説明を繰り返すと イヴァンは残念だと口を尖らせていた。治療を勧めてきたら今度は無精子症と でも言えばいい。とにかくイヴァンが諦めるまでさまざまな言い訳をして思惑を 潰していくつもりだ。彼女のためなら菊はどんな嘘だってつける。妻として、妹と して、家族として、そのどれでもない愛情が菊の胸の中を占めている。子供が 出来ない代わりに犬でも飼いましょうかと尋ねると宝石のひとつもない菊の給料 ではギリギリだった粗末な指輪をナターリヤは撫でるようにくるりと薬指で回して ほんのわずか口元を緩めながら頷いた。 |